古典怪異図鑑CLASSICAL YOKAI ARCHIVE
奇怪千万古典怪異図鑑御霊・怨霊
FILE 17 / 都・鎮魂

御霊・怨霊

ごりょう・おんりょう

祟る死者を神として鎮める

平安京で病が流行し、大勢の人が倒れた。治療や祈祷を行っても収まらない。人々は、政争に敗れ、恨みを残して死んだ者たちが都へ戻ったのだと考えた。貞観五年五月二十日、朝廷は神泉苑に祭壇を設け、早良親王ら六人の霊へ花と食べ物を供えた。読経、音楽、舞、相撲まで行い、苑の門を開いて都の人々を入れた。

雷雲の都で社へ迎えられる御霊と鎮魂の灯
雷雲の都で社へ迎えられる御霊と鎮魂の灯

神泉苑に招かれた六つの霊

早良親王は、藤原種継暗殺事件への関与を疑われ、皇太子の座を追われた。淡路へ送られる途中、無実を訴えて食を断ち、亡くなる。その後、桓武天皇の近親者の死や疫病、洪水が続くと、早良親王の祟りだと恐れられた。朝廷は墓を改め、「崇道天皇」の追号を贈った。

八六三年の神泉苑御霊会では、崇道天皇のほか、伊予親王、藤原吉子、橘逸勢、文室宮田麻呂ら、非業の死を遂げた六人の霊をまつった。僧が『金光明経』と『般若心経』を読み、雅楽と舞が奉納された。病を運ぶ霊を都の外へ捨てるのではなく、公の祭りへ招き、怒りを鎮めようとした。

雷雲の都で鎮魂の灯と供物が並び、その向こうに衣冠姿の御霊が静かに立つ場面
雷雲の都で鎮魂の灯と供物が並び、その向こうに衣冠姿の御霊が静かに立つ場面

語りの移り変わり

  1. 785年早良親王が廃され、淡路へ送られる途中で亡くなる。
  2. 863年神泉苑で崇道天皇ら六柱をまつる御霊会が開かれる。
  3. 903年菅原道真が大宰府で亡くなり、後に雷と疫病の怨霊として恐れられる。
  4. 947年北野に道真をまつる社殿が建てられ、天神信仰が広がる。

雷となった菅原道真

菅原道真は昌泰の変で大宰府へ左遷され、九〇三年にその地で亡くなった。数年後、道真を陥れたとされた人々が相次いで死に、御所では落雷による死傷者が出る。清涼殿落雷は道真の怨霊の仕業と受け取られ、朝廷は処分を取り消し、官位を戻した。

京都の北野へ社が建てられ、道真は天満天神としてまつられる。雷と疫病を起こす恐ろしい霊は、やがて学問と詩文を守る神として全国の天満宮へ迎えられた。生前の道真が優れた学者だった記憶が、鎮められた後の神の役割に残っている。

疫病と落雷に揺れる平安京で、人々が非業の死を遂げた人物の霊を恐れる場面
疫病と落雷に揺れる平安京で、人々が非業の死を遂げた人物の霊を恐れる場面

恐れられた死者を神へ迎える

怨霊と御霊は、まったく別の種類の霊ではない。災いを起こすと恐れられた怨霊を、祭りと社によって丁重に扱うと、都や一族を守る御霊になる。恨みの原因とされた処分を取り消し、官位や追号を贈ることも鎮魂の一部だった。

保元の乱で讃岐へ流されて亡くなった崇徳院も、都の争乱や大火が続くなかで強い怨霊とされた。後白河法皇は「崇徳院」の追号を贈り、明治時代には京都の白峯神宮へまつられた。死後の災害を特定の人物の霊と結び付けた判断は、当時の政治と信仰の中で行われた。疫病や雷の自然な原因とは別に、なぜ都が狙われたのかを説明し、亡くなった者との関係を修復するための祭りが続いた。

御霊会の広場で供物と灯明が並び、楽人と参列者が霊を丁重に迎える場面
御霊会の広場で供物と灯明が並び、楽人と参列者が霊を丁重に迎える場面
雷雲の下で衣冠姿の怨霊が都を見下ろし、人々が社へ駆け込む場面
雷雲の下で衣冠姿の怨霊が都を見下ろし、人々が社へ駆け込む場面
鎮めの祭礼を終えた社で、恐れられた御霊が守護神として祀られる場面
鎮めの祭礼を終えた社で、恐れられた御霊が守護神として祀られる場面
SOURCES

主な参考資料