神泉苑に招かれた六つの霊
早良親王は、藤原種継暗殺事件への関与を疑われ、皇太子の座を追われた。淡路へ送られる途中、無実を訴えて食を断ち、亡くなる。その後、桓武天皇の近親者の死や疫病、洪水が続くと、早良親王の祟りだと恐れられた。朝廷は墓を改め、「崇道天皇」の追号を贈った。
八六三年の神泉苑御霊会では、崇道天皇のほか、伊予親王、藤原吉子、橘逸勢、文室宮田麻呂ら、非業の死を遂げた六人の霊をまつった。僧が『金光明経』と『般若心経』を読み、雅楽と舞が奉納された。病を運ぶ霊を都の外へ捨てるのではなく、公の祭りへ招き、怒りを鎮めようとした。

語りの移り変わり
- 785年早良親王が廃され、淡路へ送られる途中で亡くなる。
- 863年神泉苑で崇道天皇ら六柱をまつる御霊会が開かれる。
- 903年菅原道真が大宰府で亡くなり、後に雷と疫病の怨霊として恐れられる。
- 947年北野に道真をまつる社殿が建てられ、天神信仰が広がる。
雷となった菅原道真
菅原道真は昌泰の変で大宰府へ左遷され、九〇三年にその地で亡くなった。数年後、道真を陥れたとされた人々が相次いで死に、御所では落雷による死傷者が出る。清涼殿落雷は道真の怨霊の仕業と受け取られ、朝廷は処分を取り消し、官位を戻した。
京都の北野へ社が建てられ、道真は天満天神としてまつられる。雷と疫病を起こす恐ろしい霊は、やがて学問と詩文を守る神として全国の天満宮へ迎えられた。生前の道真が優れた学者だった記憶が、鎮められた後の神の役割に残っている。

恐れられた死者を神へ迎える
怨霊と御霊は、まったく別の種類の霊ではない。災いを起こすと恐れられた怨霊を、祭りと社によって丁重に扱うと、都や一族を守る御霊になる。恨みの原因とされた処分を取り消し、官位や追号を贈ることも鎮魂の一部だった。
保元の乱で讃岐へ流されて亡くなった崇徳院も、都の争乱や大火が続くなかで強い怨霊とされた。後白河法皇は「崇徳院」の追号を贈り、明治時代には京都の白峯神宮へまつられた。死後の災害を特定の人物の霊と結び付けた判断は、当時の政治と信仰の中で行われた。疫病や雷の自然な原因とは別に、なぜ都が狙われたのかを説明し、亡くなった者との関係を修復するための祭りが続いた。






