紀伊国坂で泣く女
小泉八雲の「むじな」は、夜の紀伊国坂を舞台にする。坂の片側には深い堀があり、夜になると人通りが絶えた。遅い時刻に通りかかった老商人は、堀端へうずくまり、袖で顔を覆って泣く若い女を見つける。身なりがよいため、身投げを考えているのではないかと心配した。
商人が何度も声をかけると、女はゆっくり顔を上げた。そこには目も鼻も口もなく、滑らかな皮膚が広がるだけだった。商人は悲鳴を上げて逃げ、遠くに見えた灯火へ走った。灯りは屋台の蕎麦屋のものだった。

語りの移り変わり
- 江戸時代狸や狢が人へ化け、顔を消して驚かす話が各地で語られる。
- 明治期小泉八雲が妻セツらから日本の怪談を聞き取り、英語で再話する。
- 1904年『Kwaidan』に紀伊国坂を舞台とする「Mujina」が収録される。
- 近現代顔のない人型妖怪を指す名として、のっぺらぼうが広く定着する。
蕎麦屋でもう一度消える顔
商人は蕎麦屋へ飛び込み、店主に助けを求める。息を整えながら、堀端で女の顔が消えたことを話した。店主は背を向けたまま、「その顔は、こんなふうでしたか」と尋ねる。振り向いた男の顔にも、目鼻口がない。
その瞬間、屋台の灯が消え、あたりは再び真っ暗になった。最初の女から逃げ切ったことで安心させ、話を聞く普通の人まで同じ怪物に変える。二度目には逃げ込む先もなく、この短い怪談はそこで終わる。

むじなとのっぺらぼう
八雲は一九〇四年の『怪談』に、この話を英語で「Mujina」として収めた。語り手は冒頭で、ムジナを穴熊に似た動物で、ときに人を化かすと説明する。しかし物語に動物は姿を見せず、女と蕎麦屋の顔が消えるだけである。
日本では狸や狢が人に化ける話が多く、顔のない怪も正体を狢と呼ばれることがあった。現在は、顔の表面がのっぺりしている姿から「のっぺらぼう」の名が一般的になった。人を殺すのではなく、知っているはずの人間の顔から、表情も身元も一瞬で奪って見せる。






