賀茂大路を走る顔の車
『今昔百鬼拾遺』の絵では、牛車の正面いっぱいに険しい顔がある。眉を寄せ、歯をむき、頬は風を受けるように歪んでいる。牛も従者も描かれず、車だけが雲の中から現れる。見物人はおらず、昼の都とは違う静かな大路である。
詞書には、昔、賀茂大路で朧夜に車のきしむ音を聞き、出てみると異形のものだったとある。続けて石燕は「車争いの遺恨にや」と記した。何者の霊かを断定せず、祭りの席をめぐって残った恨みかもしれない、と読者へ差し出している。

語りの移り変わり
- 11世紀初頭『源氏物語』葵巻に、六条御息所と葵上方の車争いが描かれる。
- 平安時代賀茂祭などの見物で、貴族の牛車が場所を争うことがあった。
- 1780年鳥山石燕『今昔百鬼拾遺』が朧車を描く。
- 近現代六条御息所の遺恨と結びついた牛車の妖怪として紹介される。
葵祭の車争い
平安時代の祭礼では、貴族が牛車を連ねて行列を見物した。よく見える場所を確保することは家の威勢にも関わり、従者同士が車を押しのけて争うことがあった。『源氏物語』葵巻では、光源氏の姿を見ようと来た六条御息所の車が、懐妊中の葵上の一行に押しのけられる。
御息所は人前で屈辱を受け、その後、彼女の生霊が葵上を苦しめる。朧車を御息所の車とする見方は、この有名な場面から生まれた。ただし石燕の詞書に『源氏物語』や六条御息所の名はなく、特定の一台ではなく車争い全般の遺恨を描いた可能性も残る。

車と人が一つになった顔
牛車は御簾で乗る者の顔を隠し、家柄や身分を外側へ示す乗り物だった。朧車では、その御簾の場所に顔がむき出しになっている。乗っていた者が姿を現したのではなく、恨みの表情が車の一部になった。
朧月は輪郭をぼかし、遠くの車を実体のない影に見せる。まず車輪の音が聞こえ、遅れて顔が闇から浮かぶ。昼の祭礼で押しやられた車が、見物人の消えた夜の大路を取り戻すように進む。朧車は誰かを追うよりも、音と顔を残して通り過ぎる。






