奥多摩、湖の下の村

奥多摩、湖の下の村

名を呼べば、湖の下の暮らしが返る

カクヨム掲載作品の紹介ページです。脚色を含む実話・モデルのある作品として扱い、全文転載はせず、概要と第1話冒頭のみ掲載しています。

連載状態: 完結済 / ジャンル: ホラー / 収録話数: 8話

怪談怖い話

概要

あらすじ

民俗記録を追っていた元恋人・志乃の遺品から、一冊の黒いノートと未整理の録音データが見つかった。
そこには、奥多摩湖に沈んだ旧集落の名と、意味の分からない一文が残されていた。

――返し場
※場所ではない

編集者の「私」は、志乃が最後に追っていたものを確かめるため奥多摩へ向かう。
移された神を祀る社、橋の向こうで名を呼ぶなという古い言い回し、供養碑の裏に残る欠けた刻線、山へ返すものと水へ沈めるものの順。
ばらばらに見えた記録はやがて、湖に沈んだ村の“場所”ではなく、“暮らしを戻す順番”を指していたと分かっていく。

音から先に村が戻る夜、主人公は呼びたい名を呼ばないまま、志乃が残したものを返しに行く。
これは心霊の証明ではなく、なかったことにするには手触りが残りすぎた記録である。

登場人物紹介


出版社勤めの編集者。
民俗や聞き書きを扱う仕事をしている。
物事を整理し、読める形へ整えることに慣れているが、志乃に関わることだけは順番どおりに片づけられない。

志乃
民俗記録を追っていた女性。
主人公の元恋人。
寡黙で、現場の手触りを何より重視する。
記録を世に出すことより、記録の持ち主や土地の順番を守ることを優先していた。

小○内神社の女性
湖の下になった集落から移された神々を祀る社で掃除をしている年配の女性。
よそ者へ多くを語らないが、橋の向こうで名を呼ぶなという古い言い方だけははっきり残している。

今井
奥多摩の郷土史に関わる男。地図や旧道に詳しい。

日原の女
川沿いの店先にいる年配の女性。
山へ返すものと水へ沈めるものは別だと知っている
志乃が何度も画面を見て、誰かを来させないようにしていたことを覚えている。

目次

  1. 第1話 遺品の中の湖底地図
  2. 第2話 九つの神を移した社
  3. 第3話 供養碑の裏の道順
  4. 第4話 日原は山へ返す
  5. 第5話 録音に入った私の声
  6. 第6話 返し場は場所ではない
  7. 第7話 水底へ返す夜
  8. 最終話 公開しなかった原稿

第1話 遺品の中の湖底地図

志乃の遺品から出てきた音声には、まだ奥多摩へ行っていない日の、私の声が入っていた。

最初は、使い回しだと思った。取材で機材を貸し借りしたことはあるし、データの整理がどこかで混ざったのだろうと考えるほうが自然だった。ところが、イヤホンの奥で自分の声が「そこで名前を呼ばないで」と低く言い、その直後に志乃らしい息の揺れがひとつ重なったところで、私はいったんパソコンを閉じた。

十月の終わりで、部屋は乾いていた。窓を閉め、除湿機も動かしていたから、紙が湿気を吸う余地はほとんどない。なのに、遺品箱から出した黒い大学ノートだけ、表紙の角がわずかに柔らかかった。押し入れへ長く入れていた本のように、紙の奥だけが湿りを抱えている。

遺品整理は、やりたくて引き受けたわけではない。志乃と別れてから、もう一年近く経っていた。断る理由はいくらでもあった。ただ、志乃の字を見れば、それが取材メモなのか、あとで消すつもりの走り書きなのか、私はだいたい分かる。そういう役目だけが、まだこちらに残っていた。

箱の中身は多くなかった。服が二箱、書籍が三箱。私のところへ回ってきたのは、仕事で共有していた資料と、ノート類と、細かい記録媒体だった。梱包の古新聞を抜き、くしゃくしゃになった緩衝紙を脇へ寄せる。底に、灰色の細かい粉が少し落ちていた。埃にしては色が薄い。指先でこすると、紙の滓みたいに柔らかく崩れた。

黒いノートは、その粉のそばにあった。

表紙に何も書いていない。開くと、一ページ目に太い字で一行だけある。

――小河内は、沈んで終わったわけじゃない。

その下へ、地名が縦に並んでいた。
原。河内。川野。留浦。峰。
読めるものと、自信のないものが混じる。丸や矢印が重なり、最後に別のペンで大きく囲った言葉があった。

返し場
※場所ではない

意味より先に、書き方が気になった。

志乃は、仕事でこういう残し方をしない。取材相手の名前、年齢、聞いた時刻、場所。最低でもそのあたりは押さえる。言葉だけ囲って終えるのは、よほど焦っている時か、現場で飲み込めない話を聞いた時くらいだ。

ノートをめくった拍子に、…

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