第1話「滴」
引っ越してきて三日目の夜のことだ。
家賃の安さだけで決めた部屋だった。築年数は聞かなかったし、聞いたところで住むつもりだったから関係なかった。
駅から離れた場所で、まわりには畑と古い住宅が静かに並んでいる。窓は北向きで昼でも日が差さず、すぐ下は畑だった。
掘り返された土の黒さが、いつも湿って見えた。内見の日に案内してくれた不動産屋は窓を一度も開けようとしなかった。
説明もそこそこに、鍵だけ私に押しつけて帰っていった。私はそのとき、ただ無愛想な人だと思っただけだった。
荷ほどきに疲れて布団に寝転んでいた。古い畳のにおいと新しい段ボールのにおいが混ざっている。天井はまだ見慣れない。蛍光灯の傘の縁に、小さな黒い点がひとつあった。前の住人が残した虫の死骸だろうと思って、明日にでも拭けばいいかとそのままにした。
ぽつ、と音がした。
水の音だった。天井のあたりから何かが落ちて床にあたる、低くて湿った音だ。コップの水をこぼした音とは違う。もっと粘っこくて、落ちたあとに少し尾を引くような音だった。私は半身を起こして耳をすませた。雨の予報は出ていなかったはずだし、窓の外の路面は街灯の下でどこまでも乾いている。
ぽつ。
二度目で場所が知れた。台所のほうだ。蛇口をちゃんと閉めなかったのかもしれないと思って、布団を出て暗い廊下を裸足で歩いた。スイッチを入れる。蛇口は固く閉まっていた。シンクの底も伏せたコップの内側も、水気はどこにもない。
それでも音は続いていた。
ぽつ。ぽつ。一定の間で落ちている。耳で追ってみると、音の出どころは台所ではなく寝室のほうだった。さっき自分が出てきたばかりの部屋だ。私は廊下を戻って電気をつけた。布団の上にもまわりの畳にも水のあとはない。見上げた天井の板もしっかり乾いていた。
立ったまま五分ほど待ったが、明かりをつけているあいだ音は一度も鳴らなかった。気のせいということにして電気を消そうとしたが、消すとまた鳴りだしそうな気がして、結局つけたまま壁にもたれて夜を明かした。明け方近くにうとうとしても、夢のなかで遠くの水音が続いていた。
翌日の昼に部屋じゅうを点検して回った。押し入れの天井板を外して中をのぞき、洗面所の下の戸も開けてみる。配管はどこも乾いていて、カビのにおいすらしなかった。築年数のわりに、部屋のどこにも生活の湿り気が残っていない。むしろ乾ききっていた。それがかえって落ち着かなかった。
夕方になって管理会社に電話をかけた。
「上の階で水漏れか何か、ありませんでしたか」
「ええと二〇三号室ですよね。あそこ、半年くらい空室なんですよ」
担当者は若い男の声だった。書類をめくる音がして、しばらく間があった。
「水道の使用記録もないですね。古い建物なんで、夜中に配管が鳴ることはありますよ」
「そうですか」
「気になるようでしたら、また連絡ください」
私はそうしますと答えて電話を切った。配管の音だと言われればそんな気もする。引っ越しの疲れもあったのだろうと、自分に言い聞かせた。
その夜も同じ時刻に音はした。
午前一時を少し過ぎたあたりだ。ぽつ。ぽつ。私は枕元の時計を確かめてから天井をゆっくり見上げた。落ちる場所が前の晩より近い気がする。布団のすぐ脇、畳の上のあたりだ。
手を伸ばして畳に触れてみると乾いていた。指の腹に冷たさだけがうっすら残る。畳の目に沿って手のひらを滑らせても、どこにも湿り気はない。それでも音は私の手のすぐ横で規則正しく落ち続けていた。私はそのまま朝まで眠れなかった。天井のしみを数えるうちに、音はいつのまにか消えていた。
二日目の朝に洗面所で顔を洗おうとしたとき、排水口から土のにおいがのぼってきた。雨上がりの庭のようなにおいだ。水をしばらく流すとにおいは消えた。これも気のせいだろうと思うことにした。
その日のゴミ出しの場所で、隣の部屋の老人と顔を合わせた。世間話のついでに夜の音のことを軽く話してみた。老人はこちらの顔を見ようとせず、ゴミ袋を所定の枠に押し込みながらぼそりと言った。
「前の人も、同じこと言ってたよ」
それだけ言って老人は背を向けて歩いていった。前の人がどうしたのか私は聞きそびれた。というより聞いてはいけない気がして、足が動かなかったのもある。背中を見送っているあいだ、なぜか足の裏だけが冷たかった。
部屋に戻ってから前の住人のことが気になって、郵便受けをのぞいてみた。表札は最初から外されていて、宛名のないチラシが何枚かたまっているだけだった。それ以上のことは何もわからなかった。
三日目の夜、私は音が鳴る前から起きて待っていた。
電気は消したままだ。布団に仰向けになって天井の暗がりをじっと見ている。部屋の空気がやけに冷たい。暖房をつけても足元だけが、井戸のそばに立っているように冷えていた。一時を回る。自分の心臓の音が耳の奥でうるさいくらいに鳴っている。
一時三分。ぽつ。
今度は枕のすぐ横で鳴った。私は息を止めて畳に耳を近づけた。音は畳の下から来ていない。私の頭の上、ちょうど顔の真上の高さで鳴っている。手を上げてその高さの空気をそっと探った。
そこには何もない。天井までは一メートル以上ある。
ぽつ。
頬に冷たいものが落ちた。
私は飛び起きて電気をつけた。頬を手の甲でぬぐう。濡れている。指を鼻先に近づけると土のにおいがした。あの排水口と同じ、雨上がりの庭のにおいだ。蛇口から出る水とはまるで違う。布団の同じ場所に小さな染みがひとつだけ残っていた。その染みは洗っても落ちず、結局その布団は捨てることになった。
そのまま玄関を出て外廊下の手すりにもたれた。夜気は乾いていて、土のにおいなどどこにもしない。畑のほうを見下ろすと暗がりに誰かが立っているように見えたが、目をこらすと支柱の影だった。手すりの鉄は冷たかった。握った手のひらにまた土のにおいが移っている気がして、私は服の裾でこすった。
それきり音はしなくなった。
私は念のため業者を呼んで天井裏を見てもらった。年配の職人が点検口から首を入れて、懐中電灯であちこちを照らしてから首をかしげた。
「結露の跡もないねえ。そもそもこの上、配管通ってないよ」
職人はそう言って軍手の埃をぱんと払い、蓋を閉める前にもう一度だけ天井裏をのぞいて、何も言わずに降りてきた。原因はわからないまま、私はその部屋にもう半年ほど住んだ。
あの夜のようなはっきりした音は二度と鳴らなかった。ただ雨の降る日だけは決まって落ち着かなかった。
窓を打つ雨音にまじって、あの一定の間隔がどこかで鳴っている気がしたからだ。耳をすますと、いつもただの雨音に戻った。
引っ越しの片づけで、最後に蛍光灯の傘を外したときのことだ。
縁にあった黒い点は虫ではなかった。小さな指の跡だった。子供の指くらいの大きさで、内側から押し上げたように傘の樹脂がへこんでいる。点の周りには乾いた水の輪がうっすらと残っていた。
私はその傘を新聞紙にくるんで部屋を出た。集積所の枠に押し込んだとき、あの老人とまったく同じ手つきになっていることに気づいて、少しだけ手が止まった。
次に住んだ町でも、雨の降らない夜にあの土のにおいをかぐことがある。かいだ次の朝はきまって、玄関のたたきに小さな水のあとがひとつだけついている。拭いても次の朝にはまた、同じ場所についている。だから今はもう、拭くのをやめてしまっている。
第2話「足あと」
友人のNが、郊外に古い一軒家を買ったと連絡してきた。
相場よりずいぶん安かったらしい。事故物件ではないと不動産屋は念を押したそうだが、その念の押し方がかえって気になったとNは言っていた。庭付きで駅からは遠いが車があるから問題ないと言う。新居祝いに来いと誘われて、私は休みの日に電車を乗り継いで出かけた。
最寄り駅からは畑のなかの一本道を二十分ほど歩いた。同じような瓦屋根の家がまばらに建っているだけで人の姿はほとんど見かけない。道のわきには浅い用水路があって、底に黒い泥がたまっていた。水は流れていなかった。途中に一軒、雨戸を閉めきった空き家があった。表札の跡だけが白く残り、文字はもう読めない。
Nの家は道の突き当たりにあった。思ったより大きく、築五十年は超えているだろう。黒い瓦の屋根が低くかぶさり、軒下には蜘蛛の巣が張っている。庭の隅には板で蓋をされた古い井戸があった。蓋の上には漬物石のような石がふたつ載せてある。石の表面は乾いているのに、蓋の木だけが黒く湿って見えた。
玄関に荷物を置いて家のなかを案内してもらった。
廊下は奥に長く、突き当たりに和室が二間続いている。日当たりは悪く昼でも電気をつけないと薄暗い。畳は新しく替えたばかりらしく、まだ青いにおいがした。Nはこの間取りが気に入っていると言い、ここなら子供が走り回れると笑った。Nに子供はいない。いつか、という意味だったのだろう。
台所に入ってすぐ床のことに気づいた。
シンクの前の板が一枚だけ色が濃い。しゃがんで触れてみると表面がうっすら湿っている。Nに言うと、ああそこ水はけが悪いみたいでと笑った。雑巾で拭いても夕方にはまた湿ってるんだよなと、たいして気にしていない様子だ。古い家ではよくあることだろうと、私もそのときは思っていた。
夕方からNと二人で庭に出て酒を飲んだ。Nは引っ越してから少し痩せたように見える。よく眠れているのかと聞くと、新しい家はどうも寝つきが悪くてと曖昧に笑った。仕事のせいだろうと、私はそのときは聞き流した。涸れた井戸の蓋を眺めながら、それとなく尋ねてみた。
「あれ、使えるのか」
「いや、もう涸れてるって。前の持ち主が蓋しといたみたい」
Nはそう言って家を買ったときのいきさつを話した。不動産屋はこの家のことをあまり喋りたがらず、内見も一度きりで、やけに契約を急がせるところがあったらしい。前に住んでいた家族は子供を連れて急に出ていったという。引っ越しというより夜逃げに近かったと近所の人は話していたそうだ。理由まではわからないと、Nは缶を傾けながら付け加えた。庭の奥で、虫の声がやけに遠かった。
夜が更けて私は奥の和室に布団を借りて寝た。
目が覚めたのは喉の渇きのせいだった。布団を抜け出すと畳がひんやりして、足の裏に湿り気が伝わった気がする。確かめようと足元を見たが暗くてよく見えない。私は手探りで廊下に出た。トイレに立ったのは、たぶん二時を回ったころだ。
廊下の電気をつけると床に濡れた跡があった。点々と続いている。足跡だった。私の足よりずっと小さく、子供の素足くらいの大きさだ。台所のほうから和室の前まで、まっすぐに伸びている。
Nの家に子供はいない。
私はしゃがんで跡を確かめた。間違いなく水だ。
指につけて嗅いでみると土のにおいがした。雨上がりの庭のようなにおいで、蛇口の水とはまるで違う。
背中の産毛がそっと立ったが酔いのせいだと思うことにした。台所で雑巾を探して跡を拭き、布団に戻った。
それでも明け方まで眠れなかった。天井の木目を数えながら、廊下の物音にずっと耳をすませていた。
明るくなってから畳を見ると、布団の脇に小さな足の形をした乾いた輪が、うっすら白く浮いていた。Nを起こすのもためらわれて、私は手のひらでそっとこすって消した。
朝になってNにそのことを話すと、Nは少し黙ってから、実は俺も何度か見たと言った。
「最初は気のせいかと思ってさ。でも毎晩じゃないんだ。雨が降ってない日に決まって出るんだよ」
私は飲みかけのコーヒーを置いた。雨が降っていない日にという言葉が、妙に耳の奥に残った。
近所の年寄りに少し聞いた程度だがと前置きして、Nはこの土地のことを話した。この一帯はもとは低い土地で昔はよく水が出たらしい。古い地図には池のような印があったとも言う。本当かどうかはわからないただの世間話だと、Nは笑ってみせた。その笑い方が少しだけぎこちなかった。
その日はそのまま帰るつもりだった。だが昼過ぎから雨雲が広がり、近くを走る私鉄が止まってしまった。Nがもう一泊していけと言うので私は断りきれなかった。
雨の日の昼でも台所の床は変わらず湿っていた。むしろ朝より濃く濡れて見える。Nはテレビをつけて缶ビールを開けたが、私は気が散って画面に集中できない。窓ガラスを伝う水の筋を眺めていると、あの床のことばかり考えてしまう。何度か台所をのぞきに行くたび、濡れた範囲が少しずつ広がっている気がした。
二日目の夜、私はわざと起きて廊下を見張った。
電気は消したままにした。和室の襖を少しだけ開けて廊下の暗がりに目を凝らす。待っているあいだ、私は息を浅くして物音を拾っていた。家鳴りの軋み。冷蔵庫の低い唸り。庭で揺れる木の枝。どれも家のたてる普通の音だった。膝が痺れてきたころ、それらとは違う音が混じった。
台所のほうから、水を踏むような音がした。ぴた。ぴた。裸足が板を叩く音だ。間隔は規則正しい。
足音は、廊下を近づいてきた。
電気はついていない。それでも床の濡れた跡だけが青白く浮いて見える。跡は一歩ずつこちらへ伸びて、和室の前でぴたりと止まった。襖のすぐ向こうだ。
音も、止まった。
土のにおいが襖の隙間から流れ込んできた。濃い。庭の井戸を開けたときのような、底から汲み上げた水のにおいだ。私は襖を閉めることも開けることもできず、ただ畳に手をついていた。喉が渇いて、唾を飲む音が自分でもうるさい。暗がりの、濡れた跡のすぐ上のあたりで、空気がゆらりと盛り上がって見えた気がした。目をこすってもう一度見ると、ただの暗がりに戻っていた。
しばらくして足音は来た道を戻っていった。台所のほうへ一歩ずつ遠ざかる。私が思いきって襖を開けたとき、廊下にはもう何も残っていなかった。濡れた跡も、においも、すっかり消えている。
朝、私はNに何も言わずに帰った。
帰りの電車で、前に住んでいた部屋のことを思い出していた。あの天井から落ちる音と、同じにおいだった。だがそれをNに話す気にはなれなかった。話したところで何が変わるわけでもない。窓の外を、雨に濡れた畑が流れていく。座席に座っているのに、足の裏だけがまだ湿っているような感覚が消えなかった。
それから半年ほどしてNから電話があった。家を手放すことにしたという。理由は聞かなかった。ただ電話の最後に、Nはこう言った。
「最近さ、夜中に呼ばれるんだよ。子供の声で、名前を。出ていった家族の子の名前だって、近所の人が言うんだ」
私はその名前を聞かなかった。聞いてしまえば、次はこちらが呼ばれる気がしたからだ。
電話を切ったあと、私の部屋の台所で、ぴた、と床を踏む音がした。
振り返っても誰もいない。シンクの前の床板が一枚だけ、うっすらと濡れていた。私はその床を、まだ拭けずにいる。拭いてしまえば、今度は自分が呼ばれる気がするからだ。
第3話「ついてくる」
Nの電話のあと、私は引っ越しを決めた。
自分の部屋の台所で床を踏む音を聞いてから、その家にいることが落ち着かなくなった。シンクの前の床板は拭いても乾かず、毎朝うっすらと濡れている。土のにおいは雨の降らない夜にだけ立ちのぼった。気のせいだと言い聞かせるには、回数が多すぎた。日に日に、自分の家なのに自分の居場所がせばまっていくようだった。
次の部屋は、水から遠い場所を選んだ。
不動産屋でそんな条件を出すと変な顔をされたが、私は本気だった。川のそばと低い土地と古い家は最初から外した。
担当者が出してきた物件のうち、地名に水や沢や池のつくものもすべて避けた。最後に選んだのは駅前のマンションの八階で、築年数もまだ浅い。
窓からは町の灯りが広がって見える。地面はずっと下にあった。
これだけ高ければ土のにおいも届かないだろうと、内見のときに本気で考えていた。内見の日にベランダへ出て下を見下ろすと、地面ははるか遠くにあって、歩く人の頭が点のように見えた。
ここまで高ければ何も上がってこられないと、そのとき私は信じた。
引っ越して数日は、何も起きなかった。
夜は静かで、床はどこも乾いている。台所のシンクの前も玄関のたたきも、朝になって確かめるたびに乾いていた。朝はコーヒーを淹れ、夜は本を読んだ。窓の下を走る電車の灯りを眺めていると、少しずつ気持ちがほどけていくのがわかる。あの家のことは悪い夢だったのだと、私は思おうとしていた。逃げきれたのだと、半分は信じかけていた。
異変に気づいたのは、引っ越して五日目の夜だ。
その日は朝から晴れていて、夜になっても雨は降っていなかった。それなのにベランダのサッシの下に、細く水がたまっている。
エアコンの排水ではない。室外機はもっと離れた場所にある。
指でなぞって嗅ぐと土のにおいがした。あの雨上がりの庭のにおいだ。
八階のベランダに土などあるはずもない。サッシのレールに指を這わせ、水がどこから来たのかを確かめようとした。
だが上にも横にも水の通り道らしきものはない。水たまりはただそこに湧いて出たとしか思えなかった。
私はその水を雑巾で吸い取って、それから何度も手を洗った。部屋の灯りをすべてつけてまわった。
明るくすれば消える気がした。だが土のにおいだけは灯りでは消えなかった。
つぎに玄関を確かめに行った。
たたきの真ん中に、小さな水のあとがひとつだけついていた。子供の足のかたちをしている。前の部屋のときとまったく同じだ。私はしばらくそこから動けなかった。鍵はかけてある。チェーンもかけた。誰も入ってきていない。それでも足のあとは、玄関から廊下のほうを向いていた。
その夜から、足跡は少しずつ部屋の奥へ伸びはじめた。
一日目は玄関のたたきだけだった。二日目は廊下の途中まで。
三日目は居間の入り口まで。雨の降らない夜にだけ、決まって新しい一歩が増えていく。
私は毎晩、足跡の止まった位置に養生テープを貼ってから眠るようになった。朝になるとテープのすぐ先に、新しい濡れた足あとがひとつ増えている。
剥がして貼り直すたびに、自分が手の込んだ遊びに付き合わされている気がした。やめれば、もっと早く奥まで来る気がして、やめられなかった。
養生テープは三十枚を超えていた。剥がした跡が床に残り、廊下は継ぎ接ぎのようになっていく。
私はその継ぎ目を踏まないように歩く癖がついた。
四日目の朝、しるしは寝室の襖の前まで来ていた。
その夜、私は電気をつけたまま布団に入った。眠るつもりはなかった。天井を見上げて、ただ時間が過ぎるのを待つ。午前一時を回ったころ、廊下のほうから音がした。ぴた。ぴた。裸足が床を踏む音だ。間隔は規則正しい。
音は襖の前で止まった。
私は息を止めた。襖の下の隙間から、細い水が一筋こちらへ滲み出してくる。畳に黒い線がゆっくり伸びていく。土のにおいが部屋いっぱいに広がった。布団のなかで膝を抱えて、襖を見ていることしかできない。開ける勇気も、逃げる力もなかった。電気はついているのに、襖の向こうだけが暗く感じられた。
枕元に、冷たいものが落ちた。
頬ではなく今度は耳のすぐそばだ。ぽつ。
ぽつ。続けて落ちる。
私は目だけを動かして枕の横を見た。畳の上に小さな水たまりができている。
その真上に、何かが立っている気配があった。私の顔をのぞき込む高さではない。
もっと低い。子供の背丈ほどの位置に、湿った空気のかたまりがあった。
それはしばらく動かず、ただ私を見下ろしているようだった。どれくらいそうしていたのかわからない。
やがて湿った空気のかたまりは、すっと薄れて消えた。枕元の水たまりだけが、しばらく冷たさを残していた。
私は朝まで動けなかった。
明るくなると襖は閉まったままで、畳の水たまりも消えていた。残ったのは、布団の枕元の小さな染みひとつだけだ。
私はその布団を捨てた。捨てても、何かが変わるとは思えなかった。
その日は会社を休んだ。声が震えていたのか、上司は珍しく何も聞かずに休めと言った。
布団を干す気にもなれず、私は一日じゅう居間の隅に座っていた。日が暮れるのが怖かった。
だが夜が来るのを止める方法は、どこにもなかった。
その日の夜、私はこれまでのことを紙に書き出してみた。
最初のアパート。天井から落ちる滴。
Nの家の足跡。聞かなかった子供の名前。
雨の降らない夜。そして、いつも同じ土のにおい。
どの場所にも共通するものがあるはずだと、私は鉛筆を握って考えた。低い土地。
昔の水場。涸れた井戸。
書き出すうちに、ひとつの線がつながりかけた気がする。アパートの隣に住んでいた老人の、顔を見ようとしない横顔。
Nが電話の向こうで聞いたという子供の声。思い出せるかぎりのことを、私は紙の上に並べていった。
地面の下に水がある場所に、それは出るのだ。そう思えば、すべて説明がつくはずだった。
だが線はそこで切れた。
今の部屋は駅前のマンションの八階だ。低い土地でも古い家でもない。井戸も水路も、近くにはない。地面からは三十メートル近く離れている。それなのに足跡は、私の寝室の襖まで来た。共通していたのは場所ではなかったのだ。どの家にも、私がいた。それだけが、すべてに共通していた。
その事実に気づいたとき、私は紙を裏返した。これ以上は見たくなかった。
逃げても無駄なのだと、ようやくわかった。水のない場所を選んでも、土のにおいは私のあとを追ってくる。引っ越すたびに足跡は前より早く、前より奥まで入ってくる。次の部屋では、初日からそこにいるのかもしれない。
引っ越そうと何度も考えた。だが次の部屋でも同じことが起きるとわかってしまった以上、動く意味が見いだせなかった。逃げる場所は、もうどこにもない。
私はまだ、その八階の部屋に住んでいる。
八階の窓から見える夜景は、相変わらず遠くまで広がっている。きれいだと思う余裕は、もうなかった。私はカーテンを閉めて、夜景を見ないようにして暮らしている。足跡はあの夜以来、寝室の襖の前で止まったままだ。それ以上は近づいてこない。こちらが先に動くのを待っているような、そんな止まり方だった。
ある朝、玄関で靴を履こうとして、私は手を止めた。
たたきの上、自分の靴のすぐ隣に、小さな濡れた足跡がふたつ並んでいた。私の靴と同じ向きだ。つま先は、どちらも玄関のドアの外を向いている。
まるで、私が出かけるのを待っているようだった。
第4話「水のほうへ」
足跡と暮らすことに、私は少しずつ慣れていった。
慣れたというより諦めたのだろう。雨の降らない夜には決まって玄関に水のあとがつき、寝室の襖の前まで足跡が伸びて、朝には消えている。
それを毎日くりかえすうちに、私はいちいち驚かなくなっていた。テレビをつけても本を開いても、夜の一時が近づくと体が勝手に身構える。
廊下のほうへ自然と耳がいく。それでも逃げ場がないとわかってからは、抗うのもやめた。
足跡が襖の前で止まるのを音で確かめてから、私はようやく目を閉じる。眠れない夜のほうが、まだましだった。
最初の変化に気づいたのは、ある秋の朝だった。
目が覚めると足の裏が濡れていた。布団のなかで指先を動かすと、かかとから足首にかけて湿った感触がある。寝汗ではない。指でこすって嗅ぐと土のにおいがした。私は跳ね起きて足を見た。足の裏に、乾きかけた泥がうっすらこびりついている。家のなかに、泥のつく場所などひとつもない。植木鉢ひとつ置いていない部屋だった。それなのに毎朝、私は泥を踏んで目を覚ます。
玄関に行くと、私の靴が濡れていた。
そろえて置いたはずの靴が、わずかに向きを変えている。靴底には黒い土がついていた。底の溝に、小さな草の切れ端まで挟まっている。昨日の夜、私はどこにも出かけていない。そのはずだった。それなのに靴は、たしかに外を歩いてきた顔をしていた。私はその靴を持ったまま、しばらく玄関に立ちつくしていた。
その日から、朝の足の裏を確かめるのが習慣になった。
濡れている朝と、濡れていない朝があった。濡れているのは決まって、雨の降らなかった夜の翌朝だ。
靴底の泥は日ごとに種類が変わった。砂利のまじった土。
粘りけのある黒い土。私はその泥を小瓶に集めて、種類ごとに並べてみたこともある。
だが集めたところで、どこの土なのか私にわかるはずもなかった。一度などは、靴の縁に細い水草のようなものが巻きついていた。
夜のあいだ、私は自分の知らない場所を歩いている。それだけは、もう認めるしかなかった。
たまらなくなって、カメラを玄関に向けて寝た夜もある。
朝になって映像を確かめると、午前一時すぎに私は起き上がり、まっすぐ玄関へ歩いていた。靴を履き、ドアを開け、外へ出ていく。
三時間ほどして戻り、また布団へ向かう。画面のなかの私は、眠ったまま歩いているように見えた。
歩き方がいつもと違う。右手だけが不自然な角度で前に伸びている。
何かを握っているような形だった。映像にはもちろん、握られている相手など写っていない。
私は何度もその場面を巻き戻して見た。出ていく自分の背中は、いつもより小さく丸まっている。
見えない誰かに頭を抱えこまれているような歩き方だった。
それでも私には、自分の足で外に出た記憶がなかった。
病院にも行ってみた。睡眠時の異常行動かもしれないと医者は言い、検査を勧めてくれた。
だが私が知りたかったのは、自分の体が毎晩どこへ向かっているのかということだ。それは検査では教えてもらえない。
私は予約をすっぽかしたまま、つぎの夜を待つことにした。その夜は自分の足首をタオルで縛って眠った。
少しでも動けば目が覚めると思ったからだ。朝になるとタオルはほどけ、足首には縛った跡だけがうっすら残っていた。
ある夜、はじめて意識が途中で浮かび上がった。
気づいたときには、私はもう玄関で靴を履いていた。体は私のものなのに、私が動かしているのではない。
指が勝手にひもを結んでいく。やめろと念じても足は止まらなかった。
叫ぼうとしても喉から音が出ない。私の意識だけが体の奥に閉じこめられ、ガラス越しに自分の手足を見ているようだった。
冷たいものが右の手のひらに触れている。小さな手だった。
私の手の半分ほどの大きさで、ぐっしょりと濡れている。指が私の指にしっかりとからみついていた。
その手が、私を引いた。
ドアが開く。深夜の廊下は静まりかえっている。私たちは非常階段を一段ずつ降りていく。一段降りるごとに、すぐ下の段を小さな足が踏む湿った音がした。手すりは冷たく、握った左手に錆のにおいが移る。横を見てはいけない気がして、私は前だけを見ていた。視界の隅に、自分の腰くらいの高さで揺れる黒いものがある。それが何か、確かめる勇気はなかった。
外に出ると、土のにおいが濃くなった。
町は寝ていた。コンビニの灯りもなく、信号だけが誰もいない交差点で青に変わっている。
自分の素足がアスファルトを打つ音が、やけに大きく響いた。その足音にまじって、もうひとつ、軽くて湿った足音がついてくる。
ぴた、ぴたとすぐ後ろで鳴っていた。広い通りからいつのまにか細い裏路地に入り、やがて足の下が土に変わる。
蓋のずれた側溝があった。その奥に暗い水路が口を開けている。
コンクリートの古い暗渠だ。水は流れていない。
底に黒い泥がたまり、雨上がりの庭のにおいが、そこからむっと立ちのぼっていた。のぞきこむと、暗がりの奥に何か白いものが沈んでいるように見える。
布のような小さな着物のような形だった。目を凝らすと、それはただの泥の濃淡に戻った。
小さな手が、暗渠のほうへ私を引いた。
行きたくない。声に出したつもりが、口は動かない。それでも足だけはひと足ずつ縁へ近づいていく。暗い口のなかから、湿った風が顔に吹きつけた。濡れた髪のようなものが私の腕をすっとなでる。長い髪だった。子供の手にしてはその髪は長すぎた。私はやっと握っているのが本当に子供なのかどうか、わからなくなった。
つま先が、暗渠の縁にかかった。
そのとき背後で自転車のベルが鳴った。新聞配達のバイクが、路地の入り口を通り過ぎていく。ヘッドライトの光が一瞬、私の足元を照らした。その瞬間に手の冷たさがすっと消えた。
私はひとり、暗渠の縁に立っていた。
裸足だった。靴はずっと後ろの路地に、片方ずつ離れて脱げ落ちている。
私はその場にしゃがみこんで、しばらく動けなかった。右の手のひらに握られていた形だけが、まだ冷たく残っている。
指の一本一本の跡が、皮膚にはっきりとついていた。そこをこすってもこすっても、冷たさは取れなかった。
片方の靴は側溝の蓋の上に、もう片方は数メートル離れた草むらに転がっていた。拾い上げると、どちらもぐっしょり濡れて泥にまみれている。
私はそれを履く気になれず、両手にぶら下げて歩いた。どこをどう歩いたのか、帰り道はまるで覚えていない。
気づくと夜が白みかけていて、私はマンションの非常階段を、裸足のまま登っていた。
朝、私は明るくなりきってから部屋に戻った。
玄関のたたきには、私の濡れた足跡と並んで、小さな足跡がついていた。二人ぶんの跡がドアからまっすぐ部屋の奥へ向かっている。出ていくときとは逆の向きだ。連れ出しそこねた子供が、それでもいっしょに帰ってきたかのようだった。
私はその夜から、家じゅうの靴をすべて捨てた。裸足で会社に行くわけにもいかず、安い靴を買い足しては朝になるたびに捨てた。下駄箱はすぐに空になり、玄関には捨てきれない泥のにおいだけが残った。
それでも裸足の足の裏は、あいかわらず朝になると濡れている。あの暗渠がどこにあったのか、私はいまも昼間にその場所を探し出せずにいる。探さないほうがいいと、心のどこかでわかっているからかもしれない。探し当ててあの暗い口をふたたびのぞきこんだら、今度こそ自分は戻れない気がしてならないのだ。
第5話「水の名残」
探さないと決めていた暗渠を、私は結局探すことになった。
きっかけは、足跡がまた動き出したことだ。寝室の襖の前で止まっていたはずの足跡が、ある朝、布団のすぐ脇まで来ていた。
雨の降らない夜が続いた週のことだった。それまで律儀に襖の前で止まっていた足跡が、急に遠慮をやめたようだった。
一晩で一歩どころか、二歩三歩と奥へ進んでくる夜もある。朝、枕に顔を近づけると、髪に水のにおいがしみついていることもあった。
眠っているあいだに、すぐ近くまで顔を寄せられている。そう思うと、夜が来るのがたまらなかった。
このまま放っておけば、つぎはまた手を引かれて、今度こそ暗渠の底まで連れていかれる。そんな気がしてならなかった。
理由を知れば止められるかもしれない。そう考えるしか、私には手立てがなかった。
連れていかれた夜の記憶は、断片しか残っていない。
非常階段を降りたこと。誰もいない交差点。
土に変わった足の感触。あとは暗い口と、雨上がりの庭のにおいだけだ。
私はその断片を頼りに、休みの日の昼間、町を歩きまわった。マンションから歩いて十五分ほどの範囲を、何度も行き来する。
住宅地の道はどこも似ていて、夜に歩いた道筋を昼にたどり直すのは難しかった。土に変わる手前で、たしか道が細くなった。
その感覚だけを頼りに、私は同じ角を何度も曲がった。すれ違う人に道を尋ねるわけにもいかない。
深夜に通った暗渠を昼間に探していると言って、まともに取り合ってくれる相手はいないだろう。私はただ自分の足の記憶だけを信じて歩いた。
見つけたのは、三度目の週末だった。
新しい建売住宅が並ぶ一角に、不自然に細長い空き地があった。アスファルトで舗装され、申しわけ程度の植え込みが続いている。
よく見ると、それは道ではなかった。ところどころに四角いコンクリートの蓋がはまっている。
古い水路に蓋をして、その上を遊歩道のように整えた跡だった。蓋の継ぎ目から、かすかに土のにおいが立ちのぼっている。
あの夜と同じにおいだ。私は間違いなく、ここに来ていた。
立っているだけで足の裏がうずいた。あの夜、この蓋の上を裸足で歩いたのだ。
植え込みの根もとに、片方だけの子供用のサンダルが落ちている。色は褪せて、誰のものとも知れない。
私はそれを拾わずに通り過ぎた。
遊歩道の端に、古い金物屋があった。
シャッターを半分だけ開けた店先で、年寄りが椅子に座っていた。店のなかは薄暗く、錆びた金物が天井近くまで積まれている。客が来る気配はない。私はこのあたりの昔のことを尋ねてみた。年寄りははじめ面倒くさそうにしていたが、私がこの遊歩道のことを口にすると、ふいに手を止めた。
「あんた、あの上を歩いたのかい」
そうだと答えると、年寄りは少し黙った。それから、ぽつぽつと話しはじめた。
このあたりは昔、一面の低い田んぼだったという。あちこちにため池があり、用水路が網の目のように走っていた。
水は暮らしの真ん中にあった。だがその水で子供がよく死んだ。
深い用水に足を取られ、ため池に滑り落ちる。年に一人か二人は当たり前のように流された。
流れた子供は何日も見つからず、池をさらってやっと上がることもあったという。年寄りが子供のころにも、近所の子がひとり田植えの時期に用水へ消えた。
何日も大人たちが竿で底をさらい、見つかったのは下流の堰のところだった。その子の母親はそれから毎晩のように、水路のふちに立っていたそうだ。
年寄りはその姿をいまでも覚えていると言った。
「いまの遊歩道のとこに小さな祠があってな」
水神様だと年寄りは言った。流された子供を弔い、これ以上は連れていかないでくれと、村の者が手を合わせる場所だったらしい。春と秋には花を供え、子供の好きそうな菓子を置いた。だが宅地の造成のとき、その祠は移されなかった。業者がそのまま埋めてしまったのだと、年寄りは声を低くした。
「移す金も惜しんだんだろう。罰当たりな話さ」
それからこのあたりでは、雨の降らない晩に水が出るようになったのだという。乾いた地面がいつのまにか濡れている。
家の床が湿る。子供の足跡がつく。
みんな知っているが、誰も口にしない。引っ越してきた者だけが、知らずに巻きこまれる。
この遊歩道を通って学校へ行く子供は、いまもいる。だが親たちは、なるべく遠回りをさせるのだと年寄りは言った。
なぜ遠回りさせるのか、子供には教えないらしい。年寄りはそこまで話すと、急に口が重くなった。
それ以上は聞いても、首を振るだけだった。
私はその話を聞きながら、頭のなかで線を引こうとしていた。
だが線は、やはりつながらない。私が住んだ最初のアパートも、Nの家も、いまの八階のマンションも、この遊歩道からは遠く離れている。同じ土地ではない。それなのに、まったく同じことが起きていた。土のにおい。子供の足跡。雨の降らない夜。埋められた祠の話で説明がつくのは、この遊歩道のまわりだけのはずだった。私が住んだどの家も、こことは関係がない。
なぜ、私なのか。
その問いに、年寄りも答えをくれなかった。考えてみればこの土地に縁もゆかりもない私のところへ、なぜそれが来るのか。土地が呼んでいるのではない。場所を移してもそれは私を追ってくる。だとすればなぜ私なのか。その問いだけが、行き止まりのように残った。
ただ年寄りは、帰りぎわに店先まで出てきて、私の顔をじっと見た。
何かを言いかけて、やめた。年寄りが最後に口にしたのは、それとは違う一言だった。
「あんた、水のにおいがするよ」
意味を聞き返したかったが、年寄りはもうシャッターのなかへ引っこんでいた。
帰り道、私はもう一度だけ遊歩道に立ち寄った。
コンクリートの蓋の継ぎ目に、しゃがんで顔を近づける。土のにおいに混じって、かすかに別のにおいがした。
線香のような、古い供え物が腐ったような、甘くて重いにおいだ。蓋の隙間に指を入れてみると、奥のほうが湿っていた。
冷たい水が指の先に触れる。引き抜こうとした瞬間、その水がすうっと指にからみついてきた。
あの夜の小さな手と、同じ握り方だった。引き抜いた指先は、しばらく感覚を失っていた。
氷水に長くつけたあとのように冷たさだけが残り、自分の指ではないようだった。
私は手を引き抜いて、その場から離れた。
家に帰ると、玄関のたたきの足跡が、また一歩ぶん奥へ進んでいた。布団の枕元のすぐ手前まで来ている。
年寄りの話を聞いたことで、何かが止まると思っていた。だが止まるどころか、足跡は前より早く動いていた。
知ってしまったことが、かえって相手を近づけたのかもしれない。祠のことも、流された子供のことも、知ったところで弔う手立てが私にあるわけではない。
私にできるのは、ただ夜を待つことだけだった。弔いの代わりになればと、私は花を買って遊歩道の蓋の上に供えたこともある。
だが翌朝にはその花が、茎だけ残して食い荒らされたように散っていた。誰が、とは考えないようにした。
その夜、私は布団に横になりながら、年寄りの最後の言葉を思い返していた。
水のにおいがする、とはどういう意味だったのか。私は自分の手のひらを鼻に近づけた。あの遊歩道の、甘くて重いにおいが、もう私の体から立ちのぼっていた。石鹸で何度洗っても、そのにおいは指の股や爪のあいだに残りつづけた。もう私のにおいになってしまったのだと、そのときわかった。
第6話「子供ではなかった」
最後の手段として、私は遠くへ逃げることにした。
土地を変えても無駄だとはわかっていた。それでも、距離だけはまだ試していなかった。
新幹線で何時間も離れた町なら、さすがに届かないのではないか。すがるような気持ちで、私は海沿いの小さな観光地を選んだ。
水のそばだと気づいたのは予約を取ったあとだが、いまさら変える気力もなかった。仕事はしばらく休むことにして、上司には少し体を休めたいとだけ伝えた。
これ以上いまの部屋にいたら、自分が自分でなくなる気がしていた。新幹線に乗っているあいだだけは、足の裏が乾いていた。
窓を流れる景色が遠ざかるほど、体が軽くなる気がする。これで断ち切れるなら、仕事も部屋もどうなってもいいと思った。
宿は古い旅館だった。
部屋の窓からは灰色の海が見える。仲居が茶を運んできて、ゆっくりしていってくださいと笑った。私は荷物も解かずに、まず畳の上に座りこんだ。長く息を吐く。足の裏が乾いている。たったそれだけのことが、こんなにありがたいとは思わなかった。その晩は久しぶりに朝まで眠ることができた。夢も見なかった。
翌朝の海は穏やかだった。
窓を開けると潮の香りが部屋に流れこんでくる。土のにおいではない。
ただの海のにおいだった。私は浜辺を歩き、土産物屋をのぞき、ただの旅行客として時間を過ごした。
二日目も三日目も、何も起きない。ようやく終わったのかもしれない。
離れさえすれば断ち切れるのだと、私はほとんど信じかけていた。逃げきれたという安心が、体の芯からゆっくりほどけていった。
波の音を聞きながら、このまま帰らなければいいと何度も思った。家には足跡が待っている。
だが旅館にいるかぎり、私はただの客でいられた。
異変は、四日目の夜にやってきた。
夜中にふと目が覚めると、枕元で水のたまる音がした。ぽつ。
ぽつ。聞き慣れた間隔だ。
私は跳ね起きて電気をつけた。畳の上に小さな水たまりができている。
枕に頭を戻すこともできず、私は朝までずっとそこに座っていた。窓の外には星が出ていた。
雨など降っていない。土のにおいが、潮の香りを押しのけて部屋に満ちていた。
海を越えても、それは私を見つけ出していた。私は窓を全部開けて、潮の風を部屋に入れた。
それでもにおいは消えない。海のにおいの底に、土のにおいが沈んでいた。
逃げ道は、もうどこにもなかった。
その夜、私はまた連れ出された。
今度は最初から意識があった。体が勝手に起き上がり、浴衣のまま部屋を出ていく。
右の手のひらに、あの冷たい手が握られている。小さく濡れた手だ。
叫ぼうとしても声は出ず、足を止めようとしても膝は勝手に前へ出る。意識だけがはっきりしているぶん、前よりずっと苦しかった。
廊下を抜け、暗い階段を降り、旅館の裏口から外へ出た。旅館の灯りはすぐに見えなくなる。
観光客の通る表通りではなく、地元の者しか歩かないような暗い裏道だった。浴衣の裾が、夜露で少しずつ重くなっていく。
潮風のなかに、土のにおいだけがまっすぐ続いていた。
手は、海とは逆のほうへ私を引いた。
細い路地を抜けると、古い水門があった。錆びた鉄の扉の向こうで、運河の水が黒く淀んでいる。
流れのない、動かない水だ。土のにおいは、その水面から立ちのぼっていた。
手は私を、その縁へと連れていく。私は今度こそ、引かれているこの手の本当の姿を確かめようと思った。
これまで横を見なかったのは、見たら戻れない気がしていたからだ。だがもう戻る場所もない。
私は奥歯を噛んで、ゆっくりと右側に顔を向けた。
そこにいたのは、子供ではなかった。
私の手を握っていたのは、背の低い女だった。腰まで届く長い髪が、ぐっしょりと濡れて顔に貼りついている。
着物とも浴衣ともつかない布を、だらりとまとっていた。背丈が低いから、私はずっと子供だと思いこんでいた。
だが私の手を包む手も傾いた肩も、明らかに大人のものだった。女はうつむいたまま、私の手を離さない。
私はその顔をはっきり見ようとした。だが濡れた髪が貼りついて、輪郭しかわからない。
見ようとするほど、目の焦点が合わなくなっていった。
そして私の少し先を、もうひとつの影が歩いていた。
それは本当に、小さな子供だった。濡れた素足でぴた、ぴたと先を進んでいく。
女は、その子供のあとを追っていた。私の手を引きながら、必死で子供に追いつこうとしている。
子供が振り返ることはない。女は何度も子供のほうへ手を伸ばそうとして、そのたびに届かない。
届かないかわりに、女は私の手を強く握りなおすのだった。女の足は、地面についていないように見えた。
濡れた裾が土の上を滑るように動いていく。それなのに私の手を引く力だけは、たしかに重かった。
そのとき、私はやっとわかった。
女が本当に連れていきたいのは、私ではない。あの先を行く子供だ。
だが子供には、もう手が届かない。何十年も、ずっとそうだったのだろう。
だから女はせめて、子供と同じくらいの手の温かさを持つ誰かを連れていこうとしている。本物の代わりでもいいのだ。
私はたまたま、その手を握られただけだった。女が子供を喪った日から、時間は止まったままなのだろう。
何十年たっても、まだ子供を探しつづけている。その執着の長さを思うと、振りほどく手にも力が入らなくなった。
人違いだ。そう叫ぼうとした。
口はやはり動かなかった。女はうつむいたまま、首だけをわずかに私のほうへ傾けた。濡れた髪の隙間から、片目だけがのぞく。その目は私を見ていなかった。私の体を通り越して、もう戻らない子供のほうを見ていた。間違えているのではない。間違えているとわかったうえで、それでも私の手を離さないのだ。
つま先が、運河の縁にかかった。
黒い水面に私の顔と、女の濡れた髪が映る。その横に子供の小さな影も並んでいた。三人ぶんの影が水の上で、静かに重なっていく。私は最後の力で、握られた手を振りほどこうとした。だが指は骨が軋むほど強く、絡みついて離れない。
そのとき、宿のほうで誰かが私の名前を呼んだ。
仲居だった。客が裸足で外へ出たのに気づいて、追いかけてきたらしい。その声が水門の路地に響いた瞬間、手の力がふっとゆるんだ。私は尻もちをつくように、縁から後ろへ倒れこんだ。立ち上がったときには、女も子供ももうどこにもいなかった。運河の水だけが、何ごともなかったように黒く淀んでいた。
翌朝、私は予定を切り上げて宿を発った。仲居は何も聞かずに私を見送った。ただ玄関で、私の足元をちらりと見たのが気になった。
帰りの新幹線で、私はもう自分に嘘をつけなくなっていた。あれは子供の霊などではなかった。
子供を失った女が、その代わりを探して、何十年も水のそばをさまよっている。私はその代わりに選ばれてしまった。
逃げても距離をとっても、女は必ず私を見つけ出す。あの手の握り方を、私の指はもう覚えてしまっていた。
窓の外を、知らない町の灯りがいくつも流れていく。どの町にも水があり、どの水のそばにも、あの女がいるような気がした。
家に帰ると、玄関のたたきには、子供の小さな足跡と並んで、もうひとつ、大人の女の足跡がついていた。私はもう、その足跡を拭こうとも思わなくなっていた。いつか自分の足跡も、この二つに並んで三つになる。その日が、もうそう遠くない気がしてならなかった。
第7話「帰り道」
逃げるのを私はやめた。
どこへ行っても女は私を見つける。それがわかった以上、逃げることに意味はなかった。
だったら向き合うしかない。逃げつづけた数年で、私はもうくたくただった。
靴を買っては捨て、引っ越しを繰り返し、夜ごとに足跡の数を数える。そんな暮らしに、いいかげん終わりがほしかった。
女が探しているのは、流された自分の子供だ。私ではない。
なら私にできることがあるとすれば、それは女から逃げることではない。女の子供を見つけてやることだ。
そう考えるようになってから、私はあの遊歩道へ通うようになった。会社の帰りに足が自然とそちらへ向く。
気づけば逃げていたころよりも頻繁に、私はあの水のそばにいた。不思議と、通っているあいだは気持ちが落ち着いた。
落ち着かないのはいつも、夜の部屋でひとり足跡を待つ時間のほうだった。
潰された祠の跡に、私は花を供えた。
近所の店で買った菊を、コンクリートの蓋の上に置く。水の入ったコップを添え、子供の好きそうな菓子も並べた。
手を合わせて、もう連れていかなくていいと声に出さずに語りかける。年寄りに聞いた、村の者が昔やっていたことの見よう見まねだった。
正しいやり方かどうかなど、わかるはずもない。それでも何もしないよりは、ましだと思った。
通りかかる人が不審そうに私を見ていく。それでもかまわなかった。
一度だけ、あの金物屋の年寄りが、遠くからこちらを見ているのに気づいた。声をかけようとすると、もう店のなかへ消えていた。
それでも、足跡は来つづけた。
供えた花は翌朝には食い荒らされ、菓子は袋ごと水に濡れていた。弔いになっているのかどうか、私にはわからない。
それでも通うのをやめなかった。ほかにできることが、ひとつも思いつかなかったからだ。
ある日、供えたコップの水が朝になると半分に減っていた。こぼれた跡はどこにもない。
誰かが飲んだとしか思えなかった。私はそのコップに、毎日新しい水を満たしつづけた。
水を替えながら、私はいつも同じことを願った。早くこの子が見つかりますように。
そして女が安心して、向こうへ帰れますように。願う相手が誰なのかも、よくわからないまま手を合わせた。
連れ出されたのは、そんなある夜のことだ。
いつものように体が勝手に起き上がり、小さな手に引かれて外へ出る。だが今度は、私は抗わなかった。
歩きながら初めて、引かれている手を握りかえしてみる。冷たい小さな手は、握りかえしてもなんの反応も返さない。
ただ前へ前へと、私を引いていくだけだった。夜の町は、あの最初の晩と同じように寝静まっている。
信号だけが、誰もいない交差点で青に変わった。私の素足の音と、女の濡れた裾を引きずる音だけが、路地に響いていた。
暗渠の上の遊歩道を抜け、運河の水門までついていく。黒い水が街灯の光を鈍く返していた。
土のにおいが足元から立ちのぼっている。女は私の少し先を行く子供を、いつものように必死で追っていた。
このまま連れていかれてもいいと、半分は思っていた。
だがもう半分が、そうはさせまいと声を絞り出した。私はその子供の背中に声をかけた。
もう、帰っておいで。
声が出たのかどうか、自分でもわからない。それでも口は確かに動いた。何十年も振り返らなかった子供が、その瞬間、足を止めた。濡れた素足が、運河の縁でぴたりと止まる。小さな影が、ゆっくりとこちらを向きかけた。向きかけたその顔を、私は見なかった。見てはいけないと、体のどこかが告げている。私はとっさに目を伏せた。私の手を握る女の指から、ふっと力が抜けるのがわかった。
そのあとのことを、私は覚えていない。
気づくと私は運河の縁に、ひとりで座っていた。空は白みかけている。右手のひらにもう冷たさはなかった。握られていた指の跡も消えている。女も子供もどこにもいない。運河の水だけが、何ごともなかったように静かに淀んでいた。私はその場で長いあいだ動けなかった。立ち上がる気力が戻るまで、東の空がすっかり明るくなるのを待った。
それきり、足跡は来なくなった。
雨の降らない夜が来ても、玄関のたたきは乾いたままだ。台所の床も濡れない。
枕元で水の音がすることも、もうなかった。連れ出されることもない。
私は普通に眠り、普通に朝を迎えるようになった。捨てた靴の代わりに新しい靴を買うと、今度は朝になっても濡れていない。
玄関に靴をそろえて置ける。たったそれだけのことが、どれほどありがたかったか。
何ヶ月かが過ぎ、私はあの日々を少しずつ、遠い出来事のように感じはじめていた。夜が来ても身構えなくなり、よく眠れるようになる。
鏡に映る顔も、少しずつ生気を取り戻していった。私は、終わったのだと思った。
解決したのだと、私はしばらく信じていた。
だが本当にそうだったのかは、いまもわからない。私が弔ったから女が去ったのか。子供がたまたま見つかったのか。それとも女が私に飽きて、別の誰かのところへ移っただけなのか。確かめるすべはない。確かめたいとも思わなかった。あの遊歩道には、それきり近づいていない。供えた花がどうなったのかも、見に行っていない。
ただ、私のほうは元には戻らなかった。
足跡が来なくなったいまでも、私は雨の降らない夜になると、ふと土のにおいをかぐことがある。雨上がりの庭のような、あの湿ったにおいだ。におった次の朝はきまって、玄関のたたきに小さな水のあとがひとつだけついている。子供の足跡ではない。女の足跡でもない。ただの丸い水のしみだ。
私はその水を、もう拭かない。
拭こうとすると、右手の指が、握られていたときの形にひとりでに丸まる。そのたびに、自分の手が自分のものではないような気がするのだ。
だから私はしみを、そのままにしておく。ただ乾くのを待つ。
乾いたあとには、うっすらと土のにおいだけが残る。その土がどこの土なのか、私はもう確かめる気にならない。
確かめれば、また何かが始まる気がするからだ。ただ、そのにおいをかぐと、なぜか少しだけ肩の力が抜ける自分がいる。
安心している自分に気づくたびに、背すじが冷たくなる。
思い返せば、あの数年のあいだに、私はずいぶん多くの部屋を移り住んだ。どの部屋のことも、いまでは輪郭がぼやけている。はっきり覚えているのは、どの部屋にもあった土のにおいと、雨の降らない夜のあの水の音だけだ。
最近になって、私はときどき思うことがある。
あの夜、子供が振り返った瞬間、本当に運河の縁から戻ってきたのは誰だったのだろう。私は子供を帰してやったつもりでいた。だがもしかすると、縁から後ろへ倒れこんで戻ってきたのは、私の体だけだったのではないか。
いまの私は、たしかにここにいる。仕事に行き、飯を食い、夜には眠る。ときどき、Nから電話がかかってくる。だがお互い、夜の話はしない。元気かと聞き、元気だと答える。それだけの電話を、私たちは続けている。
それでも雨の降らない夜、土のにおいをかぐたびに、私はわからなくなる。私はあの運河の底から、ちゃんと帰ってこられたのだろうか。それとも私は、いまもあの黒い水のなかで、誰かに手を引かれたまま、自分の帰り道を探しているのだろうか。
手のひらの、握られた指の跡は、もう肉眼では見えない。だが指を握りこむと、いまでもそこだけが、ほんの少し冷たい。その答えだけは、いくら自分の手のひらをじっと見つめてみても、いまだに出てこない。

