その夜は、特に目的があって走っていたわけではない。
千葉の家を出たのが深夜の十二時過ぎ。カブのエンジンをかけて、北へ向かった。行き先はない。距離だけで言えば九十キロは走った。国道から県道へ、県道からさらに細い山道へ。いつもそうだ。大きな道を走るより、誰も使っていない脇道を探す方が性に合っている。
ナビが古い地図データを使っていたのが、今思えば、すべての始まりだった。
県道を北上しながら「前方右折」というアナウンスに従ってハンドルを切ったら、見覚えのない舗装路に迷い込んでいた。センターラインがない。幅は一車線分しかない。左は山肌を削った崖、右は低い木の柵が断続的に続いて、その先は暗くて底が読めない。
時刻は深夜一時を少し過ぎた頃だった。
引き返そうかと思った。思いながらも、舗装がある以上はどこかに出られる、という根拠のない確信があった。長年こういう道を走っていると、変な度胸がつく。ほとんどの場合は裏切られる。
道は緩くのぼっていた。アスファルトは古く、縁が草に浸食されているが、形はまだ保っている。ヘッドライトが照らす円の外側は、山の夜そのものだ。エンジン音が山壁に当たって戻ってくる。カブの音には慣れているはずなのに、反響すると他人の機械のように聞こえて、妙に落ち着かなかった。
気温が低い。十月に入っていた。吐く息が白くなるほどではないが、グローブの外側から冷気がじわじわ染み込んでくる。木々の匂いと、その下に混じる湿った土の匂い。
前に人影が見えたのは、道に入って五分ほど経った頃だった。
ヘッドライトの届く限界、暗がりと光の境目のあたりを、何かが歩いていた。
人間の形をしていた。
こんな時間に、こんな場所に人がいる理由が思い当たらなかった。近くに民家があるなら通行人もいるかもしれない。だがここは山の中腹で、街灯は一本もない。
ライトをハイビームに切り替えた。
輪郭が少しだけはっきりした。男か女かはわからない。肩の高さで判断しようとしたが、かがみ加減に見えて、そこからも読めない。こちらに気付いているのかどうかも。
追い越してしまえばいい、と思ってスロットルを開いた。
距離が縮まらなかった。
こちらは速度を上げているのに、影との間隔が変わらない。追いつかない。まるで影が自分のライトの届く範囲に張り付いているみたいだった。
何かがおかしい。
普通の人間がいるなら、バイクが近づけば振り向く。怖くて道端に寄るか、確認しようと顔を向けるか、どちらかだ。影は何もしない。こちらを向こうとしない。ただまっすぐ、道の前方を向いたまま歩き続けている。
スロットルを絞った。
速度が落ちた。
影の歩みも遅くなった。
完全に止まった。
影も止まった。
後ろを向いたまま立っている。背中だけがライトに照らされて、顔がどこにあるのかがわからない。
胃の辺りが冷えた。体温ではなく、もっと内側のもの。
後退しようとして、この道がどれほど狭いかを思い出した。岩盤と柵が両側から迫っている。少しでもハンドルがぶれれば、どちらかにぶつかる。前を見ながら下がらないといけない。前には影がいる。
影は動かなかった。
私がゆっくりと後退を始めても、ただそこに立っていた。
視線をミラーに移しながら、ちらちらと前を確認した。影との距離が開いていく。二十メートル。三十メートル。
追いかけてこなかった。
ただ立っている。後ろを向いたまま。
県道に出るまでに体感で十分以上かかった。
大きな道の街灯が視界に入った瞬間に、肩から力が抜けた。深呼吸をして、エンジンを切った。静寂が耳を押す。
ミラーをのぞいた。
旧道の入口は、ライトが届かないほど暗い。
奥に、細長いシルエットがあった。
動いていない。
木の影が重なって人の形に見えることはある。疲れた目が、暗がりにパターンを作ることもある。そう思いながら、しばらく目を離せなかった。
翌日、スマホで地図を調べた。
昨夜の旧道は、昭和四十三年に廃止された旧峠道だった。現在は一般車両通行止め。途中に崩落箇所があり、全区間を通り抜けることはできないという。
道の奥にあったのは、かつて四十戸以上が暮らしていた集落の跡地だった。昭和三十九年の水害で集落ごと孤立し、翌年に全戸が山を降りた。
それ以来、ずっと誰もいない、はずだった。
翌週、もう一度だけ行ってみようと思った。
正直に言うと、もう一度行かなければならないような気がした。


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