※本記事は実話・体験談・聞き書き・現地の伝承をもとに、読み物として脚色を加えた怪談です。危険な場所への無断立入・夜間侵入・迷惑行為は行わないでください。
連載怪談「神流湖(琴平橋)— 網に残る鈴の音 —」

僕らは、逃げるように慰霊碑へ向かった。
夜のダムサイトは人の気配がない。管理所の灯りも遠い。
慰霊碑の前に立つと、空気が少しだけ“乾く”。湖の匂いが薄まる。
ここはまだ、弔いの場所で、罠の場所ではない。そう信じたかった。
Tが膝をつき、震える指で鈴を持ち上げた。
「これ、返せばいいのか?」
僕は答えられない。
返す、戻す、帰す。どれも危ない単語に聞こえる。
僕は代わりに、手帳を取り出し、ペンで書いた。
八本の線。
そして、九本めの線を引きかけて、止めた。

弔いの数は八。
つながりの数が九なら、九本めは“僕ら”だ。
僕らがここに線を足せば、橋は十を数え始める。
十から先は、“戻る数”。
Tが嗚咽を漏らした。
「じゃあ、どうすればいい……」
僕は、あの公式の言葉を思い出す。
献花と焼香。感謝。無事故と無災害を誓う。
弔いは、数えるためじゃない。
区切るためだ。ここまでを、ここで終わらせるための儀式だ。
僕は花を買っていなかった。線香もない。
けれど、できることはある。

僕はTの手から鈴をそっと受け取り、ポケットからスマホを取り出した。
録音アプリを立ち上げ、昨夜の橋で録った、鈴の音が入ったデータを最大音量で再生した。
チリン。チリン。
慰霊碑の前で、橋の鈴が鳴る。
この場所に“橋”を持ち込む。
すると、湖の糸がここまで伸びてくる。
Tが叫ぶ。
「何して――」
僕は首を振り、指を口に当てた。
返事はしない。
僕は黙ったまま頭を下げた。深く。何度も。
言葉を使わずに、感謝と区切りを作る。

鈴の音が乱れる。
チリン、チリン、チリン。早鐘みたいに。
糸が引きちぎられそうなほど暴れているみたいだ。
僕は、鈴を慰霊碑の前に置いた。
置く、という行為だけ。返すとも戻すとも言わない。
そして、スマホの再生を止めた。
静寂が落ちた。

……数秒後。
慰霊碑の花立ての水が、同時に揺れた。
風もない。地震でもない。
八つが、同じタイミングで。
その揺れの中で、ひとつの花立てだけ、水面に小さな泡が浮かんだ。
ぷつ、ぷつ、と泡が弾けて、最後にチリン、と、ごく小さな音がした。
僕は目を閉じた。
聞こえたのは鈴ではない。
糸が切れる音だった。

Tは肩で息をしながら、震える声で言った。
「……軽くなった」
彼の顔色が少し戻っている。
僕は頷いた。
終わったのかもしれない。終わったと思いたい。
帰り道、僕らは琴平橋を避けた。
避ける、という行為だけ。渡らない。
橋は“かえりみち”を渡してくれると言った女の声が、まだ耳に残っていた。
数日後。
Tから、一本の動画ファイルが送られてきた。
「編集した。公開はしない。君にだけ見せる」
僕は再生した。

映像は、慰霊碑の前で頭を下げる僕の背中。
音声は、ほぼ無音。
けれど最後の数秒、画面が暗転する直前に。
チリン。
鈴が鳴る。
しかもそれは、慰霊碑の前の鈴ではない。
橋の鈴でもない。
もっと近い。
まるで、再生している僕の部屋の中で鳴ったみたいに。

僕はヘッドホンを外し、息を止めた。
部屋は静かだ。
……なのに、机の端に、小さな影がある。
真鍮の鈴。
新しい光。
白い札。
墨で書かれた数字。
「一」

その下に、小さな字が滲む。
「かえりみち」
僕は、返事をしなかった。
ただ、鈴を掴まず、札も読まず、ライトを消して、窓を閉めた。

暗闇の中で、鈴がもう一度だけ鳴った。
チリン。
それは、笑い声に一番似た音だった。
(終)
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