第4話 網は“落ちる人”を守らない。落ちた“声”を逃がさない

※本記事は実話・体験談・聞き書き・現地の伝承をもとに、読み物として脚色を加えた怪談です。危険な場所への無断立入・夜間侵入・迷惑行為は行わないでください。

連載怪談「神流湖(琴平橋)— 網に残る鈴の音 —」

Tは、橋の中央で立ち尽くしたまま動かなくなった。
 彼の目は開いている。僕を見ている。
 でも焦点が合っていない。
 まるで、視線が僕の後ろ――網の向こうの暗い空間に吸い込まれている。

 僕は彼の肩を揺すった。
「帰るぞ。戻るぞ」
 その言葉を口にした途端、網の鈴が鳴った。
 チリン。
 “戻る”も“帰る”も、この場所では危ない単語だ。かえりみち――。

 湖面から、子どもの声が重なる。
「どこ……」
 僕は歯を食いしばった。返事はしない。
 返事をしないために、言葉を選ぶ。
 言葉を選ぶほど、言葉が罠になる。

 Tが、ようやく瞬きをした。
「……俺、見た」
 彼は囁く。
「網の向こうに、みんなの“声”が引っかかってる。声が糸みたいに垂れて、鈴に入ってる」
 僕は背中が粟立つのを感じた。
 この男は、比喩ではなく、見たのだ。

 Tは続ける。
「俺、最初は、ただの噂だと思ったんだ。神流湖が心霊スポットだとか、橋に女が出るとか。投稿サイトみたいにさ」
 彼の口調が、急に仕事モードに戻る。
「でも、公式の慰霊碑の話を読んだ。八名。毎年献花と焼香。ちゃんと弔われてる。それなのに、“八”が増えようとしてる」
「増える理由は?」
 Tは唇を歪めた。
「弔いが、足りないんじゃない。弔いを“利用”してるんだ。弔いの場にある『数』を、橋が真似てる」
 数。八。
 慰霊碑の八。
 網の八。
 鈴の八。

 僕は思い出した。慰霊碑の花立てに、同じ高さで張っていた水。
 湖は、弔いの場所まで来ていた。
 弔いを濡らし、弔いの言葉を吸い、弔いの数を覚えた。

 Tが、僕のカメラを指した。
「撮れてるなら、見せてくれ。映像の中でなら、俺は返事をしないで済む」
 僕は迷った。
 けれど、見ないままでは終わらない。
 僕は車に戻り、ノートPCを開き、カメラの映像を取り込んだ。

 画面に映る夜の琴平橋。網。鈴。
 そして、橋の下。湖面。札。
 Tが息を呑む。

 札の数字は、フレームごとに変わっていた。
 七、八、九、十――。
 そして、次のフレームで、札がひっくり返る。

 裏面に、文字が書いてある。

 「いまの なまえ」

 Tが喉を鳴らした。
「……俺だ」
 彼は、自分の苗字を、言いかけた。
 僕は反射でモニターを閉じた。
 だが遅い。
 閉じる瞬間、スピーカーから――チリン、と小さな音が漏れた。

 それは映像の音じゃない。
 車内の音だ。
 助手席の足元から鳴った。

 僕は震えるライトで照らした。
 助手席のマットの上に、小さな鈴が落ちている。
 新しい真鍮の光。
 網に増えていた、あの鈴と同じ。

 鈴には、紙が結ばれていた。
 白い札。
 そこには、墨でこう書かれている。

 「九」

 Tは泣き笑いの顔で、僕を見た。
「来た。俺の番だ」
「違う。返事しなければいい」
「返事しなければ――“かえりみち”が分からないまま、ずっとここに置かれる」

 僕は口を開いた。何か言おうとして、言葉が出ない。
 言葉が罠なら、沈黙が安全か?
 いや、沈黙もまた、返事になり得る。
 ここでは、息さえ返事になる。

 そのとき、車の窓に、手のひらが貼り付いた。
 外だ。
 誰かがいる。

 僕は振り向けなかった。
 振り向いたら、見てしまう。
 見たら、読んでしまう。
 読んだら、返事になる。

 窓の外で、女の声がした。
 柔らかく、優しく、母親のように。

「九つめは、もう結ばれたよ」
「八がそろわないって言っただろ」Tが吐き捨てる。
 女は笑う。
「八は“弔い”の数。九は“つながり”の数。十から先は――“戻る数”」

 窓ガラスが、内側から濡れたように曇った。
 外気は乾いているのに。
 曇りの中に、指で書かれた文字が浮かぶ。

 「こんぴら」

 琴平。金比羅。
 橋の名前。
 そして、海の神。舟の神。
 “渡る”ことに関わる神の名。

 女が囁いた。
「渡してあげる。かえりみち、渡してあげる」

 僕の背中に、冷たいものが触れた。
 網の鈴と同じ冷たさ。
 鈴が、僕の首筋で鳴った。

 チリン。

(つづく)

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