第3話 門ヶ谷トンネルの出口で、車が空っぽになる

※本記事は実話・体験談・聞き書き・現地の伝承をもとに、読み物として脚色を加えた怪談です。危険な場所への無断立入・夜間侵入・迷惑行為は行わないでください。

連載怪談「神流湖(琴平橋)— 網に残る鈴の音 —」

Tと合流したのは、次の夜だった。
 彼は痩せて見えた。というより、皮膚が一枚薄くなったようだった。
「……君。行ったんだな。抜鉾も」
 彼は僕の手元――カメラバッグを見て、苦く笑う。
「撮れた?」
「撮れた。でも、見せたくない」
「じゃあ、俺が見る」

 その瞬間、彼のスマホが鳴った。
 チリン、と。
 着信音ではない。
 鈴だ。

 Tは青ざめて、スマホを投げ捨てそうになり、思い直したように電源を落とした。
「……来てる。俺にも」
 僕は言った。
「“八”が、そろってない」
 Tは頷く。
「そろわせようとしてる。橋の網は、止めるためのものじゃない。回収して、数えるためのものだ。落ちた人間の声を、鈴にする。鈴が増えると、次の札が出る」

 僕は喉の奥で、乾いた笑いが出た。
「そんな馬鹿な――」
「馬鹿で済ませられるなら、俺は来てない」

 門ヶ谷トンネルの前に、誰も乗っていない車が停まっていた。
 まるで、昨夜の話が反復されるように。こういう「空っぽの車」の目撃談は、体験記にもあった。
 Tが車の窓を覗き込み、眉をひそめた。
「鍵が、刺さってる」
 エンジンは切れている。ライトも消えている。
 なのに、ラジオだけが微かに鳴っていた。雑音に混じって、アナウンスが聞こえる。

『――献花と焼香を……八名の尊い命が……』

 Tが唇を噛む。
「それ、俺が送った音声と同じだ」
「じゃあ、誰が流してる?」
 Tは答えなかった。答えられなかった。

 僕らは車から離れ、琴平橋へ向かった。
 夜の橋は、昼より赤い。
 赤が黒に沈まず、むしろ黒に浮く。血の色は暗闇でも消えない、ということを、橋が教えてくる。

 橋の入口の看板に、小さな文字があった。
 “いのち”の文言。止める言葉。
 でも、止める言葉は、ときに押す。
 押される方向が、見えないぶんだけ。

 中央へ進むと、網の鈴が、勝手に鳴った。
 チリン、チリン。
 風が吹いたわけではない。
 橋が呼吸しているみたいに、一定の間隔で鳴る。

 Tが、網の結び目を指差した。
「増えてる……」
 僕は数えた。
 一、二、三、四、五、六、七――。
 そして、八。
 昨夜と同じはずなのに、鈴が一つだけ新しい。真鍮の光が違う。
 磨かれたように、皮脂のない光。

 その新しい鈴に、紙が結ばれていた。
 札だ。白い紙。
 数字が書いてある。

 「九」

 Tが呻いた。
「……八じゃない。超えた。超えてる」
「八は、殉職者の数だろ?」
「そう。だから八は、弔いの数だ。ここまでは“過去”の数。九は――」

 Tが言い切る前に、橋の下から、女の声がした。
 初日に聞いた、女と同じ声。網に触れた女。
「九つめは、だれの鈴?」
 声は笑っているのに、怒っていない。
 むしろ、優しい。

「九つめは……“今夜のあなたたち”の鈴」

 Tが、反射で叫びかけた。
「やめ――」
 その言葉が返事になりかけた瞬間、僕は彼の口を手で塞いだ。
 指先が震える。
 Tの唇は冷たい。冷たいのに、なぜか湿っている。まるで水を吸っているみたいに。

 湖面がざわめいた。
 波がないのに、水だけが呼吸する。
 下から、白い札が上がってくる。ひとつ、ふたつ、みっつ……。

 札には数字が書かれている。
 七、八、九。
 そして、十。

 Tが僕の手の下で、喉を鳴らした。
 泣き声か、笑い声か分からない音。
 彼は僕の手を掴み、引き剥がして、かすれた声で言った。

「……俺、最初に言ったよな。“鈴の音に返事するな”って」
「言った」
「でもさ……返事しないと、ここから出られない道もあるんだよ」

 Tは、網に指をかけた。
 鈴が鳴る。
 チリン。

 僕は叫んだ。
「触るな!」
 叫びは返事だ。
 その瞬間、橋がぐらりと揺れた。
 足元が浮く。
 僕の声が、網に絡め取られて、鈴の中に吸い込まれていく感覚がした。

 湖の底で、誰かが数えている。
 ゆっくり、丁寧に。
 九。十。
 そして次は――。

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