※本記事は実話・体験談・聞き書き・現地の伝承をもとに、読み物として脚色を加えた怪談です。危険な場所への無断立入・夜間侵入・迷惑行為は行わないでください。
連載怪談「神流湖(琴平橋)— 網に残る鈴の音 —」

Tと合流したのは、次の夜だった。
彼は痩せて見えた。というより、皮膚が一枚薄くなったようだった。
「……君。行ったんだな。抜鉾も」
彼は僕の手元のカメラバッグを見て、苦く笑う。
「撮れた?」
「撮れた。でも、見せたくない」
「じゃあ、俺が見る」
その瞬間、彼のスマホが鳴った。
チリン、と。
着信音ではない。
鈴だ。

Tは青ざめて、スマホを投げ捨てそうになり、思い直したように電源を落とした。
「……来てる。俺にも」
僕は言った。
「“八”が、そろってない」
Tは頷く。
「そろわせようとしてる。橋の網は、止めるためのものじゃない。回収して、数えるためのものだ。落ちた人間の声を、鈴にする。鈴が増えると、次の札が出る」
僕の喉の奥から、乾いた笑いが出た。
「そんな馬鹿な――」
「馬鹿で済ませられるなら、俺は来てない」
門ヶ谷トンネルの前に、誰も乗っていない車が停まっていた。
まるで、昨夜の話が繰り返されるように。こういう「空っぽの車」の目撃談は、体験記にもあった。
Tが車の窓を覗き込み、眉をひそめた。
「鍵が、刺さってる」
エンジンは切れている。ライトも消えている。
なのに、ラジオだけが微かに鳴っていた。雑音に混じって、アナウンスが聞こえる。

『――献花と焼香を……八名の尊い命が……』
Tが唇を噛む。
「それ、俺が送った音声と同じだ」
「じゃあ、誰が流してる?」
Tは答えなかった。答えられなかった。

僕らは車から離れ、琴平橋へ向かった。
夜の橋は、昼より赤い。
赤が黒に沈まず、むしろ黒に浮く。血の色は暗闇でも消えない。橋がそう教えてくる。
橋の入口の看板に、小さな文字があった。
“いのち”の文言。止める言葉。
でも、止める言葉は、ときに押す。
どちらへ押されるのか、見えないぶんだけ。
中央へ進むと、網の鈴が、勝手に鳴った。
チリン、チリン。
風が吹いたわけではない。
橋が呼吸しているみたいに、一定の間隔で鳴る。

Tが、網の結び目を指差した。
「増えてる……」
僕は数えた。
一、二、三、四、五、六、七。
そして、八。
昨夜と同じはずなのに、鈴が一つだけ新しい。真鍮の光が違う。
磨かれたように、皮脂の曇りがない光。
その新しい鈴に、紙が結ばれていた。
札だ。白い紙。
数字が書いてある。

「九」
Tが呻いた。
「……八じゃない。超えた。超えてる」
「八は、殉職者の数だろ?」
「そう。だから八は、弔いの数だ。ここまでは“過去”の数。九は――」
Tが言い切る前に、橋の下から、女の声がした。
初日に聞いた女の声と同じだ。網に触れた、あの女。
「九つめは、だれの鈴?」
笑っているような声に、怒りはない。
むしろ、優しい。

「九つめは……“今夜のあなたたち”の鈴」
Tが反射的に叫びかけた。
「やめ――」
その言葉が返事になりかけた瞬間、僕は彼の口を手で塞いだ。
指先が震える。
Tの唇は冷たい。冷たいのに、なぜか湿っている。まるで水を吸っているみたいに。

湖面がざわめいた。
波がないのに、水だけが呼吸する。
下から、白い札が上がってくる。ひとつ、ふたつ、みっつ……。
札には数字が書かれている。
七、八、九。
そして、十。
僕の手で口を塞がれたまま、Tが喉を鳴らした。
泣き声か、笑い声か分からない音。
彼は僕の手を掴んで引き剥がすと、かすれた声で言った。

「……俺、最初に言ったよな。“鈴の音に返事するな”って」
「言った」
「でもさ……返事しないと、ここから出られない道もあるんだよ」
Tは、網に指をかけた。
鈴が鳴る。
チリン。

僕は叫んだ。
「触るな!」
叫びは返事だ。
その瞬間、橋がぐらりと揺れた。
足元が浮く。
僕の声が網に絡め取られ、鈴の中に吸い込まれていく感覚がした。
湖の底で、誰かが数えている。
ゆっくり、丁寧に。
九。十。
そして、次の数へ。
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