第2話 慰霊碑の花は、必ず八本

※本記事は実話・体験談・聞き書き・現地の伝承をもとに、読み物として脚色を加えた怪談です。危険な場所への無断立入・夜間侵入・迷惑行為は行わないでください。

連載怪談「神流湖(琴平橋)— 網に残る鈴の音 —」

翌日、僕は昼の神流湖へ戻った。
 夜の湖を見たあとだと、昼の景色はあまりに「普通」で、逆に不気味だ。釣り人がいて、走り屋みたいな車がいて、売店の自販機がきちんと光っている。
 ここが、昨夜の場所と同じだなんて信じられない。

 ダム管理所に近い駐車場の端に、慰霊碑があると聞いた。
 正式な案内資料にも、建設工事で殉職された方々を慰霊碑で祀り、毎年お盆のころに献花・焼香を行うと書かれているらしい。しかも“八名”。
 僕の背中が冷たくなった。
 紙の「八」。鈴の数。札の番号。

 慰霊碑は静かだった。
 花立ての金具がいくつか並び、線香の灰が薄く残る。新しい花はない。けれど、花立ての内側に――水が張っていた。昨夜の雨でもないのに、透明な水が八つの花立てすべてに、同じ高さで。

 僕は不意に思う。
 ここは湖じゃない。
 湖が、ここまで来ている。

 慰霊碑の前で手を合わせた瞬間、ポケットの中でスマホが震えた。Tからメッセージ。
『行ったのか。見た? “八”』
 僕は短く返す。
『見た。橋に、網に、鈴があった』
 送信した直後、さらにTが打つ。
『その網はな、俺が知ってる限り“いつから”あるのか曖昧なんだ。古い写真に無い時期がある。だから、あれは後から……』
 後から? 誰が? 何のために?
 問いを打つより先に、Tから音声データが送られてきた。

 再生すると、最初は風の音。次に、人のざわめき。
 そして、落ち着いた男性の声が、淡々と読み上げる。

『――殉職者慰霊碑に、献花と焼香を行いました。建設にあたっては労働災害により八名の尊い命が失われ……』

 公式の文章を読んでいるような声だ。
 だが途中で、音が混じった。
 チリン。
 文章の切れ目に合わせて、鈴が鳴る。
 まるで、句読点の代わりに。

 僕は再生を止めた。
 慰霊碑の前で、鈴の音を聞きたくなかった。

 その日の夕方、僕は抜鉾神社へ向かった。
 神流湖のほとり、保美濃山トンネルの脇。旅行記でも「こんな美しい神社が心霊スポットだと…」と書かれているらしい場所だ。
 社殿は小さく、木の香りがする。手水鉢の水が冷たく澄んでいる。
 だが、境内の空気だけが、妙に重い。

 鳥居をくぐった瞬間、背後からバイクの音が聞こえた。
 振り返ると、トンネルから出てきたライダーが速度を落とし、こちらをちらりと見た。
 その視線が、僕ではなく
 僕の右肩の後ろを見ている。

 ライダーは、唇を動かした。声は届かなかった。
 けれど表情だけで分かった。

 「いる」

 僕は喉を鳴らし、境内の奥へ進んだ。
 拝殿の鈴緒が垂れている。鈴は大きく、普通の参拝鈴だ。
 それでも、手を伸ばせなかった。
 昨夜のことがよみがえる。鈴の音に、返事するな。

 代わりに、賽銭箱の横に置かれた木札を見た。
 参拝者が願いを書く札だろう。
 そこに、ひとつだけ、裏返しのまま立てかけられた札がある。新しい木の色。
 僕は触らずに、覗き込んだ。

 裏側に、薄い墨で数字が書いてある。
 「七」

 背筋が、ぞくりとした。
 八が足りない 女の言葉。
 八はそろわない。
 だから、七がここにある。

 そのとき、拝殿の奥から、誰かが小さく息を吸った。
 人の気配。
 僕は反射的にライトを向けた。

 ……誰もいない。
 なのに、拝殿の床板に、濡れた足跡だけがあった。
 子どもの足跡が、ひとつ。ふたつ。みっつ。
 足跡は賽銭箱の前まで来て、そこで止まっている。

 足跡の止まった場所
賽銭箱の前に、何もないはずの空間が、ほんの少しだけ暗い。
 そこだけ、光が吸われている。

 暗い空間から、声が落ちた。

「……かえりみち、どこ」

 子どもの声。
 答えたら終わる。返事になる。

 僕は口の中で、無理やり別の言葉を作った。
 「……だいじょうぶ」
 返事ではない。自分への言い聞かせだ。
 けれど声になった瞬間、拝殿の参拝鈴が
誰も触れていないのに鳴った。

 ゴォン……。

 鈴の重い音が、境内の木々を揺らす。
 そして、その余韻に重なるように、どこか遠く――湖の方角から、細い鈴が鳴った。

 チリン。

 僕は理解した。
 神社の鈴が鳴ると、湖の鈴が応える。
 湖の鈴が鳴ると、橋の鈴が応える。

 全部が、一本の糸で繋がっている。
 その糸の結び目が――「八」だ。

(つづく)

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