第1話 赤い橋に、網が張られている

※本記事は実話・体験談・聞き書き・現地の伝承をもとに、読み物として脚色を加えた怪談です。危険な場所への無断立入・夜間侵入・迷惑行為は行わないでください。

連載怪談「神流湖(琴平橋)— 網に残る鈴の音 —」

YouTube撮影の依頼は、いつもみたいに軽かった。
「群馬の神流湖。琴平橋って赤い橋、知ってる? そこ、撮ってきて」
 電話口の友人Tは、観光動画でも回すみたいな口調で言った。けれど、最後の一言だけ、声がひび割れていた。
「……絶対に、鈴の音に返事するな」

 鈴? と聞き返す前に電話は切れた。
 送られてきた位置情報は、神流湖の上流側、国道462号から分岐していくあたり。トンネルの名も添えられていた。門ヶ谷トンネル。

 夜の山道は、信号の代わりに闇の濃淡があるだけで、走れば走るほど自分が細くなる。
 神流湖が見えたとき、胸がすっと冷えた。水面は暗い鏡で、山の形をそのまま沈めている。ダム湖の水は、海みたいに怖い。深さが見えないというより、深さが“こちら側”にある気がする。

 赤い吊り橋が見えた。
 ライトに照らされて浮かび上がる朱色の骨組み。欄干――いや、その外側に、透明な網が張られている。落下防止のネットだろう。観光の口コミでも「ネットが張られている」と見た覚えがある。
 それでも、あれは“守り”というより、“捕獲”に見えた。

 橋に足を乗せた瞬間、乾いた金属音が響いた。
 ギィ……と鳴る吊り材の唸りではない。もっと小さく、もっと近い。
 チリン。

 思わず足を止める。
 鈴の音だった。風もないのに。
 網の向こう、湖面のど真ん中から、音が届いたように感じた。

 スマホを取り出し、録画を回す。
 画面の中に赤い橋が伸び、黒い水が光を吸う。手ブレ補正が勝手に働く。僕の指が震えているのを、機械が隠そうとしている。

 そのとき、橋の中央付近、網の結び目のあたりに――白い紙切れが貼り付いているのが見えた。
 風で飛んできたのかもしれない。だが、紙はまっすぐに張り付いていて、たった一枚だけが、まるで誰かの名札みたいにそこにある。

 近づいて覗き込む。
 紙には、太い墨文字で数字が書かれていた。

 「八」

 そしてその下に、小さな字。
 僕は読みたくないのに、目が勝手に追った。

 ――「かえりみち」

 次の瞬間、湖面から鈴が鳴った。
 チリン。チリン。
 音が、橋の下へ近づいてくる。水の上を、何かが滑ってくるみたいに。

 僕は網越しに下を見た。
 暗い水面に、白いものが浮かんでいる。札――板切れ? いや、紙のように薄いのに、水に溶けず、濡れてもいない。
 その白い札が、橋の真下で止まった。

 札の上には、同じく墨で――「八」。
 そして、札の端に結ばれた、小さな鈴。

 鈴が鳴った。
 風ではない。波でもない。
 札が、自分で揺れた。

 そのとき、僕の背後で、足音がした。
 振り返ると、橋の入口側、暗がりに誰かが立っている。
 頭の影が細い。髪が長い。
 女――と判断するより早く、その人影が、網に手を添えた。

 網が、びくりと震えた。
 僕の指先の温度が奪われる。
 女は、こちらを見ていない。女は、湖面の札だけを見ている。

 そして、唇だけが動いた。

「……まだ、八がそろわない」

 言葉の意味が分からない。分かりたくない。
 背中を伝う汗が冷え、首の後ろが痛いほど引きつった。

 女は続けた。
 僕ではなく、札に向かって。

「次は、だれが――“返事”をするの?」

 湖面の鈴が、ひときわ澄んだ音で鳴った。
 チリン――。
 まるで、問いにうなずくように。

 僕は思い出す。Tの話。
 鈴の音に、返事するな。

 なのに、喉の奥で、音にならない返事が生まれてしまう。
 こぼれそうになる息を噛み殺した瞬間、札が――水面から、ゆっくりと浮き上がった。

 札が、橋へ近づく。
 網がある。落ちないはずだ。落とせないはずだ。
 なのに札は、網の目をすり抜けるみたいに、するりと僕の足元へ滑ってきた。

 白い札。黒い「八」。
 その下に、新しい文字が滲むように現れる。

 ――「あなたの なまえ」

 僕は叫びそうになって、口を塞いだ。
 叫びは返事だ。返事は――「かえりみち」。

 背後の女が笑った。
 笑い声じゃない。吐息だけで作った音。

「いい子。返事をしない子は、まだ“この世”に置ける」

 女の指が、網をなぞる。
 網が、僕の耳元で、チリンと鳴った。
 網に、鈴が結ばれている? そんなはずは――。

 僕は震えるライトで橋の先を照らした。
 網の結び目、結び目、結び目――そこに、小さな鈴がいくつも括り付けられていた。
 まるで、漁網に浮きが付いているみたいに。
 網は、落ちる人を守るのではない。
 落ちた“声”を、回収するための網だった。

 そして、鈴の数は――八つ。

(つづく)

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