翌日は昼前に家を出た。
千葉から北へ、昨夜と同じルートを走った。カブで高速には乗れないから、国道をつないで二時間半かかる。山が近づくにつれて民家の間隔が広がっていく。田んぼと畑、それから杉林が続く。集落の密度がどんどん薄くなる。
峠道の手前に、小さな集落があった。
昨夜は素通りした。今日は止まってみようと思っていた。
集落の入口近くに、一軒だけ店がある。飲み物と乾き物が棚に並んで、奥にテーブルが三つある。食堂とも商店とも言い切れない、何でも屋に近い作りだ。引き戸を開けると、古い木の匂いとだしの匂いが混じっていた。
「カレーうどんできますか」
「できる」
奥から出てきた七十代に見えるおじいさんが短く答えた。それだけで座った。
壁に貼り物がある。消防団の連絡先、公民館の予定表、薬局の広告。その端に、古い道路地図がセロハンテープで貼り付けてあった。折り目が黄ばんでいる。
地図を見ながらカレーうどんを待つ。
峠の旧道が細い線で描かれている。現在の県道とは別のルートで、山の内側に入り込んでいる。昨夜走った道と一致していた。
「あの旧道、昨夜間違えて入りました」
湯気の立つ器を置きながら、おじいさんが少し手を止めた。
「ナビが古くて。入ってすぐ気がついて引き返したんですけど」
「なんともなかったか」
問いかけではなく、確かめるような言い方だった。
「影みたいなものが見えました。前を歩いてる人みたいな」
おじいさんが振り向いた。
表情は変わっていない。ただ洗い物の手が止まっていた。
「引き返したんだな」
「はい」
「そうか」
しばらく間があった。
「あの道の先に集落があったと調べました。昭和三十九年の水害で孤立して、翌年に移転したと」
「そうだ」
おじいさんは布巾で手を拭いて、カウンターに腕を置いた。
「四十七戸あった。俺の親戚も三軒いた。全員降りてきたが、一人だけ残った婆さんがいた」
「残ったんですか」
「『もう動けない』と言った。息子夫婦が引き取ろうとしたが、最後まで首を縦に振らなかった。結局そのまま亡くなった」
私は箸を置いた。
「その婆さんが、降りる人間たちに言い残したそうだ。『道の向こうから来た者は、道の向こうへ帰せ』と」
「どういう意味ですか」
「わからん。ただそう言ったというだけだ。意味を聞けた人間はもういない」
カレーうどんが冷めていく。食べながら聞いていたが、箸を動かす気になれなかった。
「あの旧道で何かを見た人間は、たいてい引き返してくる。引き返さなかった人間の話は、あまり聞かん」
「引き返さなかった人は」
「話を聞いたことがないというだけだ。どうなったかは知らん」
それ以上は言わなかった。
おじいさんは奥に引っ込んで、後は出てこなかった。
代金を台の上に置いて外に出た。
山からの風が当たる。昼前なのに谷間は薄暗く、見上げると稜線の上だけが青い。カブのシートに腰を落として、ミラーを直した。
もう一度、壁の地図を思い出した。
旧道の終点に、誰かが鉛筆で書き込んでいた。
「久重集落跡」
地図の印刷とは違う手書きの文字で、ほかの書き込みより後から加えられたとわかった。誰が、いつ書いたのかはわからない。
エンジンをかけた。
「道の向こうから来た者は、道の向こうへ帰せ」
走り出してからも、その言葉が頭から離れなかった。
昨夜の影が何だったのか、まだわかっていない。
ただ、あれが「道の向こうから来た者」だったのか。それとも私が「道の向こうへ」引き込まれかけたのか。
どちらとも取れる言葉だと、峠を下りきってから気がついた。
家に帰り着いたのは夕方だった。
その夜、旧道の入口だけ写真に撮っておこうと思い立った。証拠というか、自分の記録として。次に行くなら昼間にして、入口だけ撮って戻る。それだけのつもりだった。
ところが翌週、現地に着いてみると、旧道の入口に何かが貼ってあった。
A4一枚の白い紙だった。


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