古墳と発見
奈良県明日香村の高松塚古墳は、7世紀末から8世紀初頭ごろの二段築成の円墳。1972年の調査で、石室壁面の男女群像、四神、日月、星宿図が発見され、飛鳥美術・東アジア交流研究を大きく進めた。
確認事実
築造時期は藤原京期(694~710年)を中心に考えられる。人物の服飾・持物、描画材料、墓制には中国・朝鮮半島を含む東アジア文化との関係がみられる。壁画は国宝。カビ・漆喰劣化への対策のため石室を解体し、壁画は修理施設で保存されている。
被葬者候補
天武天皇の皇子、忍壁皇子、高市皇子、朝鮮半島系王族・有力者などが提案されてきた。しかし墓誌・人名銘文がなく、人物像の服制だけで性別・官位・民族を一意に決められない。出土人骨や副葬品も盗掘・保存状態の制約を受ける。
「飛鳥美人」の注意
呼称は近現代の親しみやすい通称で、被葬者の家族肖像と確認されたものではない。壁画は葬送空間の象徴体系として読む必要がある。
公的資料
- 国営飛鳥歴史公園・高松塚古墳
- 奈良文化財研究所・2026年高松塚出土品追加指定
- 文化庁古墳壁画の保存活用
- 国指定文化財等データベース
最終確認:2026-07-19。
ショウガ穴から始まった発見
高松塚古墳は、奈良県明日香村平田にある二段築成の円墳である。復元された墳丘は下段直径約二十三メートル、上段約十八メートル、高さ約五メートル。丘陵の南斜面に築かれ、墳丘の中央には二上山産の凝灰岩切石を組んだ小さな横口式石槨が置かれていた。
発見の端緒は一九六二年頃に遡る。村人がショウガを貯蔵する穴を掘ったところ、凝灰岩の切石が見つかった。その後、周辺の遊歩道整備に伴って調査の必要が生じ、一九七二年三月、奈良県立橿原考古学研究所を中心とする発掘が始まった。三月二十一日に石室内の彩色壁画が確認され、二十六日の新聞発表で全国的なニュースになった。
古墳は鎌倉時代頃に盗掘され、石室南壁には盗掘孔が開いていた。それでも石室の奥には壁画が残り、漆塗り木棺の断片、棺金具、大刀金具、海獣葡萄鏡、ガラス玉、琥珀玉などが回収された。副葬品が少ないことを最初から簡素な葬儀だったとみなせない。盗掘で失われた品と、辛うじて残った品を分けて考える必要がある。
壁画発見後、調査は文化庁へ引き継がれた。一九七三年に古墳が特別史跡、翌年に壁画が国宝となった。「飛鳥美人」の鮮やかな姿は教科書や切手、展覧会で広く知られたが、発見の時点から保存と調査は両立の難しい課題だった。
藤原京期に絞られた築造年代
当初、海獣葡萄鏡や墓制、壁画様式から、築造は七世紀末から八世紀初頭と考えられていた。二〇〇五年の墳丘調査により、古墳は藤原京期の六九四年から七一〇年の間に築かれたとする年代が公的解説で採用されている。藤原京への遷都から平城京遷都までの十六年間に当たる。
年代決定は、一点の土器だけで特定年が読めたという意味ではない。墳丘の版築、周溝、墓道、石槨の構造、出土遺物、周辺の終末期古墳を照合して幅を狭めた結果である。棺を納めた年と、墳丘工事を始めた年、壁画を描いた年が完全に同日とは限らない。
この時期は、天武・持統朝を経て律令国家の制度が整い、都城、寺院、官営工房の建設が続いた時代である。唐、新羅、旧百済・高句麗系の人々や技術も列島社会へ入っていた。高松塚の壁画を「純粋な日本画」か「外国人が描いた輸入画」のどちらかへ分けるより、東アジアの図像と飛鳥の葬送が交わる制作環境として捉える方が資料に合う。
一六人の男女群像
石室は南北約二・六五メートル、東西約一・〇三メートル、高さ約一・一三メートルしかない。切石の上に厚さ数ミリの漆喰を塗り、東西の壁に男子群像と女子群像、四神、日月、北壁に玄武、天井に星宿を描く。人が立って鑑賞する部屋ではなく、棺を納め、閉ざすための空間だった。
東壁は入口側から男子群像、青龍とその上の日像、女子群像が並ぶ。西壁は男子群像、白虎と月像、女子群像という対応を取る。男子も女子も四人一組で、合計十六人になる。人物は笏、団扇のような翳、払子、袋などと解釈される品を持ち、被葬者に随う儀仗の列を形づくる。
西壁女子群像は、赤、黄、緑、青系の上衣と長い裳を重ね、四人の服の配色を変えている。「飛鳥美人」は発見後に定着した親しみやすい呼び名で、壁画に書かれた題名ではない。四人が実在する被葬者の妻や娘を写した肖像だと示す銘もなく、理想化された従者像、葬送儀礼の人物列として読むのが基本になる。
顔立ちや髪形から民族を判定することもできない。古代絵画の人物は一定の様式で描かれ、衣服や持物にも儀礼上の型がある。唐代墓壁画や高句麗・新羅の壁画との類似は、図像と技術の伝播を考える材料だが、「この顔だから何国人」と決める証拠ではない。
四神、日月、星宿がつくる墓室
東の青龍、西の白虎、北の玄武は現存するが、南壁の朱雀は盗掘孔が開けられた場所に当たり失われたと考えられる。四神は方位と季節を守る霊獣で、日月、星宿とともに死者を宇宙的な秩序の中へ置く。人物群像が地上の儀礼を担い、四神と天井画が天上を囲む構成である。
日像には金箔、月像には銀箔が使われた。銀は長い時間に黒く変色し、発見時に制作当初の輝きをそのまま保っていたわけではない。金銀箔が使われていることと、墓室全体が常に眩しく光っていたことも別である。石室を閉じれば内部に光は入らず、完成後の絵は生者の日常的な鑑賞から隔てられた。
天井には円形の金箔で星を表し、朱線でつないだ星宿図がある。キトラ古墳のように赤道、黄道、内規、外規を備えた精密な天文図ではなく、星空を象徴的に配置した図である。この差から被葬者の知識や官職を直接読み取ることはできない。原図、工房、天井形状、依頼内容の違いでも説明できる。
白虎の向きは高松塚とキトラの比較でよく取り上げられる。高松塚の白虎は一般的とされる南向き、キトラでは北向きである。向きの違いは図像系統を考える手掛かりだが、どちらかが誤り、あるいは秘密の宗教を示すと即断する材料ではない。
彩色は何から作られたのか
壁画は切石へ直接描かれたものではなく、薄い漆喰層の上に顔料を置いている。赤、黄、緑、青、黒、白に見える部分には、鉱物性顔料や炭素系材料、金銀箔が使われた。顕微鏡観察、蛍光X線などの非破壊分析、剥落片の調査によって、粒子や元素の分布が調べられてきた。
材料が大陸由来か列島産かを一点で決めるのは難しい。同じ鉱物は複数地域で採れ、精製や混合で性質が変わる。顔料の化学組成が似ることは技術交流の証拠になり得るが、絵師の出身地を示す戸籍にはならない。筆の運び、下描き、彩色順序、服飾文様も合わせて工房の技術を検討する。
発見時に「極彩色」と驚かれた壁画も、すべての箇所が同じ濃さで残っていたわけではない。盗掘孔から入った外気と水分、カビ、漆喰の浮きによって、退色、変色、剥落が進んだ。現在見慣れた鮮明な写真には撮影時期の違いがあり、一九七二年の写真と二〇〇〇年代の写真を同じ状態として比較できない。
海獣葡萄鏡と棺の手掛かり
盗掘を免れた代表的な副葬品が海獣葡萄鏡である。葡萄唐草と獣を組み合わせる隋唐鏡の系譜を持ち、築造年代や東アジア交流を考える資料になった。ただし鏡の製作年と墓へ納められた年は同じとは限らない。持ち主の生前に用い、伝世した後に副葬された可能性もある。
棺は、断片から漆塗り木棺だったことが分かる。金銅製の透飾金具、銅釘などは棺の外観と構造を復元する手掛かりになる。大刀金具、玉類は被葬者の地位を考える材料だが、品の組み合わせが盗掘前のまま残っていないため、当初の副葬品一式を再現することはできない。
人骨も残存状態が悪く、性別や年齢をめぐって分析と見直しが行われてきた。骨から得た推定は候補者の年齢と照合できるが、個人名を返すものではない。DNAを採ればすぐ皇族か渡来系か分かるという説明も現実的ではない。古代の比較対象となる確実な親族試料、汚染管理、系譜上の対応が必要だからである。
二〇二六年三月二十六日、文化審議会は高松塚古墳出土品の重要文化財への追加指定を答申した。対象には、石室解体に伴う近年の発掘で見つかったガラス玉、一九七二年出土品のうち奈良県側に保管されていた刀装具や木棺の一部などが含まれる。新指定は新しい被葬者名が判明したという発表ではなく、分散して保管・研究されてきた出土品の文化財価値を一括して位置づけ直す動きである。
被葬者候補を比べる条件
被葬者として、忍壁皇子、高市皇子、弓削皇子など天武天皇の皇子たち、石上麻呂ら有力官人、朝鮮半島系の王族・氏族など多くの名が挙げられてきた。候補を評価するには、死亡年が藤原京期に入るか、葬地に関する文献があるか、年齢と骨の推定が合うか、墓の規模と当時の身分秩序に矛盾しないかを確かめる。
忍壁皇子説は、死亡年や皇族としての地位から繰り返し論じられる。高市皇子説は高い地位と死亡時期が注目される一方、皇子の墓制として古墳の規模が適切かという議論がある。特定の渡来系人物説は壁画の大陸的要素と結びつけられるが、図像の由来と被葬者の出自を一つにする弱点がある。
墳丘が円形であることも候補選びに使われる。律令期に天皇陵や皇族墓の形が制度化される過程にあり、八角形墳などとの比較が行われる。しかし形だけで身分表へ機械的に当てはめられるほど例は多くない。築造途中の政治変化、死者の扱い、地形条件も影響し得る。
墓誌が見つからず、人名を記した副葬品もない現状では、候補は仮説に留まる。壁画の豪華さから「少なくとも天皇級」と上げることも、小墳だから「下級官人」と下げることもできない。終末期古墳では外の大きさより、石材加工、内部装飾、副葬品に資源を集中する例がある。
壁画劣化が明らかになるまで
発見後は原位置保存の方針が採られ、石室南側に前室、準備室、機械室を持つ保存施設が建設された。石室の温湿度を監視し、作業者が入る際の環境変化を小さくする仕組みだった。一九七六年から保存修理が進められ、一九八〇年のカビ大量発生には薬剤処置などで対応した。
石室内は相対湿度がほぼ一〇〇パーセントで安定していた。人が短時間入るだけでも温度が上がり、湿度が下がる。発見によって外界とつながり、保存作業のための出入りが必要になったこと自体が、千年以上続いた環境を変える。原位置に置けば何もしなくても安全だったわけではない。
二〇〇二年から二〇〇三年に撮影された写真を検討し、雨水浸入やカビによる退色・変色が顕著になっていることが二〇〇四年に明らかになった。白虎の劣化が新聞で大きく報じられ、保存管理の経緯も社会的な検証対象になった。過去のカビ発生や事故情報の共有が遅れたことへの批判があり、文化財保存における記録と公開の重要性を示す事例にもなった。
劣化を単純に「発掘したから壊れた」または「文化庁が放置した」だけで説明すると、原因と判断過程を見失う。墳丘からの水分、石材、漆喰、微生物、空調、人の作業が複雑に関わった。対策の評価には、当時利用できた技術、観測値、異常を把握した時期、報告体制を分けて検証する必要がある。
石室を解体して運ぶ
恒久保存対策の検討を経て、壁画を描いた石材を一度取り外し、修理施設へ運ぶ方針が決まった。二〇〇六年十月に墳丘調査と石室解体事業が始まり、二〇〇七年に断熱覆屋と修理施設が完成した。石材は壁画面を保護しながら一枚ずつ搬出され、温湿度を管理した施設で修理された。
この方法は、壁画を石から剥がして別の支持体へ移したキトラ古墳とは違う。高松塚では、壁画の漆喰を載せた石材ごと解体した。十六枚の石材を分ける際には、脆い漆喰と彩色層を振動や乾燥から守り、石の荷重を安全に受ける必要があった。
修理ではカビや汚れを除き、浮いた漆喰を安定させ、破片を接合した。色を派手に塗り直して発見時の写真へ近づける作業ではない。失われた線を想像で補えば、古代の絵と現代の加筆の境界が曖昧になるため、現存部分を固定し、調査可能な状態で残すことが優先される。
国営飛鳥歴史公園の公的案内では、修復は令和元年度まで行われ、その後も修理施設で保存管理され、年に数回公開されている。二〇二五年九月には文化庁の保存方針が一部改正され、二〇二六年三月には新しい保存管理公開活用施設の展示方針も公表された。したがって、壁画が元の石室へ戻ったという状況ではない。
墳丘は整備され、石室があった場所は保存されている。近くの高松塚壁画館では精密な模写や復元模型で全体配置を見られる。実物公開は保存条件に合わせた期間限定であり、複製は「偽物」ではなく、閉ざされた葬送空間を継続的に説明するための展示資料である。
「鮮やかさの謎」を誤解しない
壁画が千年以上残った理由を、失われた超古代顔料や未知の防腐技術だけに求める必要はない。石室が閉鎖され、光が入らず、温湿度の変化が小さかったこと、無機顔料や金箔が用いられたこと、漆喰に保護されたことが重なった。一方で水と微生物の影響は受けており、発見時にも完全な状態ではなかった。
色材と技法の研究は、当時の工房が東アジアの材料知識を共有していたことを示す。配色、筆線、人物配置には高度な計画がある。それでも「現代に再現不能」と煽るのは正しくない。材料分析、模写、漆喰試料の再現実験によって、多くの工程は検討できる。分からないのは技術の存在そのものより、誰がどの資料を用い、何人で、どんな順序で描いたかという具体的な制作組織である。
壁画は被葬者名を隠す暗号でもない。衣服の色を冠位へ直接対応させる説、人物数を特定の官職へ割り振る説、星の並びから埋葬日を読む説には、図像の欠損と制度年代のずれを検討する必要がある。確認できる構図と、研究上の比定と、物語的な暗号解読を同じ段に置かないことが、壁画を損なわず読む方法になる。
高松塚が確かに伝えるのは、藤原京期の飛鳥で、東アジアの四神・日月・星宿と儀仗人物を一つの墓室へ構成する技術があったことだ。被葬者の名は未確定でも、墳丘、石室、出土品、絵画、保存記録は互いを補う。誰の墓かという問いだけに価値を集めず、古代の制作と現代の保存の両方を追うことで、この壁画が半世紀以上にわたり研究を更新してきた理由が見えてくる。
