カブのヘッドライトが切れたのは、撮影帰りの夜だった。
七月の終わり、千葉の内陸の田園地帯で夜景の素材を撮った帰り道になる。
月のない晩で、田に映る星を狙って三脚を立てていた。

素材の出来は悪くない。
機材を仕舞い、いつも通りの帰路につくはずの夜だった。
県道に出てすぐ、前を照らす光が瞬きもせずに落ちた。
玉切れだ。
夜の無灯火で走るわけにはいかない。
幸い、少し先にコンビニの灯りが見えていた。
押して歩き、事情を話して駐車場の隅へ置かせてもらう。

店員は若い男で、防犯カメラの映る位置がいいですよと場所まで選んでくれた。
問題は帰りの足だ。
調べると、店の前の県道をバスが通っている。
市街地の駅まで出る路線で、最終が二十二時台に一本残っていた。
田と集落を縫って走る、本数の少ない郊外の路線だ。
バス停の標識は錆びて、時刻表の紙が日に焼けて白くなっていた。
二十分ほど待つと、白い車体が来た。

待つ間に通る車は数えるほどしかない。
田の闇の向こうで犬が短く吠え、それきり静かになる。
昼間なら気にも留めない静けさが、バス停のベンチではやけに大きく感じられた。
乗客は誰もいない。
後ろの扉から乗り、整理券を取った。
番号は四番。指で確かめてから財布に挟んだ。
車内は空だった。

運転手と私だけを乗せて、バスは夜の県道を走り出す。
冷房が効きすぎていて、汗が引いた後は少し寒いくらいになった。
窓の外は田の闇と、まばらな家の灯り。
乗る予定のなかった最終バスの、あの落ち着かない明るさの中に私はいた。
バスの車内というのは夜になると水槽に似る。
白い照明に照らされた席の列が窓に映り込み、外の闇と二重になって流れていく。
映り込みの中の車内は実物より少し広く見えた。
空席が多いせいだと思う。
バスの話を先にしておく。
友人のNは、長く路線バスのハンドルを握っていた男だ。
今は辞めて別の勤めをしている。
乗り物の整備の話で知り合い、たまに互いの家で酒を飲む。
几帳面な男で、路線の癖を停留所単位で覚えている。
どこの停留所は朝だけ人が並ぶとか、どこのカーブは落ち葉で滑るとか、道を暦と地図の両方で語る。
ハンドルを置いた今も、話の中身はバスのままだ。
深夜の路線の話になった時、Nが妙なことを言った。
「降車ボタンはな、たまに勝手に点く」
古い車両の接触不良もある。
座席の背に膝が当たって押される事故もある。
そういう説明のつく点き方が九割だと前置きした上で、Nは残りの話をした。
誰も乗っていない最終便で、点く。
Nの会社では、と言いかけてNは言い直した。
会社の決まりではない。
先輩から口で引き継ぐ決まりがあった。
点いたら、停まる。扉を開ける。
ひと呼吸置いて、閉める。
誰も乗せず、誰も降ろさなくていい。
開けることだけはやれ。
理由は教わらなかったという。
決まりというのはそういうものだと先輩は言った。
理由を知る頃には代わりに教える側になっている。
順送りの口伝で、社内の書類にはどこにも載っていない。
「開けなかった先輩がどうなったかは聞くな。俺も聞かなかった」
N自身も一度だけ経験している。

雨上がりの深夜、乗客ゼロの最終便。
田の中の停留所の手前でチャイムが鳴り、ランプが点いた。
ミラーで車内を確かめた。誰もいない。
決まりの通りに停め、扉を開けた。
ステップの照明が、一瞬だけ翳ったという。
人が乗り込む時、足元の照明はそういう翳り方をする。
ミラーの中の通路には誰も現れなかった。
ひと呼吸置いて扉を閉め、発車した。
終点の営業所で車内を点検すると、運賃箱の隅に十円玉が二枚落ちていたという。
濡れていたそうだ。
その日の営業所の記録では、雨は夕方に上がっている。
最終便が走った時間帯、路面はもう乾き始めていた。
十円玉だけが、まだ雨の中にいたことになる。
その晩、金を払って降りた客はいない。
Nは十円玉を営業所の忘れ物の箱に入れ、報告書には何も書かなかった。
書く欄がないからだ。
「最終はな、回収の便なんだよ。忘れ物と、数え落としを拾って戻る。そういう便だと思っとけ」
冗談の顔で言っていた。目は笑っていなかった。
バスは順調に走っている。
集落に入るたびに停留所の標識が窓を流れる。
降りる者も乗る者もいないから、バスは速度を緩めるだけで通過していく。
車内放送の女の声が、次の停留所の名前を淡々と読み上げ続けた。
最初のチャイムは、乗って十五分ほどで鳴った。
ぽん、という軽い音。
天井の赤いランプが点き、つぎとまりますの文字が光った。
押していない。
座席の背にも触れていない。
車内には私しかいない。
バスが減速した。
田の中の停留所だった。
街灯が一本、標識と小さなベンチを照らしている。
待つ人の姿はない。
扉が開いた。

夜の空気が段を上がってくる。
運転手は何も言わない。アナウンスもない。
ひと呼吸ぶんの間があって、扉が閉まってバスは走り出した。
接触不良。Nの言った九割の方だと思うことにした。
思うことにして、座る位置だけ変えた。
ボタンから遠い席へ。
膝が触れる場所のない、通路側の一人掛け。
移った席の窓に自分の顔が映り、その顔が思ったより硬いのが分かった。
二度目は、その十分後だった。
ぽん。赤いランプ。減速。
今度の停留所は集落の外れで、街灯すらなかった。

ヘッドライトの光の中に標識だけが立っている。
扉が開き、ひと呼吸おいて閉まる。
運転手の手つきに迷いがなかった。
慣れた動きだ。
この便のこの道で何度もやっている動きに見えた。
ミラー越しに運転手の目がこちらを見る。
何か言われるかと思った。
目はすぐ前方に戻り、バスは発車する。
ランプを見上げた。
つぎとまります、の文字が消えていない。
停まって開けて閉めたのに、点いたままになっている。
次の停留所を過ぎても消えず、その次の停留所の手前で、思い出したように消えた。
運転手に聞くことも考えた。よくあるんですか、と。
聞けば九割の側の答えが返る気がした。
返らなかった時のことを考えて、口は開かなかった。
車内放送の声だけが、変わらない調子で地名を読み続けている。
三度目は降りる一つ手前の停留所だった。
チャイムが鳴る前に、匂いが変わる。
冷房の乾いた空気の中に、濡れた土の匂いがひと筋通った。
雨は降っていない。窓は閉まっている。
匂いの出どころを探す間もなく、ぽんと鳴った。
減速。停止。扉が開く。
神社の前の停留所だった。
鳥居が光の端に見え、その奥は闇に沈んでいる。
時刻表の枠が街灯の下で白く浮いていた。
最終の欄に、いま乗っているこの便の時刻が載っている。
この停留所にとっても、今日はこれが締めの一本になる。
ひと呼吸の間が、今度は長かった。
運転手は扉を開けたまま待っていた。
ミラーの中の顔は前を向いている。
開いた扉から夜気が流れ込み、濡れた土の匂いが濃くなった。
床が、かすかに沈んだ気がした。
人が乗り込んだ時の、あの沈み方に似ている。
振り向いて確かめる勇気の代わりに、窓ガラスの映り込みで車内を見た。
座席の列。白い照明。誰もいない。
扉が閉まった。
発車したバスの中で、吊り革がひとつだけ揺れていた。

私の頭上の列ではない。
通路を挟んだ反対側の、前から三つ目。
他の吊り革はカーブのたびに揃って揺れるのに、それだけが違う拍子で揺れて、少しずつ収まっていった。
誰かがつかまって、手を離した後の揺れ方だった。
降車ボタンに手を伸ばす。
押す前に、ぽんと鳴った。

赤いランプが点く。つぎとまります。
私が押すはずだった停留所の名前を、放送の声が読み上げる。
指は宙に浮いたままだった。
バスが停まり、扉が開いた。
財布から整理券を出し、運賃表を見上げて小銭を数える。
四番の運賃、四百二十円。
運賃箱の前で、整理券の番号を見た。
五番だった。
取った時に指で確かめている。四番だった。
財布に挟んでから、一度も出していない。
券の紙は少し湿っていて、印字のインクが指に薄く移った。
運転手は券を見て、何も言わずに料金の投入口を目で示した。
五番の運賃も四百二十円。同じ区間だった。
私は小銭を落とし、段を降りた。
扉が閉まる。
バスは赤いテールランプを残して、駅の方へ走り去った。
テールランプが遠ざかる途中で、一度だけ膨らんで見えた。
ブレーキの光だ。
次の停留所はまだ先のはずで、あの位置に標識はない。
光はすぐ元の大きさへ戻り、カーブの先へ消えた。
降りた停留所から自宅までは歩いて十分ほどになる。
その十分の間、後ろは振り返らなかった。
庭の門を閉めた音で、ようやく息が深くなる。
翌日、バルブを買ってコンビニまでカブを取りに行った。
店の駐車場で工具を広げ、ヘッドライトのカバーを外す。
バルブは切れていなかった。
フィラメントは通っている。
念のため付け直してスイッチを入れると、何事もなく点いた。

新品のバルブは使わないまま荷箱に収まる。
あの夜、確かに光は落ちた。
押して歩いた三十分は現実で、今この目の前でライトは点いている。
店員に礼を言って、日の高い県道を帰った。
ここから先は私の憶測になる。
Nは最終便を回収の便だと言った。
忘れ物と数え落としを拾って戻る便だと。
あの晩の路線で拾われていたのが何なのか、私には分からない。
三つの停留所で扉は開き、少なくとも一度は床が沈んだ。
神社の前で乗ったものが、どこで降りたのかも知らない。
整理券だけが、勘定に残っている。
四番で乗った客と、五番の券で降りた客。
数の上では、あの便から見て私は途中で入れ替わっている。
運賃が同じ区間だったから、帳尻は合ったままだ。
ライトが切れていなかったことは、考えないようにしている。
切れていないライトが消えて、私はあのバスに乗った。
回収の便に、ちょうど間に合う時刻だった。
数え落としの側に立っていたのが自分ではないと、言い切れる材料がない。
後日、Nに固定電話でこの話をした。
Nはしばらく黙り、番号のことだけ聞き返してきた。
五番の券は湿っていたか。
湿っていたと答えると、Nは短く言った。
なら払い済みだ。
どういう意味かは教えてくれなかった。
カブのライトはあれから一度も瞬いていない。
Nの言葉の続きだけ、ここに置いておく。
回収の便は、拾い残すと次の日も同じ道を回る。
拾えた分は帳面から消える。
私の四番は、たぶんもう帳面にない。


