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顔を向けないで

申し込みの欄には、演劇経験なしと書いた。文化会館の二階にある練習室へ行くと、受付の女の人が、見学ですか、と訊いた。体験ですと答えた声が大きすぎて、奥で椅子を並べていた二人がこちらを見た。五十三にもなって、演劇をやってみたいという一言がうまく言えなかった。

会社では新人向けの説明動画に出たことがある。画面を見た同僚に、意外と声がいいと言われ、それを十年以上覚えていた。子供の手が離れたとか、退職を控えたとかいう事情はない。土曜に一度、人に見てもらえることをしてみたかった。受付でもらった薄い台本を開いたが、今日それを読む予定はないらしかった。

練習室は細長く、窓側に折り畳み椅子が八脚並んでいた。舞台も幕もなく、反対側の壁際だけ床が空けてある。ここを舞台と思ってください、と指導役の柳川さんが言った。白髪を後ろで結んだ小柄な女性で、膝に水筒を挟んだまま話した。服を選びすぎて紺のジャケットで来たのは、私一人だった。

最初は部屋を歩いた。誰かの合図で止まったり、速さを変えたりする。先に参加した人の足取りを真似しているうちに、暑くなって上着を脱いだ。途中で肩がぶつかった若い女性が「すみません、私が急に止まったから」と笑った。その人も初めてだという。川瀬さんと呼ばれていたが、私は下の名前を聞き損ねた。

休憩のあと、二人ずつ向かい合って立つことになった。何もせず、相手を見る。目を逸らしたくなったら逸らしてもいい。笑わせようとしたり、何かを演じたりしないで、一分間そこにいるだけだと柳川さんは言った。「何もしなくていいんですか」と私が確認すると、隣で川瀬さんも頷いた。柳川さんは、難しいですよ、とだけ答えた。

私たちの順番は三組目だった。川瀬さんは壁の近く、私は椅子の列を背にして立った。間は二メートルほどだったと思う。足元の傷に右の爪先を合わせたのを覚えている。柳川さんが水筒の蓋を閉め、では、と言った。川瀬さんは唇を結んで私を見た。私は相手の眉のあたりを見ることにした。

静かになると、廊下で台車を押す音が聞こえた。川瀬さんの左肩が少し上がり、笑いそうになったのだと思って、こちらも口を緩めた。すると彼女は一歩退いた。笑いが引っ込んだ。彼女の右手が腰のあたりまで上がり、掌をこちらへ向けた。「待ってください」と、小さな声で言った。

私は動いていなかった。近づきすぎたのかと思い、足元を見た。爪先は床の傷に載っている。顔を上げると、川瀬さんは私の頭より高いところを見ていた。もう一度、待って、と言う。私は後ろを振り向いた。椅子に座った人たちは、みんなこちらを向いていた。柳川さんの右手が水筒の蓋にかかり、親指だけ浮いていた。

廊下の台車の音がしなかった。隣の部屋からずっと漏れていたピアノも止まっていた。柳川さんに話しかけたが返事がなかった。その隣の男の人は、顎を掻こうとした姿勢のまま、指を顎から少し離していた。目は開いている。私はまだ、こちらが何かを始めるのを待たれているのだと思った。

「柳川さん、これ、いったんやめてもいいですか」
 声を掛けても誰も動かなかった。川瀬さんが、どこにいるんですか、と訊いた。振り向くと、彼女は私のいた床を避けて壁へ寄っていた。「ここです」と手を上げたが、その手を見なかった。視線は椅子の列の奥、私には何もない壁の上の方に留まっていた。

「そんなところから見ないでください」
「私はこっちです。さっきのところにいますよ」
「違う。声は近いんです。顔が、ずっと向こうに」
 彼女はそこで口を閉じた。言いかけたまま唾を飲み、私の方へ顔を向けようとして、途中でやめた。演技の練習だからと、私はまだどこかで疑っていた。先に説明を受けた人が、初心者に何かを仕掛けることもあるのかもしれなかった。

椅子の列まで行って、柳川さんの肩に触れた。薄いシャツの下は温かかった。力を入れたわけではないのに、肩が椅子の背へ少し沈んだ。手を離しても、そのままだった。浮いている親指の爪に、小さな白い傷があった。瞬きをしない目を間近で見て、やっと川瀬さんの方へ戻ろうとした。

さっきまで白い壁の前に立っていた彼女が、遠くにいた。壁が後退したわけではなかった。目の前には白い塗装と、下の方の黒い擦れがある。その平らな面の向こうを、川瀬さんだけが歩いていた。照明の届かない広い部屋で、灰色の長椅子の間を縫っている。こちらへ向かっているつもりらしく、椅子に膝をぶつけるたびに顔をしかめた。

私は壁に手をついた。硬い。拳で軽く叩くと、薄く響いた。壁の向こうに彼女を見るというより、彼女のいる場所を見ようとする間だけ、手前の壁が目に入らなくなった。川瀬さんの膝に触れた長椅子には、背もたれがなかった。何列もあり、一番奥が見えなかった。誰も座っていないのに、彼女は何度も立ち止まって、すみません、と言っていた。

「何が見えますか」
 彼女に訊かれた。「あなたが見えます」としか答えられなかった。川瀬さんは首を横に振った。「そっちに、誰かいますか」
 椅子に止まった七人がいる、と私は答えた。彼女は長椅子の間で両腕を抱えた。こちらにはその声が、壁に向けた私の耳のすぐ横で聞こえていた。

川瀬さんには、私が高い窓から部屋を覗いているように見えるという。顔と肩だけが外から入っていて、体を引いても引いても近づいてくる。私が柳川さんの肩に触ったときは、こちらの手が窓枠の外に出て、彼女の顔のすぐ前を横切ったのだと言った。私は自分の右手を見た。肘も、袖を捲った位置も、いつもと同じだった。

「手、出さないでもらっていいですか」
 言われて両手を下ろした。それでも彼女は私を見上げていた。私は彼女の顔を見下ろしていた。同じ床に立ったはずなのに、私だけが高い場所にいるようだった。川瀬さんが指を出しかけ、すぐ握った。私の肩先をかすめて、冷たい風が一度だけ吹いた。

何か言わなければと思った。「柳川さんは、終わりって言いましたか」
 川瀬さんは私を見たまま口を開けた。「そんなこと、もういいです」
 その声を聞くまで、私は合図があれば全部をやめられる気がしていた。立っているだけだと言われたのだから、立っているだけで終わるはずだった。だが、彼女はもう長椅子の間にしゃがんでいた。床へ手を置きたくないらしく、両膝を抱えて爪先で体を支えていた。

私はもう一度、柳川さんを呼びに行った。自分だけは普通の床を歩ける。そのことが川瀬さんに悪くて、彼女を見ないようにした。すると、すぐ後ろで靴底が鳴った。振り向きかけた私に、彼女が「こっちを見ないで」と言った。足音が二つ続いた。「今、床があるんです。お願いだから、顔を上げないで」

私は椅子の脚を見ていた。銀色のパイプに、天井の灯りが細く映っていた。彼女の靴音が近づいてきた。私が息を吐くと、すぐ横で川瀬さんも長く息を吐いた。見えないまま、二人で立っていた。服の擦れる音に続いて、ファスナーが鳴った。壁の向こうで小さく見えていた人が、手を出せば触れられる場所にいる。その確かめ方を、私は選べなかった。

「出口、どっちでしたっけ」
 川瀬さんの声は、さっきより低かった。部屋の入口は椅子の列の左にあった。私は指さす代わりに、方向を言った。彼女が歩き出してから、私はその背中を見たいと思った。ちゃんと床を歩いているか、ドアまで行けたか。それくらいは見なければならない気がした。顎が上がりかけたところで、川瀬さんが「まだです」と言った。床に私の靴と彼女の靴が見えた。彼女の爪先は入口の方を向いていた。

椅子が鳴った。柳川さんの水筒の蓋が、かちりと音を立てた。「はい、そこまでです」と、さっきと同じ穏やかな声がした。私は顔を上げずに、終わったんですか、と訊いた。柳川さんが返事をする前に、川瀬さんの靴が視界から消えた。ドアが開き、廊下のピアノの音が大きくなった。

柳川さんは、二人ともずいぶん緊張したんですねと言った。私たちが話していたのは聞こえなかったという。始めてすぐに背を向け合い、そのまま一分立っていたのだと、隣の男の人も言った。誰かが時計を見てくれた。休憩が終わってからまだ五分も経っていなかった。川瀬さんが壁の向こうにいたことを話そうとしたが、柳川さんの目がドアへ向いたので、私は途中でやめた。

荷物を取り、廊下へ出た。川瀬さんは窓際にいた。私は離れたところで立ち止まり、床に置かれた白い鞄だけを見た。「もう大丈夫ですか」と訊くと、少し待ってから「私には、ここが廊下に見えてます」と返ってきた。私は、こちらにも廊下が見えていると答えた。

向かいの喫茶店に入ったのは、どちらから誘ったのでもなかった。階段を降りたあと、すぐ別れていいのか分からず、入口の献立を見る振りをして二人で止まった。川瀬さんが、少し座りたいと言った。私は四人席の、彼女と対角になる場所に座りかけた。彼女は無言で隣の椅子を引いた。横に並ぶと、店員が向かいの椅子から余分なメニューを下げた。

「本当に、見えてたんですよね」
 彼女が訊いた。私は長椅子のことを話した。角に巻かれた黒い布、膝をぶつけたときの音。川瀬さんは、床だと思って足を下ろすと、その下にまた椅子があったと言った。私には一度も彼女の足が沈んだようには見えなかった。こちらが見ていたものを細かく話すほど、彼女は口数を減らした。

コーヒーを飲み終えるまで、私たちは互いの顔を見なかった。途中で川瀬さんが携帯を出し、誰かに迎えを頼んだ。会館の名前を言い、違う、その向かい、と言い直した。私は連絡先を交換しませんかと言いかけた。何か分かったら知らせられる。けれど、彼女は電話を切ったあと「もう、あそこに行かないです」と言った。それは私に返事を求める声ではなかった。

店のガラスに、隣り合った二人が映っていた。私は自分の肩から先を見ないようにしていた。川瀬さんが椅子を引き、代金を卓上へ置いた。帰るときくらい、と顔を向けかけると、彼女の手が私の袖に触れた。つまむほどの力もなかった。「そのままで」と言って、離れた。店員のありがとうございましたという声がしたあとも、私は自分の前の空のカップを見ていた。

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