夫が私を描くようになったのは、結婚して二十三年目のことだった。
それまでに描いてもらった絵は、一枚しかない。付き合い始めた頃、喫茶店の紙ナプキンに描いた横顔だ。顎を細く描きすぎだと言うと、紙を丸めかけたので取り上げた。今も私の引き出しにある。
夫は五十で会社を辞め、家で絵を描いていた。よく考えて辞めたのではない。上司と喧嘩をして帰ってきて、そのまま行かなくなった。私の勤めは続いていたし、家のローンもあと少しだったから、次を探すまでの間なら、と言った。その「間」が三年になった。
描いているのは近所の川や、魚屋でもらう空箱だった。展覧会に出すこともあったが、私には絵を見せなかった。どう、と尋ねて褒められるのが嫌なのだと思う。私たちはそういうところだけ、若い頃から変わらなかった。
ある朝、目覚めると、左の頬がぬるぬるしていた。
枕に透明な液が染みている。唾液だと思って洗面所へ行ったら、首に細い赤い線がいくつも付いていた。寝汗で髪が貼り付き、引っかいたのだろうと、そこで考えるのをやめた。
翌朝は襖に穴があった。指を押し込んだような穴が、床から私の肩ほどの高さまで、斜めに五つ並んでいた。裏の桟まで欠けている。
夫に見せると、黙って襖を外した。私が玄関で靴を履いている間に、何かの紙を貼っていた。
その晩、夫の部屋に大きな絵が立ててあった。
表はこちらを向いていない。側面の白い布に、細かな黒い毛が何本も付いていた。夫が飼っていた犬の毛に似ていたけれど、その犬はもう六年も前に死んでいる。
「何を描いてるの」
「おまえ」
私が顔を出すと、夫は絵の前に立った。モデルを頼まれたことはないと言うと、寝ているところを描いたのだと答えた。見せて、と近づく私を、珍しく強い声で止めた。
「まだ駄目だ」
私も意地になって、それからは見せてくれと言わなかった。ただ、寝室へ来るなら声をかけてほしかった。夜中に知らないうちに顔を覗かれるのは嫌だった。
夫は夕飯を食べながら、悪かった、と言った。
翌朝、また首に傷があった。今度は皮膚の下に、小さな藁のようなものが刺さっていた。毛抜きでつまむと、先が皮膚の中で折れた。茶色いものが一滴、洗面台へ落ちた。私は毛抜きを置き、鏡の中の自分から顔を背けた。
夫がしているのではないかと、一度は思った。
寝ている私に、何かを塗ったり刺したりしている。そこまで考えた自分が嫌で、昼休みに妹へ電話した。夫の悪口を言うつもりはなかったのに、仕事を辞めてからの話までしてしまった。
妹は話を遮らず、最後に、今夜うちに来なよ、と言った。身体の傷は診てもらったほうがいいし、一人で夫に問い詰めることはない、とも言った。
帰って着替えを袋に入れていると、夫が寝室の戸口に立った。
「今日も、そこに寝てくれないか」
その言い方で、私は袋を持って立ち上がった。
「何をしたの」
夫は答えなかった。
「寝てる間に何をしたのって聞いてる」
「俺は、見てただけだよ」
絵を見せて、と言った。今度は、私のほうが夫の部屋へ先に入った。絵の上には薄い布がかかっていた。布を引くと、木枠の角に引っかかり、縦に裂けた。
長い、横たわったものが描いてあった。
暗い床に、白い腹が重なっていた。一つの身体なのか、何匹も寄り合っているのか分からない。灰色の膨らみから細い毛が伸び、その先がまた肉の中へ入っていた。左端には、私の寝間着があった。十年以上も着ている、襟が伸びた青いものだ。その袖から出た腕は、絵の右の端まで続いていた。
顔を捜すと、絵の下のほうに見つかった。腹の陰から、片方の目だけがこちらを見ている。瞼の脇に、小さなほくろがあった。
「ひどい」
私はそれしか言えなかった。夫は絵の前まで来て、床に膝をついた。
「初めは、もっと小さかった」
私の顔を見ずに言った。
「布団から何か出てると思ったんだ。おまえを起こそうとして、肩に触ったら、向こうの端が動いた」
夫は指で、絵の右端を示した。長く伸びた腕の先は、木枠の向こうに隠れていた。
「呼ぶと戻るんだよ。名前を呼ぶと、おまえに戻る」
「それなら呼んでよ」
大声を出すつもりはなかった。夫の肩が一度だけ跳ねた。
私はそのまま妹の家へ行った。道で夫から電話が来ても取らなかった。妹には絵のことを話せず、夫と喧嘩をした、とだけ言った。
その晩は客用の布団を居間に敷いてもらった。妹はお茶を持って来て、明日は休みなんだから何時まででもいて、と言った。私は病院の予約を探していた携帯を伏せた。
「もし、変な寝方してたら起こして」
妹は笑いかけ、私の顔を見て、分かった、と言い直した。
眠った覚えがない。
目を閉じると、床が近くなった。横を向いているのに、頬の下に何もない。枕が遠くに見えた。白い枕カバーの端を、青い袖が押さえていた。
起き上がろうとしても、上げる頭の場所が分からなかった。喉の奥を風が通っていた。吸った空気が、胸へ行かず、ずっと遠くへ抜けていく。
妹の声がした。顔を向けようとした途端、居間のガラステーブルが持ち上がった。細い脚が一本ずつ床から離れた。私はその下にいる。テーブルを背中に載せたまま、まだ、立ち上がろうとしていた。
「動かないで」
妹が言った。泣いている声だった。
私は答えようとした。口の中に唾が溜まり、床へ細く落ちた。廊下の明かりの前に妹が立っていた。両手を胸に当て、私から離れようとして、背中を壁へぶつけた。
彼女の足元を、藁色の爪が掻いていた。あれは私の指だ、と分かった。曲げようとすると、妹の靴下の先が少し持ち上がった。
はっきり名前を呼ばれた。テーブルが落ちた音と同時に、私は布団の端へ吐いた。
妹は救急の電話をかけようとしていた。私はその手を止めず、居間から出た。廊下を這って、トイレへ入った。ドアを閉めてから、自分の腕を見た。普通の長さだった。爪に、白い壁の粉が詰まっていた。
妹は救急車を呼ぶか迷っていると言い、電話の相手に、今は起きて話せる、と伝えていた。その声が聞こえて、私は何度も、自分の名前を口に出した。
妹の家にはいられなかった。妹の靴下を持ち上げた爪の動きを思い出すと、ここでもう一度眠ることなど考えられなかった。私は妹に一晩の出来事をうまく説明できず、夫を呼んでもらった。迎えに来た夫を、妹は玄関から先へ入れなかった。
車の中で、私はずっと窓を開けていた。
「知ってたんだね」
夫はハンドルを握り直した。
「何回」
「三週間ぐらい」
三週間前の私を思い出そうとした。仕事をして、買い物をして、日曜日には夫と洗車をした。夫は助手席のマットを叩いてくれた。あの日も、あれを見た後だったのだ。
家へ着くと、私は夫の部屋へ行った。
同じ形の絵が、ほかに四枚あった。押入れに顔を寄せているもの。畳へ身体を擦り付けているもの。夫の絵の具箱を長い腕で引き寄せているもの。
どれにも、同じ目が描いてあった。私が絵の中で何を見ているのか、やっと分かった。全部、夫のほうを見ていた。
「助けてほしかったんじゃないの」
夫は黙っていた。後ろから近づいてくる気配がして、私は振り返った。
「描く前に、私を起こしてよ」
夫はその時、初めて絵に手をかけた。裏向きにしようとして、途中で止めた。
「怖かったよ」
「私だって怖いよ」
「そうじゃなくて」
夫は絵の中の目を見ていた。その先を聞きたくなくて、私は部屋を出た。まだ夜は明けていなかった。台所で電気を全部つけ、食卓の椅子へ座った。眠らずに朝まで待とうと思った。朝になったら、二人で病院へ行く。それから先のことは、その時に考えればいい。
夫は向かいへ座った。
一度、私が船を漕ぐと、夫が名前を呼んだ。私は驚いて顔を上げた。夫は頷き、お茶を足した。その手を見ながら、紙ナプキンの絵を思い出した。よく似ていると言わなかったせいで、あの人は丸めようとした。私はちゃんと嬉しかったのに、それを言わなかった。
二度目に眠りかけた時、椅子の脚が鳴った。
目を開けていた。食卓の縁がすぐ目の前にあった。夫の茶碗の裏に、米粒が一つ付いていた。私はそれを横から見ていた。身体を起こそうとすると、食卓がゆっくり浮いた。
夫は向かいの椅子から立っていた。
私の顔がどこにあるか、迷わず目を合わせた。名前を呼んで、と言いたかった。開いた口から、濡れた息が出た。床を擦るものがあり、私の身体の端が、夫の足首へ届いた。
夫は逃げなかった。片膝をつき、私を覗き込んだ。
「少しだけ」
両手を前へ出していた。右手に、鉛筆があった。
「少しだけ、このままでいてくれ」
私は夫の裾を引いた。呼んでくれる人が、ほかには家にいなかった。食卓が倒れ、茶碗が割れた。夫の膝に破片が食い込むのが見えた。血が出ても、夫は膝を動かさず、鉛筆を持つ手のほうを高く上げた。
私の顔を見つめていた。
あの紙ナプキンを渡してくれた時と、同じ顔だった。


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