叔父の煙草入れには、煙草が入っていなかった。咲希が留め金を押すと、白い煙が出た。火のついた匂いはしない。頬に触れたところだけが冷たく、冬に玄関を開けたときの空気に似ていた。
「それ、吸う物じゃないから」
叔父は食卓の向こうから手を伸ばした。咲希は慌てて閉め、返そうとした。ところが叔父はもう受け取らず、帰りに持っていけばいいと言った。道を間違えなくなる、と。
咲希が叔父の部屋を訪ねたのは、父に頼まれたからだった。実家を売る相談に、叔父だけが返事をしていなかった。住んでいた家族は皆、別々の町へ出ている。古い家を残しておく余裕はなく、父もそれを隠さなかった。
叔父は家を出てから三十年になる。年に一度、菓子を送るくらいの付き合いだった。咲希は小さいころ、彼に自転車を買ってもらった。一緒に選ぶ約束だったのに、来たのは組み立てた自転車だけだった。
いま叔父が暮らす部屋には、寝具と食卓、それに靴が三足あった。どれもよく歩いた靴だった。台所には鍋が一つ、茶碗が一つ。咲希の湯呑みは、洗ったジャムの瓶だった。叔父はそれを出すときだけ、悪いな、と言った。
家の処分の話になると、叔父は窓を見た。売るなとは言わない。ただ、もう少しだけ、と頼んだ。咲希は父が草刈りへ通う距離と費用を説明した。叔父は最後まで聞き、兄貴には悪いと思ってる、と答えた。
「一度、戻ったら」
咲希が言うと、叔父は煙草入れを見た。薄い金属の蓋に、細かな傷がついていた。咲希の手の中で、勝手に温まったり冷えたりしている。叔父は、帰るって簡単に言うなよ、と、初めて強い声を出した。
帰り道、咲希は駅を見失った。来るときは十分も歩かなかったはずだ。角を曲がると、同じ駐輪場の端へ出た。携帯の地図は普通に動き、駅はすぐそばにある。けれど、道の先へ行くたび別の塀が現れた。
叔父へ電話しようと鞄を開けた。煙草入れの留め金が外れ、白い煙が漏れていた。煙は上へ上がらず、咲希の足元を流れた。狭い塀と塀の間へ入っていく。そこは行き止まりのはずだった。
咲希は煙草入れを閉めた。塀の間がまた暗くなった。開くと、向こうに駅前の薬局の赤い看板が見えた。彼女は一度だけ後ろを確かめ、その隙間へ入った。肩が両側の壁へ触れた。
数歩で駅前へ出た。振り返ると、間にあった道は自動販売機の裏になっていた。人が通る幅はない。咲希は壁へ手を当てた。冷たく、指へ細い煤が付いた。ケースを開けた指には何も付いていなかった。
電車の中で叔父へ電話した。助かったと言うと、叔父はすぐに、何を持って帰った、と聞いた。咲希は鞄の中を確かめた。書類と財布、煙草入れ。叔父にもらった菓子の箱。特別なものはない。
「菓子は、うちへ置いてきたはずだ」
叔父はそう言った。咲希は箱を開けた。中には菓子が並んでいる。よく見ると一つだけ、叔父の部屋の湯呑み代わりの瓶が入っていた。瓶の口に、彼女が飲んだ茶の跡があった。
咲希が帰宅すると、玄関の内側に古い下駄があった。実家に残してきた祖父の物だった。子供のころ、それを履いて転んだことがある。緒の片方を針金で直したところまで同じだった。
父へ電話した。父は家を見に行ったばかりで、下駄は玄関にあったと言った。写真も撮ってあるという。送られてきた写真には、下駄がなかった。父は撮ったときにはあったと言い、しばらく黙った。
「弟のところへ、何しに行った」
咲希は怒られたと思った。父に頼まれたのだと言い返すと、分かってる、と答えた。父は、自分が行けばよかった、と声を落とした。咲希はその夜、下駄を家の外へ出せなかった。
翌日、叔父が来た。呼んでいないのに玄関に立っていた。下駄を見ると、玄関を移し始めたんだ、と言った。咲希がどこのと聞くと、俺の家の、と答えた。叔父は、いま借りている部屋のことを家とは呼ばなかった。
叔父は煙草入れを開いた。白い煙が玄関へ溜まり、下駄の緒を濡らした。壁に細い戸の形が出た。咲希が手を掛けようとすると、叔父はその手を押し戻した。向こうから、庭木を剪る音がした。
祖父が庭にいる音だった。けれど祖父はもういない。叔父は戸の形を見ずに、あれが聞こえる道は使うな、と言った。咲希が持つケースを何度も振った。煙は減らず、壁の中で、祖父の剪定鋏が鳴り続けた。
叔父は若いころ、祖父と喧嘩をして家を出た。働く先を転々とし、知らない町で道に迷ったとき、祖父の煙草入れを使ったのだという。火をつけたわけではない。開けるだけで、宿へ帰る近道が出た。
「便利だった。どこへ泊まっても帰れたから」
叔父は下駄の前へしゃがんだ。ところが、新しい部屋に物を揃えると、煙の先に実家の玄関が出るようになった。最初は茶碗を買った晩だった。次は箪笥を買った晩。戸を開けると、祖父が、荷物を片づけろ、と怒っていた。
引っ越せば、しばらくは出なくなる。だから叔父は、一つの所へ落ち着かなかった。荷物は増やさず、眠る場所だけ借りた。それでも何年か経つと、部屋の床に実家の敷石が出た。自分の家を持とうとするたび、出てきた家へ引き戻される。
「それで、私に渡したの」
咲希が聞くと、叔父はうなずいた。使う人が変われば、自分は離れられると思ったらしい。咲希はケースを床へ置いた。何かを言えば、声が大きくなりそうだった。叔父は拾おうとしたが、煙が噴き出し、ケースは咲希の靴へ戻った。
父が来たのは昼前だった。二人の話を聞くと、叔父を責める前に、咲希へ謝った。行かせるべきではなかった、と。玄関には下駄だけでなく、敷石が一枚出ていた。父が持ち上げようとすると、咲希の部屋の床まで下がり、石の下から庭の土が覗いた。
「お前の荷物、まだ二階にあるぞ」
父が言った。叔父は、知ってる、と答えた。家を出た日に、途中まで詰めた鞄が残っている。祖父と喧嘩になり、手ぶらで飛び出した。取りに戻ろうとしたことはあるが、門の中で、荷物を片づけろという声を聞くと足が止まった。
父は、あの部屋だけ手をつけなかったと言った。いつか叔父が戻り、自分で片づけるだろうと考えていた。祖父が死んでからも、そのままにした。咲希は二人の顔を見た。どちらも、残した部屋を相手のためだと思っていた。
三人で実家へ行った。父の車を使い、煙草入れは閉めて鞄の奥へ入れた。近道を探す必要はなかった。叔父は後部座席で、膝の上に何もない両手を載せていた。信号で止まるたび、指が鞄の持ち手を握る形になった。
実家の戸は父の鍵で開いた。庭の敷石が一枚なく、玄関に下駄もなかった。叔父だけが上がれなかった。咲希には普通の上がり框に見えたが、叔父は何度も足を浮かせた。庭で剪定鋏が鳴り、叔父の爪先へ、立った人の影が重なった。
父は二階へ上がった。咲希もついていくと、小さな部屋の隅に革の鞄があった。口が開き、半袖のシャツが出ている。父が持ち上げようとして、顔をしかめた。鞄の底は、畳から剥がれなかった。
咲希がシャツをつまむと、生乾きの温かさがあった。三十年置かれていた物とは思えなかった。その下に、紙で包んだ茶碗がある。さらに下から、箪笥の引出しの取っ手が出た。叔父が別の町で買ったはずの物が、ここに詰まっていた。
階下で戸が閉まった。父が降りていき、すぐに咲希を呼んだ。叔父はまだ框の外にいた。煙草入れを入れた咲希の鞄が、勝手に開いていた。玄関の脇に、咲希の部屋の靴箱が見えた。こちらからも、姪の家へ入れるようになりかけていた。
叔父は靴箱を見て、一段ずつ框へ上がった。庭で、誰かが靴底を強く叩いた。叔父は振り返らなかった。二階まで行くと、床へ膝をつき、開いたままの革鞄へ手を入れた。肩の後ろへ、小さな子供の肩が重なって見えた。
「持っていく物を、俺が決めてなかった」
叔父は中の物を出し始めた。茶碗、長い取っ手、使い込んだタオル。どの町で使った物かを、短く口にした。父が脇で受け取った。いくつ出しても底は見えず、鞄の内側から、叔父が住んだ部屋の戸が鳴った。
畳へ出した物は、しばらくすると崩れた。割れるのではなく、薄い煤になった。父の膝に載せた茶碗も、形を保ったまま黒くなり、指を離すと落ちた。叔父は拾わず、次の物を出した。最後に残ったのは、古いシャツと、片方だけの靴下と、小さな写真だった。
咲希は煙草入れを持って二階へ戻った。留め金を押していないのに、蓋が開いた。白い煙が鞄へ流れ、部屋の四隅を隠した。煙の向こうで、祖父が机に向かっていた。咲希が知る顔だったが、後頭部が壁の中まで続いていた。
父が祖父に呼びかけた。叔父は父の肘をつかみ、黙って首を振った。写真の中にも祖父がいた。若い兄弟を両脇へ立たせ、二人の肩へ手を置いている。叔父はその写真を、シャツの間へ挟んだ。
「これだけにする」
叔父は咲希の手の下へ革鞄を差し出した。ケースはまた彼女の方へ戻ろうとしたが、叔父が鞄ごと持ち上げた。煙草入れだけを押しつけたときとは違った。革の底へ冷たい重さが落ち、咲希の指から金属が離れた。
鞄の口を閉めるまで、長い時間がかかった。中へ入るはずのない戸板が引っかかり、取っ手が当たった。叔父は立って押さえ、父が両端を寄せた。咲希は細い肩紐を外し、留め具に絡まないようにした。最後に、家中の戸が一度だけ鳴った。
叔父は鞄を自分で下げ、階段を降りた。玄関の敷石と下駄が元へ戻っていた。祖父の声はしなかった。叔父が靴を履くと、二階で誰かが床へ座った。咲希は上を見ず、父と一緒に外へ出た。叔父は門を閉めてから、鞄の重さを持ち替えた。
家を売る話は、その日のうちに三人で決めた。叔父は今借りている部屋の住所を書いた。父が、それでいいのかと聞くと、もう引っ越さない、と答えた。咲希はまだ叔父を許せなかった。彼女に家を渡そうとしたことは、荷物を運んだからといって消えない。
帰りに、叔父の部屋へ寄った。叔父は革鞄を開け、シャツと靴下を畳み直した。写真を食卓に置き、戸がある場所を確かめるように振り返った。そこには、咲希が初めに訪ねたときに見た普通のドアがあった。叔父は茶碗を二つ買い足すと言った。
咲希の玄関からは、石も下駄も消えていた。翌週、父が叔父を訪ねると、部屋には洗濯物が干してあったという。三十年前のシャツも、新しい仕事着の隣に並んでいた。叔父は夕方から外出し、その晩は同じ部屋へ帰ってきた。
その後、父が叔父の部屋へ書類を届けたとき、煙草入れを見せてもらった。叔父の食卓の端に置かれ、開けても煙は出なかった。ただ、金属の内側に細い木片が挟まっていた。引き出そうとすると、売る家の戸が動く音がしたそうだ。父はその木片を残し、蓋を静かに戻した。


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