庭へ椅子を一つ出していいかと訊いたら、庄司さんは、どの辺、と訊き返した。
俺は部屋の窓から手を伸ばした。四月に越してきてから、あそこへ座りたいと思っていた。休みの日に鉢をいじり、暗くなっても、もう少し外にいたかった。
「その石の手前なら」
庄司さんは、庭を横切る細い縁石を指した。内側の菊は踏まないでほしいという。俺の鉢は全部、外側へ寄せてあった。
平屋を二つに分けた借家で、大家の庄司さんは奥に住んでいた。玄関は別だったが、庭は一続きだった。水道を借りたり、物干し竿を替えたりするたびに声を掛けた。庄司さんは大抵、いいよ、と言った。そのあとで置く場所を少し直した。
六十をいくらか過ぎた男で、俺の親父くらいの歳だった。よく喋るが、人の部屋へは来ない。俺も庄司さんの部屋へ入ったことはなかった。
椅子を運んだ土曜の夕方、庄司さんが灯籠を見ていた。
庭の真ん中にある、小さい石灯籠だった。俺が来た時には三つに分けて、植込みの脇へ伏せてあった。重い石をよく一人で積み直したものだと思った。
「夜なら、これ使えば」
火を入れる四角い所へ、電池のランプが置かれていた。白い小さな箱で、裏のボタンを押すと橙色に点いた。
「蝋燭は面倒だからね」
庭の端には電灯があった。俺が窓から手を伸ばして点けると、家のすぐ前は明るくなるが、植込みは暗い。俺はそれで十分だと思っていた。
庄司さんは灯籠の笠を撫でた。上だけ黒く、下の石は白かった。真ん中の柱には細い筋が何本か彫られ、その一本は途中で切れていた。
「元は、こうだったんですか」
「違う。合うのを載せた」
笠は以前、鉢を載せる台にしていたそうだ。柱と下の石も別々だったという。俺が知らなかっただけで、庭のあちこちに置いてあった物だった。
庄司さんは少し離れ、頭を傾けた。
「それらしくなっただろ」
俺は頷いた。柱と笠の間に隙間があり、向こうの葉が細く見えていた。それも古いものの味なのかと思った。買ってきた椅子の座面が赤すぎて、この庭に合わないことの方が気になった。
「もうちょっと、こっちへ」
庄司さんが椅子を指した。
俺は縁石を踏まないよう、両手で持ち上げた。言われた所へ置くと、窓の正面から、少し外れた。
日が沈むまで、庄司さんは隣へしゃがんでいた。俺の鉢を見て、水をやりすぎじゃないか、と言った。俺は昨日からやっていないと答えた。土へ指を入れてもいいかと訊かれ、どうぞ、と言った。
先を少し入れただけで、庄司さんは指を抜いた。
「なら、もうちょっと待てる」
俺には分からなかった。水をやるのを我慢する方が難しいんです、と言うと、庄司さんは笑った。俺はこの人と、家の直し以外の話をするのが初めてだと気づいた。
ランプを灯籠へ入れたのは、葉の色が見分けにくくなってからだった。
庄司さんが火袋の穴から手を抜くと、石の下に橙色の四角が落ちた。その横へ、黒いものが長く延びた。
初めは、庄司さんの影だと思った。
本人はしゃがんでいるのに、影には伸びた腕があった。地面へ掌をつき、背を低く丸めているように見えた。頭らしい丸みは、少し離れた植込みの中にあった。
俺は椅子から立った。自分の影が重なっているのかと思ったのだ。庭の電灯はまだ点けていなかった。窓の中の明かりも、カーテンに遮られていた。
庄司さんが背を伸ばすと、足元から細い影が普通に伸びた。さっきの黒い腕は、動かなかった。
「そこ、誰か」
言いかけて、何と言いたいのか分からなくなった。地面に人はいなかった。低い枝を透かして見ても、土と、昼間からそこにある丸い石が見えるだけだった。
灯籠の笠の下に、背中らしい影があった。笠が載っている柱からは、細い腕のようなものが伸びていた。台石の脇には、折り曲げた膝が二つ。
それぞれの間に土が見えた。繋がっていなかった。頭だけ横を向き、腕は下を支え、膝は反対へ曲がっている。人がそんな格好をできるのか、考えている間に、俺の腰が前へ落ちた。
転びはしなかった。右足を出したら止まった。けれど、かかとへ体重を戻せなかった。
足元の平たい敷石は、昼間と同じだった。椅子を置くために箒で掃き、がたつかない所を選んだ。そこで俺だけが、急な坂へ爪先を掛けたように突っ張っていた。
庄司さんは俺を見て、どうしたの、と言った。
「傾いてます」
俺が答えると、地面を見た。
「何が」
その時は、まだ普通に立っていた。
俺は椅子の背をつかんだ。引き寄せようとしたのではない。転ばないよう、少し手を置いただけだった。それなのに椅子が俺の方へ傾き、前の脚が二本とも浮いた。
慌てて放すと、脚が敷石を叩いた。椅子は元通りに立った。
俺の膝だけが伸ばせなかった。前へ折れないように腰を反らすと、喉の奥で唾が溜まった。飲み込んだ途端、口いっぱいに土の味がした。
乾いた埃ではなかった。鉢から抜いた根に鼻を寄せた時の匂いが、舌の奥へ押しつけられていた。
「気持ち悪いの」
庄司さんが近寄ろうとした。俺は手を上げた。
「そこ、気をつけて」
何を気をつけろと言ったのか、自分でも分からない。足元の土は動いていなかった。ただ、伸びた黒い腕の先が、庄司さんの踵の下へ来ていた。
庄司さんは一歩出しかけ、急に左へよろけた。俺から見て、庭の奥へ倒れそうになった。
俺は前へ、庄司さんは横へ。二人とも同じ坂に立っているのではなかった。
庄司さんは灯籠の笠へ手をついた。俺が止めるより先だった。石が小さく鳴り、笠だけが指二本ぶんほど滑った。
地面にあった背中の影が、腕から離れた。
俺は胸を押されたように息を吐いた。前へ落ちるはずの身体が、今度は右へ引かれた。足の裏は同じ敷石についていた。足首の形が変わったわけでもない。それなのに、身体を起こすためにどちらへ力を入れればいいのか分からなくなった。
庄司さんの手が笠から離れた。膝が地面へついたが、そこでも止まらず、肩から傾いていった。
俺は庄司さんの二の腕をつかんだ。服が掌の中で捩れた。
助け起こせると思った。立ち上がる力を少し貸せば済む、いつものふらつきに見えた。ところが引くと、俺の肩までそちらへ持っていかれた。
庄司さんが俺の肘をつかみ返した。太い指が、骨のすぐ上へ食い込んだ。
「離さないで」
庄司さんは俺を見なかった。地面の、何もない所を見ていた。
俺の口にはまだ土の味があった。歯を閉じると吐きそうで、息だけを小さく出した。
「明かり、消す」
庄司さんが言った。
片手を伸ばせば火袋へ届く場所にいた。俺は駄目ですとも、そうしてくださいとも言えなかった。庄司さんの腕を持つ手に、さらに力を入れた。
白いランプが穴から出た。地面の黒いものが一度、長く広がった。橙色の光が庄司さんの手の中で動き、俺は膝をついた。熱はなかった。土へついた膝が痛かった。
ボタンを押す音がして、光が消えた。
真っ暗にはならなかった。家の窓も、通りの街灯もあった。庭の形くらいは見えた。
俺は膝をついたまま庄司さんを引いた。傾きは消えていなかった。庄司さんは左へ持っていかれ、俺は右肩を下げないと息が詰まった。
灯籠の下には、ただ暗い土があった。膝の形も黒い腕も見えなかった。
庄司さんは、消えたよ、と言った。それから、俺をつかむ指を緩めかけた。
「まだです」
俺が言うと、指が戻った。
ランプが土へ落ちた。角を下にして転がり、二人の間で止まった。
俺はそれを見ていた。軽い箱が滑っていくわけでも、石が転がり出すわけでもなかった。庄司さんの膝も、地面を掘るようには動かなかった。腰から上だけが、そこに足場のない人のように傾いている。
俺は片手を地面へつこうとした。庄司さんの腕を放した途端、彼が息を呑んだ。俺の肘へ爪が立った。
手を戻した。ついた膝と相手の腕だけでは、どちらも身体を起こせなかった。
縁石の向こうへ足を出せば、少し広く踏ん張れた。
菊の株が並んでいた。まだ蕾ばかりで、支えの棒に細い紐が巻いてあった。俺の踵が入る隙間は狭かった。
「そこへ、足を」
訊きかけた時、庄司さんの顎が俺の肩へ当たった。歯が鳴るのが近くで聞こえた。俺は返事を待たず、縁石を越えた。
足を置いたところで、細い茎が折れた。植込みの土は柔らかく、踵が少し沈んだ。それだけでは傾きは戻らなかったが、膝を浮かせることはできた。
庄司さんの脇へ肩を入れた。汗をかいた首に、俺の頬が触れた。
この人にこんなに近寄ったことはなかった。俺は人の汗の匂いを嗅ぐのが苦手で、電車でも肩が触れると身を引く。なのに庄司さんが身体を離そうとすると、もっと寄ってください、と言った。
庄司さんは何も答えず、俺の背中へ腕を回した。
二人の胸の間に隙間がなくなると、傾く重さが少し変わった。俺が左肩を押し上げ、庄司さんが背中を引く。どちらかが強すぎると、もう片方の膝が折れた。
「俺が、こっち」
庄司さんが言ったが、こっちがどちらかは見えなかった。俺の顔は彼の肩に伏せていた。
「言うより、少しずつ」
俺が答えると、背中の腕が緩んだ。緩みすぎて、俺の腹が下へ落ちた。慌てて庄司さんの腰を抱えた。
俺たちは一度、二人とも膝をついた。庄司さんが短く息を吐いた。俺は謝りかけて、庄司さんの脇へ肩を入れ直した。口を開けば、土を食わされているような味が、また喉へ広がった。
窓の中に俺の携帯が見えた。充電するため、いつも窓台へ置いていた。ここからなら普通に四、五歩だった。
庄司さんは、呼んで、と言った。
誰を呼べばいいですかと訊こうとして、声を出してという意味だと分かった。俺は通りへ向かって、人を呼んだ。声がひっくり返ったが、もう一度呼んだ。塀の向こうで自転車の車輪が止まったような気がした。
顔を上げようとすると、庄司さんの腕が背中を強く引いた。俺は顎を彼の肩へ戻した。
庄司さんの膝が少し浮いた。俺の右足が、さらに植込みへ沈んだ。細い紐が足首に当たり、切れずに張った。
「足、踏んでますか」
庄司さんが訊いた。
「踏んでないです」
「じゃあ、もう少し寄って」
俺は折れた菊を避けず、足を半歩動かした。庄司さんの重さが胸へ来た。離れたがっていた俺の身体の右半分が、そこでようやく止まった。左の膝は、まだ地面へつけられなかった。


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