西さんが線路の真ん中に立っていたので、玲子は自転車を降りた。
「そこ、石が動きますよ」
声をかけても振り向かなかった。両手に買い物袋を下げ、踏切の向こうを見ていた。袋の底から長葱が一本はみ出し、白いところがレールに触れそうだった。
列車の来なくなった線路だった。駅が閉まったあとも、貨物が通るのだと町の人はしばらく言っていたが、その貨物も来なくなり、踏切の警報機には袋が被せられた。遮断棒は上げた状態で固定されていた。駅の跡まで歩くには、その踏切を渡るのがいちばん近かった。
西さんの夫は、昔、その駅から勤めに出ていた。降りてから酒屋へ寄る癖があったので、帰宅するころには少し赤い顔をしていた。亡くなったのは去年だった。玲子も通夜へ行った。西さんが客の靴を揃えてばかりいたことを覚えている。
「来ると思ったんだけど」
西さんはようやく振り向いた。
玲子はご主人のことだと思ったが、そうと決めて話すのはためらわれた。西さんはときどき物を忘れる。けれど、忘れたふりをして近所の集まりを休むこともある。玲子は自分もそうするので、区別がつかなかった。
買い物袋を自転車の前籠に入れ、西さんと並んで帰った。線路の向こうの空き地に、細長い水溜まりができていた。朝の雨が残ったものだった。西さんはそこを何度も振り返った。
「影がね、先に渡ったから」
玲子は帰宅してから、窓辺で葱を見た。西さんの袋から落ちた一本だった。先の白いところに、黒く細い筋がついていた。線路の油だと思った。洗っても落ちず、そこだけ切り取った。断面には、何もおかしなところはなかった。
翌日も、西さんは踏切にいた。
今度は近所の町田さんが一緒だった。二人で水溜まりを覗いていたので、玲子は何か落としたのかと聞いた。町田さんは、黙って見て、と手を振った。人が落としたものを探すなら手伝おうと思っていた玲子は、少しむっとした。
水には向かいの建物が映っていた。二階建ての古い菓子店で、今は閉まっている。窓には色の褪せたポスターが残り、一階の軒先には壊れた樋が垂れていた。その映りこみの前を、男が一人歩いていった。
水から目を上げても、誰もいなかった。
男は鞄を脇に抱え、線路のほうへ歩いていた。頭の下に足があるのが、おかしかった。建物は上下逆に映っているのに、その男だけは普通に立ち、水の底の道を歩いていた。玲子が息を止めて見ていると、男は端へ達する前に薄くなり、消えた。
西さんが、ほら、と言った。
町田さんは口元を押さえていた。あとで聞くと、二人に見えた男は違っていた。西さんは夫だと言った。町田さんは、以前この辺りへ新聞を配っていた人だと言った。玲子は、顔を見る前に消えたので、誰とも言えなかった。
そんな話が町に広まると、人が集まった。
線路の中へ入らないよう、誰かがカラーコーンを置いた。玲子はそれを見て少し安心した。子供も来る。写真を撮る人もいた。水溜まりは日が当たってもなかなか乾かなかった。翌朝には、かえって長くなっていた。
三日目の夕方、玲子も仕事帰りに通りかかった。水の中を、何人もの人が歩いていた。昔の服を着ているわけではない。どこにでもいる、勤め帰りの人たちだった。ただ、誰も携帯を持っていなかった。鞄や風呂敷や、細い棒に紐で括った荷物を持っていた。
玲子の隣で見ていた小学生が、「あの人、三回目」と言った。
水の中で、白い上着の女が踏切を渡っていた。一度消え、しばらくすると、また同じ端から現れた。歩く速さも、鞄を持ち直す場所も同じだった。けれど、姿が現れるたび、水に映る建物の高さが違っていた。二階の窓の前だったものが、一階の軒先へ下がり、次には戸口へ近づいていた。
玲子は子供を水から離した。自分でも、なぜそうしたか分からなかった。男の子は不服そうに腕を抜き、別の場所へ回ろうとした。母親が呼んだので、そこで帰っていった。
西さんだけが、暗くなるまで残った。玲子は自転車を押して声をかけた。
「また明日にしませんか」
「明日もいるかしら」
西さんが言うので、分かりません、と答えた。分かると言ったら、毎日ここへ来ることを勧めているようになる。それも嫌だった。
翌朝、空き地の持ち主が土を入れた。見物人に車の出入りを妨げられ、腹を立てていたらしい。玲子が通ったとき、細長い水溜まりはなくなっていた。男が角スコップで土を均し、昨日まで人が立っていたところへロープを張っていた。
西さんは道路の反対側にいた。責めるように見てはいなかった。それが玲子にはつらかった。水がなくなったんだから仕方ない、という顔を、わざわざ作っているようだった。
玲子は、駅まで一緒に行きませんかと言った。もう駅ではない場所を、二人ともまだ駅と呼んでいた。
踏切を渡りかけると、足元で赤い光が点いた。
玲子は警報機を見上げた。袋が被ったままで、鳴っていなかった。道路の上にだけ、赤い光の輪が二つあった。交互に明るくなった。朝の日差しで、最初はよく見えなかった。
固定されている遮断棒の影が、下り始めた。
実物の棒は上がったままだった。道路に映った黒い棒だけが、ゆっくり倒れてきた。玲子は自転車を引いた。前輪に棒の影が触れると、スポークが二本曲がった。細い金属の鳴る音がした。玲子は慌てて後ろへ下がり、西さんの肘を引いた。
西さんは踏切の中を見ていた。
白いシャツの男が、線路に沿って歩いてきた。影だった。立っている人の影ではなく、地面の上を、人の形をした黒さが歩いてきた。頭を上げると、レールの上へ顔が持ち上がった。そこだけに、目と鼻が見えた。
西さんが夫の名前を呼んだ。
玲子は、その声で手を強く握り直した。西さんの夫の顔を、遺影では何度も見た。水の中では見分けられなかった顔が、今ははっきりそう見えた。白いシャツの襟まで、黒い影の縁から出ていた。
「渡れないの」
西さんが玲子へ聞いた。聞く相手を間違えていた。
玲子は首を振った。列車は来ない。棒も下りていない。それなのに、今そこを通ってはいけないことだけは、体で分かっていた。自転車の車輪は、まだ小さく鳴っていた。
空き地の男がスコップを置き、こちらへ来た。騒いでいる理由を尋ねかけて、道路の光を見た。その人にも見えているのが分かった。男はロープを跨ごうとしたが、玲子が来ないでと叫ぶと、止まった。
線路から列車の音がし始めた。
駅のほうからではなかった。菓子店の二階の窓から聞こえた。窓のガラスに、線路が真っすぐ映っていた。実際の線路は窓と平行ではない。踏切を渡ればすぐに曲がる。その曲がり角が、ガラスの中にはなかった。
窓の奥から、前照灯が近づいてきた。
玲子は西さんを抱えるようにして座りこんだ。列車が建物を突き破ると思った。ところが、二階の窓にひびは入らなかった。ガラスの中の列車が膨らみ、道の上へ、上下逆になって滑り出してきた。
車輪が空を走っていた。
車体の屋根が、玲子たちの頭の少し上を通った。車体は透けていなかった。黒い油、剥げた塗装、窓の縁に置かれた人の手が見えた。列車の風が吹くたび、足元の小石が浮き、空へ落ちていった。
西さんは立とうとした。
玲子は腰にしがみついた。車窓から、さっきの夫が見ていた。さっきまで地面にいたのに、もう窓の中にいた。窓は下側へ開いていた。夫の腕が垂れ、西さんの肩へ届きかけた。玲子には、顔より、その袖口に縫いつけられた替えのボタンがよく見えた。
「お弁当、忘れてる」
西さんが言った。
去年亡くなった夫へ、今朝の忘れ物を知らせる声だった。玲子は、西さん、と何度も呼んだ。普段は親しく名前を呼ぶ間柄でもなかった。苗字にさんをつけることしかできず、それがひどくよそよそしく思えた。
列車の窓から、別の手が伸びた。西さんの夫の手より小さかった。白い上着の女が、窓の向こうで口を動かしていた。あの子供が三回見たと言った女だった。顔は笑っていなかった。玲子の顔へ、開いた掌を何度も向けた。
止まれと言っているのか、来いと言っているのか、玲子には分からなかった。
空き地の男が、スコップを道路へ差し出した。影の遮断棒の下へ刃先を入れ、持ち上げようとしていた。棒は地面の影なのに、金属に引っ掛かった。少し浮くと、西さんの肩から夫の手が離れた。男の顔が赤くなった。スコップの柄がしなり、靴が砂利へ沈んだ。
玲子は西さんを横へ引いた。棒の影の下をくぐらせるつもりだった。西さんは、待って、と言って玲子の腕を押し返した。夫の顔を見ようとしたのだと思う。けれど、そこで西さん自身が動きを止めた。
窓から下がった手の肘が、逆へ曲がっていた。
袖がめくれ、白い腕が見えた。肩から肘までのあいだにも、肘がもう一つあった。手は西さんの顔を探して、何度も空振りした。夫は窓の中で、同じ口の形を繰り返した。声は列車の音に掻き消され、聞こえなかった。
西さんが、玲子の手を握った。
二人で地面を這った。スコップの柄が折れた。玲子の靴の踵に、何かが強く当たった。靴が脱げたが、取りに戻らなかった。空き地の男が西さんの腕を引き、ロープの外へ連れ出した。列車の影が、そのロープのところでぴたりと切れていた。
最後尾の窓にも、人がいた。
こちらに背中を向け、膝に靴を載せていた。玲子の靴だった。靴下を履いた自分の踵から、血が少し出ていた。その人は靴の中へ指を差し入れ、何かを探っていた。列車が菓子店の壁へ入り、見えなくなるまで、ずっと探っていた。
警報機の影が消えると、菓子店の二階から、ガラスが一枚落ちてきた。割れずに地面へ立った。薄い端を下にして、しばらく揺れた。空き地の男が近づこうとしたので、玲子はまた止めた。
ガラスには、玲子たちのいる道路が映っていた。西さんの夫が、向こう側へ歩いていくところだった。今度は振り返らなかった。西さんはその場へ座り、葬儀のときにも見せなかった顔で泣いた。玲子は肩へ手を置き、何も言わなかった。
ガラスは昼過ぎに倒れ、割れた。町の人が見ている前で、普通の割れ方をした。破片を集めたのは空き地の男だった。スコップは使わず、厚い手袋をした手で一枚ずつ拾った。西さんはその仕事が終わるまで帰らなかった。
玲子の自転車は修理できた。靴は戻らなかった。
西さんはもう踏切へ行かない。近くまで来ると、遠い方の道を選ぶ。玲子が車で送るときも、そちらを通ってと言う。夫に会ったのかどうかを、二人で話したことはない。
一度、車の中で西さんが、あの人が最後に何と言ったか聞こえた、と言った。
玲子は運転を続けた。
「お前も忘れたのか、って」
西さんは膝の上で手を組み直した。
「何を忘れたのか、それは教えてくれなかった」
玲子は返事を探せなかった。信号が赤になり、車を止めた。西さんが窓の外を見たので、玲子も同じほうを見た。向かいのガソリンスタンドの大きなガラスに、二人の車が映っていた。
西さんは手を伸ばして窓を閉めた。閉まるまで、目を上げなかった。玲子は、映った自分たちの足元を見ずに、信号が変わるのを待った。


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