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合わせない鍵盤

仁科先生のピアノを、最後に一度だけ見てほしいと頼まれた。
教室を閉めることは知っていた。門の横の看板が外され、その跡だけが四角く白かった。先生は玄関で、子供用の足台を雑巾で拭いていた。
「捨てるのにねえ」
私が挨拶すると、先生はそう言って笑った。

三十年近く通った家だった。私はピアノの調律をしている。仁科先生とは、独立する前からの付き合いになる。
庭に車を入れるときは、端の石を避けなければならない。玄関の扉は最後に少し持ち上げると閉まる。ピアノに触る前の、そうしたことまで体が覚えていた。
教室の棚は空になっていたが、壁には子供たちの写真が残っていた。

ピアノは先生の姪が引き取ると聞いていた。
「運んでから合わせた方がいいですよ」
私が言うと、先生は、そうでしょうけど、と頷いた。
「ここで弾くのは今日が最後だから」
最後の生徒が四時に来る。その前に済ませてほしいのだという。私は道具を広げた。長い付き合いの客の、最後の頼みだった。

鍵盤を順に鳴らすと、随分狂っていた。
半年前に私が来たときは、こんな状態ではなかった。調律をやり直すうちに、一度合わせたところもまた違って聞こえた。
先生に、最近何かありましたか、と訊いた。
引っ越しの荷物を動かしただけだと言う。ピアノは動かしていない。寒暖差も大きくなかった。
「耳が変わったかしら、私の」
先生は冗談めかして言ったが、私を見る目は笑っていなかった。

私は作業を止め、手を膝へ置いた。
音がまだ鳴っていた。
鍵盤へ指を置いてもいないし、ペダルも踏んでいない。私のすぐ後ろで、同じ高さの音が細く続いていた。
先生は椅子に座っていた。唇は閉じていた。

「何か、鳴っていますね」
「隣からでしょう」
教室の隣には和室がある。今は戸が閉まっていた。仏壇があるのを知っていたので、りんの音かと思った。
だが、そう聞こえたのは最初だけだ。
よく聞くと金属の音ではなかった。口を閉じて歌う人の声だった。少し高くなり、低くなり、私が合わせていた鍵盤の音を探している。

立とうとすると、先生が、待って、と言った。
「そのままで合わせられませんか」
私は聞き返した。周りで音がしていると仕事をしづらい。そういう意味なら、少し静かにしてもらえればいい。
先生は椅子の縁を握った。
「そっちの音に」
私が隣の戸を見ると、先生は一度だけ頷いた。

戸を開けたのは私だった。
誰かがいるなら本人と話したかった。具合の悪い家族がいて、先生が説明しにくいのかもしれなかった。
和室は暗かった。雨戸を閉めてあった。仏壇の小さな灯りだけがついていた。
畳に、男の頭が載っていた。

首から下がなかったのではない。
肩の少し上まで畳に沈んでいる。体を伏せているにしては顔が真上を向きすぎていた。目を閉じ、顎を引き、口の中で歌っていた。
私はその顔を知っていた。
昔、この教室でよく会った長谷川さんだった。就職してからピアノを習い始め、よく先生に叱られていた人だ。
七年前に亡くなったと聞いた。先生のところで、その話をした覚えがある。

私は戸に手を掛けたまま、先生を振り向いた。
先生は教室から動かなかった。
「長谷川さん、まだ低い方が楽なのよ」
知っているでしょう、という言い方だった。
そのとき、上の方で音がした。薄い天井板が軋んだ。私が顔を上げると、梁のそばに、女の足が二本下がっていた。
裸足で、膝のところから天井へ入っていた。

先生はその人のことも知っていた。
昔の生徒だという。私は会ったことがなかった。足はぶらぶらしていなかった。見えない椅子の上へ、きちんと腰を下ろしているように揃っていた。
長谷川さんが、畳の中で息を継いだ。
上の人が少し遅れて同じ音を出した。
どちらも苦しそうには聞こえなかった。そのことが、かえって怖かった。

私は戸を閉めた。
先生に、いつからですか、と訊いた。先生は、いつからかしらね、と答えた。
椅子の脇に、最後の発表会の写真が置いてあった。先生が持ち上げたので、私は受け取らずに首を振った。
「みんな死んだ人ですか」
「みんなじゃないですよ」
私は写真から目を上げた。
先生は、普通に暮らしている人もいるから、と付け加えた。
何のことを言っているのか、そこで確かめるべきだった。

私は作業を断りかけた。
先生は、少し狂ったままでも困るのね、と小さく言った。
「あの人たち、ここでしか歌わないんです」
私は戸を見た。内側から、こつんと何かが当たった。すぐに先生が、自分の膝へ手を置いた。
「あちらが歌えるようにしておきたいんです。今日は」
教室を閉めても、その人たちは出ていくのだろうか。訊く気にはなれなかった。

玄関の呼び鈴が鳴った。
最後の生徒だった。中学生の真央ちゃんを、私は二、三度見かけたことがあった。母親は迎えに来ると言って帰り、真央ちゃんが楽譜の鞄を下ろした。
先生はいつもの声で挨拶した。
私が道具を出したままでいるので、真央ちゃんは玄関へ戻りかけた。
「もうちょっとだから。そこで待っていて」
先生がそう言った。

私は先生の方を見た。
隣の和室からは、まだ声がしていた。真央ちゃんは気にしている様子がない。
「聞こえる?」
訊くと、真央ちゃんは首を傾げた。
私が和室を指すと、ああ、と笑った。
「録音でしょう。先生、よく聴いてるから」
その返事に、先生は何も言わなかった。

ここに子供を置いて帰ることはできなかった。
私は真央ちゃんへ、少し歌ってみて、と言った。仕事の途中だから、と付け加えた。先生に言ったのでもあった。
真央ちゃんは照れた顔をしたが、私が鍵盤を鳴らすと、それに合わせて声を出した。私はひとつ下げ、もう一度鳴らした。
その音だけが、ひどくずれていた。さっき確かに合わせたところだった。

私が直す間、真央ちゃんは窓際に立っていた。
隣の声が、その音に寄ってきた。長谷川さんの声かどうかは分からなかった。ぴたりと重なった瞬間、真央ちゃんが咳をした。
「大丈夫?」
頷いたが、返事がなかった。
先生が水を持ってこようとすると、真央ちゃんはもう一度頷いて、口を開いた。
小さく空気の漏れる音がした。

私は道具から手を離した。
真央ちゃんが喉へ触れた。痛いのではないらしかった。自分でも困ったように笑いかけ、声が出ないと分かると顔が変わった。
和室では歌が続いていた。
さっきより声が一つ増えていた。窓際で私たちを見ている、真央ちゃんの声だった。

先生が立ち上がった。
和室の戸へ行くのかと思ったら、ピアノへ来た。低い鍵盤を二つ、確かめるように押した。
「違う。こっちじゃない」
私は先生を見た。誰に言ったのか分からなかった。
真央ちゃんが鞄を抱えた。玄関へ行こうとしていた。先生が名前を呼ぶと、真央ちゃんは首を横に振った。
その肩に私が触れたとき、和室で同じ息の音がした。

私は先生へ、真央ちゃんを外へ連れていってください、と言った。
先生は和室の戸へ手を伸ばした。私はその前へ立ち、真央ちゃんを指した。先生がようやく真央ちゃんの背中へ手を当てた。
二人が玄関へ出る間に、私はさっき直した音を、わざと低い方へ外した。隣の鍵盤と交互に押すと、二つ目で指を止めたくなるほどの狂いだった。

和室の声が止まった。
玄関で真央ちゃんが、やだ、と言った。
その声はちゃんと玄関からした。私は道具を握ったまま、鍵盤を押した。ひどい音だった。次の音と続けて弾くと、誰が聴いても、直し忘れだと分かる。
それでも、もう触らなかった。

先生は一人で戻ってきた。
電話をしたら母親がすぐ迎えに来るというので、真央ちゃんは門の外で待っていた。私は作業を終えると言った。先生が鍵盤へ近寄ったので、蓋を閉めた。
「私が弾くから」
先生の言い方が強くなった。
私は、今日はやめましょう、と答えた。先生は私の顔を見た。三十年近く、先生の生徒のために来ていた。私の方から弾くなと言ったのは、初めてだった。

先生は代金の入った封筒を出した。
私は受け取った。中を見て、いつもの金額を確かめた。袋から領収書を出す手は、もう震えていなかった。
あの一音をわざと外したことは、書かなかった。
先生も、安くしてくれとは言わなかった。
玄関の外で、真央ちゃんが母親に説明している声がした。声が出なかったの、という声が、私にはよく聞こえた。

帰り際、先生が、姪には何と言えばいいかしら、と訊いた。
「運んだ先で、また調律を」
いつもならそう答える。
私は言いかけて、やめた。
和室の戸の下から、低い声が聞こえていた。長谷川さんが、私の外した音を少しずつ探っている。上からも、女の人の声が重なった。
二人とも、さっきより低い音を出そうとしていた。

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