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雨だった夜

雨が強くなったのは、息子が寝袋へ入ってすぐだった。
「帰れないね」
紘人が言った。
私は、朝にはやむと答えた。予報では夜中まで雨が残ることになっていた。それでも帰れなくなるほどではない。テントの屋根を叩く音が大きいので、八歳の子供には、外へ出たら流されるように聞こえるのだろうと思った。

二人で泊まりに来たのは、その時が初めてだった。
妻が週末に仕事を入れたので、私がキャンプへ連れて行くと言った。道具は同僚から借りた。説明を聞いた時には分かったつもりだったが、現地では立てるだけで一時間かかった。
紘人はペグを打ちたがり、私は曲げたら困ると取り上げた。夕食の皿を持ちたがった時も、濡らすから待っていろと言った。
その夜のことを思い出すと、私の台詞はほとんど、待っていろ、である。

場所は海沿いの小さなキャンプ場だった。
区画がいくつかあり、流しと便所は端の建物にまとまっていた。管理する人は六時に帰り、用事があれば携帯へ連絡してくれと言っていた。
泊まっていたのは、私たちのほかに二組だった。どちらも車をそばに停めていたが、私の借りた区画だけは、少し離れた駐車場へ置く決まりだった。
右隣は空いていた。管理の人が、明日はそこも入りますと話していた。

寝袋の中で紘人が動いた。
「お父さん、誰か呼んでる」
雨の音しか聞こえなかった。私が静かにして耳を澄ますと、右の方から、こんばんは、と男の声がした。
遅く来た客だと思った。
私はテントの口を少し開け、こんばんはと返した。布を張った屋根が、すぐ隣に見えた。いつの間に立てたのか、気づかなかった。
暗くて人の姿は見えなかったが、入口の辺りに明かりがあった。

「濡れてませんか」
男が聞いた。
大丈夫ですと答えると、よかった、と言った。
紘人が寝袋から出て、入口まで来た。私は寝ていろと言ったが、すぐに戻らなかった。
「そっちは降ってるの」
息子が声を張った。
男は少し黙ってから、今は降ってないよ、と答えた。
私は、屋根の下だからね、と紘人へ言った。男へ笑いかけるつもりで外を向いたが、雨粒が顔に当たっただけだった。

入口を閉めた後も、男の声は聞こえた。
寝る前には退屈するものだ。私も知らない人と少し話すくらいなら構わなかった。子供を連れて来るのは初めてですかと聞かれ、そうですと答えた。
男は、うちも最初は何もできなくて、と言った。
「今は、ほとんど任せてます」
こちらの話がよく聞こえていたのだと思い、私は少し恥ずかしくなった。紘人は、あっちの子も起きてる、と訊いた。
男は、起きてるよ、と答えた。

しばらくして、向こうで女の人が話す声がした。
はっきりとは聞こえなかったが、何かを片づけているようだった。箱の蓋が閉じる音がした。
紘人が、何歳、と聞いた。
私は、そろそろやめなさいと言った。返事はなかった。
代わりに、男が聞いた。
「そちら、お父さんは御一緒ですか」
私は息子を見た。紘人も私を見た。
「一緒にいますよ」
私が答えると、男は、ああ、と短く言った。

その後、雨が少し弱くなった。
紘人は、隣にも男の子がいるのだと思い込んでいた。朝になったら遊べるかと聞くので、向こうの人の予定があるだろうと答えた。
「隣の人、紘人って言ってたよ」
私は寝袋の口を直す手を止めた。
「お前の名前、言ったか」
息子は首を振った。
私は自分が呼んだのだろうと思った。夕方から、何度も名前を呼んでいた。呼ぶたびに、手を出すなと言っていたような気がした。

紘人が便所へ行きたがった。
長靴を履かせ、私も上着を着た。テントから出ると、雨はまだ降っていたが、さっきより細かくなっていた。
右隣の屋根は低く、濃い色をしていた。閉じた入口の下から、弱い明かりが漏れている。人が動く影は見えなかった。
私は傘を差し、紘人の手を取った。
隣から、気をつけて、と声がした。
私が礼を言うより先に、息子が、はい、と答えた。

建物まで歩いて戻る間、紘人はずっと黙っていた。
どうした、と訊くと、何でもないと言った。
テントの前で長靴を脱いでいる時、息子は右隣を見た。
「さっき、おじさんも返事したよ」
何を話したのか聞いたが、紘人は首を振るだけだった。
私は靴についた泥を拭いた。何を言おうとしたのか、その場では追わなかった。息子が疲れて機嫌を悪くしたのだと思った。

夜中に目が覚めた。
紘人は寝ていた。雨はやんでいたが、屋根から時々、大粒の滴が落ちた。
右隣で話す声がした。
「雨だったよ」
男が言っていた。
「確か、朝までずっと」
女の人が返事をした。こちらは言葉が聞き取れなかった。
私は、明日は晴れるといいな、と小さく呟いた。人の会話に勝手に加わるつもりはなかった。寝返りを打つ前に、男の声がした。
「晴れなかったんです」

私は体を起こした。
そんなに大きな声を出しただろうか。
男は続けた。
「翌朝も、雨でした。片づけが大変で」
私は、これから朝になるんじゃないですかと言った。
返事はなかった。
しばらくして、女の人の声がはっきり聞こえた。
「誰と話してるの」
男は、隣に人がいる、と答えた。
女の人が、いないよ、と言った。

私は入口の留め具へ手をかけた。
開けて顔を見れば、それで済むと思った。すぐ隣に泊まっている、ただの家族だった。人の話を半分しか聞かず、変な勘違いをしているだけかもしれない。
紘人が寝袋の中で、私の上着をつかんだ。
起きていた。
「開けないで」
息子は、小さな声で言った。
私は手を止め、なぜ、と訊いた。
紘人は目を閉じ、首を振った。

右隣から、私を呼ぶ声がした。
名前ではなく、お父さん、と呼んだ。
紘人の声ではなかった。さっきから話している男の声だった。
「聞こえてるんですか」
私は息子の手を握った。
男は、お父さん、ともう一度呼んだ。それから、僕です、と言った。
紘人が寝袋の中へ顔を隠した。
私は返事をしなかった。

男の声が急に近くなった。
「少しだけでいいから」
入口の布は動かなかった。足音もない。
私は、こちらは子供が寝ていますので、と答えた。
自分でもひどく他人行儀だと思った。それでも、ほかに言えることがなかった。八歳の紘人は、私の手を握っている。隣に同じ名前の子供がいたとしても、その父親から私がお父さんと呼ばれる理由はない。
男は黙った。
女の人が、もう寝よう、と言った。

それから朝まで、私はほとんど眠れなかった。
隣の二人も同じだったのかもしれない。時々、話す声がした。
でも言葉は聞こえなかった。小さな笑い声が一度あり、すぐに途切れた。
明るくなり始めたころ、また雨が降り出した。私は紘人を起こさないように外を見た。
右隣は空いていた。
屋根も、明かりも、車もなかった。濡れた草が少し伸びているだけだった。

管理の人が来た時に、夜中の客を尋ねた。
あの区画は空けてあると言われた。昨日話したとおり、今日の昼から予約があるという。
「何時にいらっしゃるんですか」
聞くと、予定では一時だと答えた。
私は迷った。
泊まる人を待って、声を聞いてみようかと思った。男と女なら、夜中のことを聞ける。その人たちが昨夜何をしていたのか確かめられる。
紘人が、帰りたい、と言った。

息子と二人で片づけた。
私は初めて、ロープを持っていてくれと頼んだ。借りたテントは重く濡れ、うまく畳めなかった。紘人が手伝おうとしても、いつものように待っていろと言いかけた。
やめて、どっちを持てる、と聞いた。
息子は返事をし、端を両手で引いた。
隣の男は、この朝のことを話していたのだろうか。
考えないようにしても、頭に浮かんだ。

駐車場へ荷物を運び終えてから、紘人に一つだけ尋ねた。
「おじさんも返事したって言ってたな。何て言ったんだ」
息子は運転席の窓を見ていた。
「お父さんが、僕に紘人って言った時」
「うん」
「あっちのおじさんも、はいって言ってた」
私はハンドルを握った。
その返事を、私は聞いていなかった。

あれから、紘人とは何度かキャンプへ行った。年を取れば、そのうち隣の男の声になるのかと、会話の途中で耳を澄ましたこともある。
息子は今、遠くで働いている。電話が来れば、用事が短くても話を終えないようにしている。
昔のキャンプのことを訊かれたことは、まだない。
私は場所の名前を覚えているが、息子には言っていない。
あの雨の晩、少しだけ話したいと言った男に、私は子供が寝ていると答えた。その続きを、今から何と言えばいいのか分からない。

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