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廃線の百葉箱

白い箱を捨てていいかと、町の担当者から電話が来た。美沙はすぐ返事をせず、どの箱か聞いた。旧駅舎の脇に立っている、気象観測用の箱だという。父が毎朝通っていたことを思い出し、見てから決めさせてくださいと答えた。電話を切ると、会社の昼休みが終わっていた。

駅は二十年も前に廃止され、線路の跡は遊歩道になっていた。父は駅員ではなかったが、近所に住んでいたので頼まれて雨量や気温を記録していた。正式な仕事が終わってからも、白い箱へ通った。母がよく、あんたの天気は誰が見るの、と笑っていた。父が何と返したか、美沙は覚えていない。

父が死んでから三年がたっていた。美沙は実家を貸し、庭の手入れも人に頼んだ。町へ戻る理由があると少し気が楽になった。何もない日に帰っても、そこへ自分の部屋はない。今回は処分を頼まれたものを見に来たのだから、半日いて帰っても誰に言い訳をする必要もなかった。

駅舎の前には、元駅員の田島が待っていた。古い電気設備の撤去に呼ばれたついでだという。帽子を取ると、美沙の記憶より頭が小さかった。父と碁を打っていた人だ。挨拶のあと、父の具合の話を始めかけて、田島はすぐに口を閉じた。三年前の葬式で会っている。

百葉箱はホームの端の草むらに立っていた。白い塗装が剥げ、細い板が何枚か下へずれていた。八月の昼で、草を踏むだけで虫が飛んだ。それなのに、箱の下の地面だけが黒く濡れていた。美沙は靴を汚さないよう、コンクリートから手を伸ばした。戸の留め金が冷たかった。

「開くんですか」
聞くと田島は、鍵はかかってない、と答えた。美沙は戸を引いた。中には温度計が二本と、底に古い鉛筆があった。父の鉛筆だと思った。真ん中に短い紐が巻かれていた。持ち上げると、箱の奥から、砂をこぼしたような音がした。白い粒が袖へ落ちた。

雪だった。肌の上で融けたので分かった。虫の卵ではない。戸の内側にも薄く付いていた。美沙が顔を近づけると、目の奥が痛くなるほど冷たい風が出た。背後で田島が腕を引いた。美沙は鉛筆を握ったままよろめき、戸は半分開いた状態で止まった。

「閉めて」
田島は強く言った。美沙が戸を押すと、何かに当たった。中にあるはずのない革紐が、隙間から垂れていた。旅行鞄の取っ手のようだった。美沙はそれを押し戻そうとした。田島が先に手を出し、紐を引いた。小さな茶色の鞄が箱から落ち、草へ立った。

鞄は厚みがあった。箱の中には入らない大きさだった。田島は美沙を後ろへ下がらせ、戸を閉めた。今度は閉まった。箱の下から、冷たい風だけが出ていた。美沙は掌を開いた。鉛筆の紐が、指へ赤い跡を残していた。鉛筆の削った先には雪がついていた。

田島は鞄を持ち上げず、駅舎へ歩き始めた。美沙が呼ぶと、振り返って、電話してくる、と言った。町の担当へ知らせるなら私が、と携帯を出したが、田島は取り合わなかった。駅舎の窓を一つ開け、中へ声をかけた。待合室には誰もいない。彼は少し待ち、窓を閉めた。

「どなたかいるんですか」
美沙が聞くと、田島は首を振った。「音がした気がして」。美沙にも聞こえていた。駅舎の中で、靴を踏み鳴らすような音がした。雪を落としている人の音だった。美沙は自分の靴を見た。土は乾いていた。田島の靴も白くなってはいなかった。

二人で待合室に入った。暑さが少し和らぐと思ったが、中のほうが寒かった。壁沿いの木の椅子に、編んだ手袋が一組載っていた。紐で左右がつながれた子供用だった。美沙は立ち止まった。父が退職祝いにもらった写真に、こういう手袋をした子供が写っていた気がした。顔は思い出せなかった。

田島が窓を開けると、外から蝉の声が入った。同時に手袋が床へ落ちた。美沙は拾おうとしてやめた。紐の先が椅子の下まで続いていた。手袋は一組ではなく、紐を挟んだ両側に、少しずつ違う大きさのものが並んでいた。椅子の下だけが暗く、奥は見えなかった。

父は毎年、冬が終わると風邪をひいた。春先に熱を出し、暖かくなっても厚い靴下を脱がなかった。美沙は電話の向こうで、また箱へ行ったの、と叱った。父は、測り残しがある、と答えた。仕事が終わって何年たっているのかと思った。いま田島へそれを話すと、彼は黙って椅子の端へ座った。

「冬が終わったのは、こっちだから」
田島は言った。美沙が顔を見ると、年を取ったから変なことを言う、と自分で笑った。笑い終わる前に、手袋が一つ、椅子の下へ引っこんだ。田島は立った。美沙の手の鉛筆を見て、それ、返しておいたほうがいい、と言った。

外の鞄は倒れていた。留め具が一つ外れ、隙間に白い布が見えた。風呂敷らしかった。美沙が近づくと、父の咳がした。音は箱からだった。咳のあとに、いつもの鼻をかむ音が続いた。美沙は足を止めた。田島は何も言わない。彼も聞いていると分かった。

美沙は父を呼ばなかった。父の声に似ていても、あの狭い箱の中にいるのが父とは思えなかった。箱の脇へ立って、鉛筆を持ち上げた。戸をほんの少し開ける。中から手が出た。厚い軍手をしていた。父は軍手を片方だけよくなくし、左右で違う物をはめていた。その手も青と白の糸が混じっていた。

鉛筆を渡すと、手は引っこんだ。美沙が戸を押したとき、中から紙が差し出された。帳面の見開きだった。数字が縦に並び、一番下の欄が空いていた。紙は湿って柔らかくなっていた。美沙は反射的に両手で受け取った。戸が大きく開いた。中の白さが、駅の屋根より高く立ち上がった。

駅前に雪が降り始めた。道路の向こうの葉は濃い緑だったが、ホームの縁には白いものが積もった。田島が美沙の袖を引き、屋根の下へ戻した。彼の帽子に雪が付いた。美沙の指へかかっていた紙の端が凍り、曲げると小さく割れた。

帳面は紙一枚ではなかった。開いた場所の左右へ分厚い頁がつき、父が使っていた布張りの表紙が現れていた。美沙は知っている年の欄を探した。父が退院した年、母が死んだ年。そのどちらとも違う数字が並んでいた。最後の日付だけが、きょうと同じ八月だった。

「書いたら、閉められますか」
美沙が聞くと、田島はそれを見ずに、終わるかもしれない、と答えた。何が終わるの、と聞き返したが、返事はない。美沙は父がいつも、終わった、と言わなかったことを思い出した。まだあるとしか言わない父を、用事を作っているのだと思っていた。

箱の内側で、人が列を動いた。肩と肩が触れ合う衣擦れがした。戸の下から別の鞄が落ちた。今度は美沙が子供のころ使っていた赤い手提げだった。母が縫い、底だけ擦り切れていた。父が取っておいたことは知っていた。実家の押入れを空けたときには見つからなかった。

美沙は手提げを開けた。中から弁当箱が出た。中学の遠足で持っていったものだった。留め具を外すと、冷たい白い指が二本入っていた。美沙は蓋を落とした。指はぴくりとも動かなかったが、皮膚に自分と同じ小さな傷があった。さっき凍った紙で切ったところだった。

田島が弁当箱を閉めた。何も見なかったように手提げへ戻した。美沙は自分の指を動かした。二本とも付いている。その動きを、田島が黙って見ていた。娘さんなら帰せるかと思った、と彼は言った。美沙は手提げを地面へ置いた。何を帰すのか、父なのか、それとも箱の中の人たちなのか。

「あなたは書いたんですか」
美沙は帳面を田島へ突き出した。田島は受け取らなかった。「一度だけ」。彼は帽子の下へ手を入れ、耳のところを押さえた。美沙から見える耳は、薄く凍った窓のような色をしていた。「それで、あの人に代わってもらった」。父に、とは言わなかった。

美沙は帳面を閉じた。固いものを挟んだように表紙が浮いた。中で誰かが肩を縮めた気がした。彼女は開き直し、空の欄が見えるようにした。父の字の続きを自分で書くことはできない。温度を読めないからでも、書く道具がないからでもなかった。書いた人が何を引き受けるか、田島は話さない。

「これは、ここへ置きます」
美沙は帳面を持って箱へ戻った。田島が付いてきた。足元に積もった雪は深く、靴が埋まった。八月の薄い靴下へ水が染みた。美沙は箱の底へ帳面を滑らせた。温度計を避けて置くと、中で紙をめくる音がした。軍手の手がまた出た。鉛筆の先を美沙へ向けていた。

美沙は首を振った。手は動かず、戸を閉じる場所に残った。田島が美沙の肩へ手を置いたので、彼女はその腕を振り払った。軍手の指が少し曲がった。父が叱られたときの手つきに似ていた。美沙は、帰れないのなら、私にそう言って、と言った。返事は咳でも声でもなかった。

箱の内側へ雪が吹きこんだ。外へ出ていた白い粒が一斉に向きを変え、手を包んだ。美沙は田島と一緒に戸を押した。固いものがつかえたが、二人で押すと消えた。留め金をかけたあと、いつまで押していればよいか分からなかった。田島が先に手を離した。美沙は数秒遅れて離した。

ホームは濡れていた。鞄も手袋も手提げも見えない。蝉の声が、痛いほど大きく聞こえた。美沙は靴を脱ぎ、裏返した。水と一緒に、小さな白い氷が二つ落ちた。田島はそれを靴で踏もうとしたが、美沙が止めた。二人で、そのまま融けるのを待った。

箱の撤去は取りやめになった。美沙が町へ頼んだのは、残すことと周囲の柵だけだった。田島を観測に通わせる約束はしなかった。彼も何も頼まなかった。帰り際、駅舎の窓に人影が見えたが、美沙は帽子の色だけを見て車へ乗った。父はあの色の帽子を持っていなかった。

今年、美沙は一度も温度を測っていない。父の命日には花を持って行き、箱から離れたホームの椅子へ置いた。戸の隙間に、短い鉛筆の先が見えた。雪は降っていなかった。鉛筆はゆっくり上下し、白い戸の内側に、書き終えられないほど長い一本の線を引いていた。

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