「声は出さないでください。顔だけで怒ってください」
助監督の男は、拡声器を使わずにそう言った。私たちは、古い工場の中庭に並んでいた。撮影用に借りた場所だという。割れた窓には内側から板が打たれ、門の脇には、もう使っていない守衛室があった。
私はその前の月にスーパーを辞めた。次の勤め先が決まるまで、知り合いに教わった日雇いの仕事を幾つか入れていた。映画の撮影に出るのは初めてで、前の晩には履歴書を書くよりも服を選ぶ方へ時間を使った。結局、現場で茶色い上着を渡された。自分の服は、着てきた靴まで紙袋にしまうことになった。
隣で着替えていた若い女の子は、靴の中敷きを気にしていた。
「私、左右で大きさが違うんです」
渡された靴が片方だけ脱げるのだという。衣装係の人に頼んで紙を詰めてもらい、足を二度振ってから、よかった、と笑った。名前は沙紀さん。美術の学校へ通っていて、画材を買いたいと言っていた。
控室の床に、白いボタンが落ちていた。拾うと、親指の爪ほどの大きさで、穴が二つ開いている。衣装係へ渡したが、私の上着には黒いボタンしかなかった。沙紀さんの灰色の服にも白いものは付いていない。
「よく落ちてるんですよ」
衣装係は、小さな菓子缶の蓋を開けた。中に同じものがいっぱい入っていた。古い衣装を扱う仕事なら、そういうこともあるのだろうと思った。
中庭へ出る前に、支払いについて説明があった。最後に衣装を返し、受付で日当を受け取る。途中で帰る場合は係へ申し出る。私は財布に小銭が足りるか考えていた。朝、乗り継ぎを間違えて、予定より高い運賃を払っていたからだった。
撮るのは、町の人たちが一人の男を追い詰める場面だった。台詞はなく、胸から上だけが映る。相手を殴ろうとしたり、前へ出たりする必要はない。相手の男は中庭の真ん中に立つので、こちらは門と建物の間へ広がってほしい、と助監督は言った。
「何をした人なんですか」
一人が訊くと、男は少し考えた。
「皆さんのお金を持って逃げた、と思ってください。謝っても許せないぐらいのことをされた」
「ああ」
私の横で、誰かが納得した声を出した。沙紀さんは私の耳元で、怒るの苦手なんです、と囁いた。
「私も、顔に出すなっていう仕事だったから」
私が言うと、彼女は、ちょうど逆ですね、と笑った。
中庭には二十人ほどがいた。年齢も服装もばらばらだった。手押し車を使って来た老人も、背広のまま衣装にしなくていいと言われた男もいる。知り合い同士らしい人たちが、弁当の時間について話していた。
真ん中へ出てきた役者は、痩せた年配の男だった。襟のない紺色の服を着て、口元に薄い髭がある。テレビで見た覚えはなかった。両手を下げて立ち、私たちの顔を、一人ずつ確かめていた。
始めます、と声がかかった。
私は眉間に力を入れた。男の鼻の横あたりを見て、嫌な客を思い出そうとした。床へ投げられた小銭を拾ったことはある。閉店してから売場を開けろと言われたこともある。しかし目の前の男には何の関係もない。どうしても、困った顔になってしまう。
「そこの方、もう少し」
助監督が私を指した。沙紀さんが横から、私もできてないです、と小さく言ってくれた。
「思い出さなくていいです。この人を見て」
助監督は、男の顔を指した。
「この人だけ、よく見てください」
二度目は、それでうまくいった。
男が口の端を少し持ち上げた途端、私は腹が立った。こちらが黙っているのを、許されたと思っている。そう感じた。何を許すのかは分からない。それでも、今そんな顔をしてはいけないはずだ、という気持ちが先にあった。
男は私を見ていた。私は目を逸らさなかった。逸らしたら、この人が勝ったことになる気がした。
はい、休んでください、と声がかかってからも、眉間の力が抜けなかった。頬が痛い。沙紀さんが鼻を押さえ、上を向いていた。
「つりそう」
彼女の目に涙が溜まっていたので、私は持ってきた水を勧めた。彼女は礼を言い、浮いてしまった踵の紙を直すために片方の靴を脱いだ。中敷きを引き上げると、つま先の方から白いボタンが二つ落ちた。
片方が私の足元へ転がった。拾うと、体温で温まっていた。紙を詰める時に紛れたのだろうと、私は言いかけた。けれど沙紀さんの靴を直すところは、さっき横で見ていた。衣装係は中敷きを持ち上げ、靴の中まで指で確かめていた。
私は二つを助監督へ差し出した。
「衣装の方へお願いします」
「はい。そこに置いて」
彼が指した窓枠には、既に五つか六つ、白いものが並んでいた。
三度目が始まるまで、役者の男は同じところに立っていた。誰も化粧を直しに行かない。水も飲まない。暑い日だったのに、額にも首にも汗が見えなかった。
私の背中では、汗が上着に貼りついていた。早く終わってほしい。弁当を食べ、金を貰い、帰りたかった。その思いが、男を見ると変な形になった。この人が立っているせいで私たちは帰れないのだ、と思った。撮影なのだから当たり前なのに、納得できなかった。
三度目の途中で、門が開いた。
白い日傘を畳んだ女の人が入ってきた。受付の人よりずっと年上に見えた。片手に紺の布袋を提げており、底が重く垂れている。誰かの関係者だろう。私は撮影を邪魔されたことに腹を立てた。ほんの少し前までは、終わってほしいと思っていたのに。
女の人は中庭へ入らず、門のところから役者の男を呼んだ。名字らしかったが、聞き取れなかった。
「まだやってるの」
男がゆっくりと頷いた。
「あなたが残したのが、あっちにもあるのよ」
女の人は、私たちの後ろの控室を見た。
そこで、横にいた背広の男が歯を剥いた。
怒った顔、という程度ではなかった。鼻の付け根へ深く皺が寄り、歯茎まで見えていた。何か怒鳴っている。唇も舌も動いていた。しかし声が一つも出なかった。
私は隣へ顔を向けた。沙紀さんも女の人を睨んでいた。いつからそうしているのか分からない。さっきまで丸かった頬が、別人のように尖っていた。唇の横から唾が糸を引いている。
もっと向こうの人も、その先も同じだった。身体を前へ傾け、口を開けたり閉じたりしている。二十人もの大人が、声を出さずに一人を罵っていた。風に動く守衛室の戸が、かた、かた、と鳴った。それだけは、よく聞こえた。
私は口を閉じようとした。
奥歯が合わなかった。舌の下に固いものがあり、唾と一緒に出した。白いボタンだった。掌に載ったものを見ている間にも、口は動いていた。私は何を言っているのか、自分で分からなかった。
やめさせてほしかった。けれど、門にいる女の人がこちらを見た瞬間、掌を握った。この人だけには頼みたくない。私をこんなふうに見ている人に、助けてくれと言うのは嫌だった。
女の人は、役者の男へ近づいた。
「この子まで入れてないでしょうね」
指した先には沙紀さんがいた。
「今日だけだよ」
男は笑った。
「今日だけの人を使わないでって、言ったでしょう」
助監督が二人の間へ出た。私は止めに入るのだと思った。だが彼も歯を剥いていた。最初に仕事の説明をしてくれた口が、女の人の鼻先で激しく動いた。拡声器の紐が女の人の傘に引っかかった。それをほどく手つきだけが、ひどく落ち着いて見えた。
女の人は、沙紀さんの腕を取った。彼女は振り払おうとした。私は沙紀さんの反対の腕を掴んだ。
離したくなかった。
彼女が助けを求めたからではない。私を置いて先に帰るつもりなのかと思った。靴に紙を詰めてもらい、水まで勧められ、ずっと隣にいたくせに。そんな考えが、何の引っかかりもなく浮かんだ。私の指が細い腕へ食い込んだ。沙紀さんがこちらを見ると、一瞬だけ、眉がほどけた。
「痛いです」
小さな、いつもの声だった。
私は手を離した。離れた指の形が元へ戻らず、掌へ爪が当たった。彼女の腕には四つの赤い跡がついていた。私がしたことだった。男も女の人も、私の手には触っていない。
女の人は沙紀さんを連れて、門から出た。外へ出る寸前、彼女はこちらを振り返った。怒った顔ではなかった。私はよかったと思った。そのすぐ後で、なぜあの子だけ、と思った。二つの気持ちが入れ替わるたび、胃の辺りが強く捻れた。
役者の男は、もう笑っていなかった。助監督に耳を寄せ、何か聞いていた。私たちの前に置かれていたカメラは、いつの間にか向こうの壁を向いていた。回っているのかどうか、私には分からなかった。
「これで終わりにしましょう」
女の人が門から戻ってきて言った。
役者の男は首を振った。
「まだ残ってる」
私たちは、そのやり取りを黙って見ていた。誰も弁当のことを言わない。帰りたいとも言わない。さっき沙紀さんの腕を離したことで、私は皆に嫌われている気がした。隣の背広の男が肘を少し動かすだけで、顔を殴られるつもりで身を固くした。
女の人は布袋を地面へ置き、口を広げた。中には白いボタンが入っていた。菓子缶とは比べものにならない量だった。
「持って帰るから。もう、その顔を見せないで」
誰に言ったのか分からなかった。
年配の男は、ようやく私たちに背を向けた。
その途端、隣の男が大きく咳き込んだ。あちこちから息を吐く音がした。私はしゃがみ、胃の中のものを吐いた。朝に食べたパンに、白いボタンが混じっていた。口の中を指で探ったが、歯は揃っていた。まだ舌の下に一つあり、吐き出す時に、小さくかちりと鳴った。
男と女の人は、もう中庭にいなかった。布袋もなかった。助監督が建物の角を回り、誰かを捜していた。私の横では、背広の男が地面へ唾を吐いていた。
「こっちは、どうなるんだよ」
声が出るようになった彼は、誰にともなく言った。
「こんなに待たせて」
私は立ち上がった。足元のボタンを踏むと、ぱきりと割れた。まだ怒っていた。口が動くのも、息ができるのも、たいしたことではないと思えた。あの男に頭を下げさせないまま帰してしまった。そのことばかり考えていた。
衣装係が、水と袋を持ってきた。
「無理しないで。着替えはあとでいいから」
私の背を撫でる手が震えていた。その人も何かを怖がっているのだと思った。思ったのに、汚れた衣装を私から剥がそうとしているように感じ、肩を振って手を離させた。
控室へ戻って着替えていると、中庭から人の言い争う声がした。近くの自動販売機が使えないとか、貸したタオルが返ってこないとか、そういう話だった。朝は弁当の話で笑っていた人たちだった。私は自分の靴を履きながら、誰かがこちらへ怒鳴り込んでくるのを待ち構えた。
脱いだ上着を畳むと、袖口からボタンが幾つもこぼれた。衣装係が気づかないうちに、私はそれを隣の上着の下へ押し込んだ。
私物の袋を抱えて外へ出ると、門のところに沙紀さんがいた。彼女も控室で着替えたらしく、最初に会った時の服へ戻っていた。封筒を小さな鞄へ入れようとして、私を見つけた。
「一緒に帰れますか」
そう言って、近づいてきた。
「受付の方が、駅まで車を出してくれるそうです」
彼女の後ろで、背広の男がこちらを向いた。
私は沙紀さんの鞄を見た。
「もう貰ったの」
「はい。衣装を返した時に」
彼女は受付のある廊下を指した。私もそこで待っていればよかっただけだった。衣装係に肩を触られたくなくて、返却する服を置き、さっさと出てきてしまった。
沙紀さんは、封筒を取り出した。
「先に貰ってきませんか。私、待ってます」
私が疑っていると思ったのか、彼女は封筒の口を広げた。千円札が見えた。朝、説明された通りの金額なのだろう。それを数える必要などなかった。
背広の男が近づいてきた。後ろにも人がいた。
「何、金?」
私は頷いた。沙紀さんの鞄を見たまま、頷いた。
「あの人から貰ったんだって」
誰から貰ったか、聞いていなかった。役者の男の顔が浮かんでいた。それを、私は訂正しなかった。
沙紀さんが困ったように笑った。
「違います。受付で、普通に」
男は聞いていなかった。後ろから来た人も、彼女の顔ばかり見ていた。さっきの役者へ向けたのと、同じ目だった。
私は沙紀さんの肩へ手を載せた。門の前から、少し中庭の方へ押した。車が出るのに邪魔だから、と言った。車がどこにあるのか、私は確かめていなかった。
「もう、帰りたいです」
沙紀さんが私を見た。
私も帰りたかった。朝からずっと、そのつもりでここにいた。なぜ彼女だけがそれを口に出していいのか、どうしても分からなかった。
周りの人たちが、ゆっくりと門の方へ回り込んだ。誰も合図をしていなかった。彼女が封筒を胸へ押しつけると、私の掌が熱くなった。
私は彼女の袖を少し上げ、さっきの赤い跡を避けて、その腕を掴んだ。


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