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壁まで泳ぐ

沢村さんは、泳ぎ終わると必ず時計を見た。壁に掛かった大きな時計で、赤い針だけが一周するやつだ。私が隣に着いて顔を上げると、もう針から目を離していた。
「どっちが先でした?」
分かっているくせに聞く。私が「そっち」と答えると、鼻に入った水を出すふりをして笑った。

水曜の夜、市民プールの成人教室で会う人だった。家がどこかも、何の仕事をしているかも知らない。更衣室で一緒になれば、安売りの水着は肩のところから駄目になるとか、受付の自販機に温かいお茶が入ったとか、その程度の話をした。

速い人たちのクラスへ移るほど上手くもなく、水に浮く練習からやり直すほど下手でもなかった。クロールなら沢村さん、平泳ぎなら私の方が少し速い。教室の終わりに好きな泳ぎ方で二十五メートルを競い、負けた方が次の週まで文句を言う。それだけの付き合いが一年近く続いていた。

その日は、二人とも平泳ぎをすることになった。
「こっちでも一度ぐらい勝っておかないと」
沢村さんが言った。私は泳ぐ前から笑った。
「来週、言い訳を聞く時間あります?」
「そっちこそ」
そういうことを言えるのが嬉しかった。仕事の帰りにここへ来るのは面倒で、髪もなかなか乾かない。それでも沢村さんがいると、次も来ようと思えた。

先に、先生について何本か泳いだ。先生は私たちよりずっと若い女の人で、月末には辞めて別の施設へ移ることになっていた。その話を聞いたばかりだったので、私たちは普段より真面目に話を聞いた。

沢村さんは私の前を泳いでいた。蹴り出した両足の間に、透明なものが見えた。ビニール袋だと思った。水を含んで膨らんだ袋が、踵に引っかかっている。私は顔を上げたが、沢村さんはそのまま進んでいった。

向こうの壁に着いてから教えると、彼女は片足を持ち上げた。何もついていなかった。
「袋なんか落ちてます?」
先生も水の中を見た。底の線がきれいに見え、沢村さんの足元にも、排水口の辺りにも、それらしいものはなかった。
「泡かな」
自分でそう言った。沢村さんは足を下ろし、足首を二、三度回した。

次に泳いだ時、沢村さんが小さく見えた。

少し前へ離れたからだと思い、私は速く泳いだ。途中で横に並んでも同じだった。帽子から足の先までが、ひと回り縮んでいる。水着まで一緒に小さかった。子供になったのではない。肘の皮の余りも、背中の水着の食い込みも、見慣れた沢村さんのままだった。

息をするために顔を出した。沢村さんもすぐ横で顔を上げた。水の上へ出た頭は、いつもと変わらないように思えた。それで少し安心し、もう一度潜ると、胴も脚も小さかった。首から下だけ縮んだのではなく、顔をつければ頭まで、すべてが遠くへ行ってしまう。

私は立った。沢村さんも二、三かき進んだところで振り返った。
「どうしたの」
「ちょっと、ゴーグルが」
目に水が入ったことにして、縁を持ち上げた。彼女は自分の帽子を押さえ、待っていた。急かさなかった。

ゴーグルを外して見ても、水に浸かっている身体は小さかった。彼女の胸の前だけ、水面が盛り上がっていた。呼吸で動いているのではない。こちらへ伸びた盛り上がりが、彼女の脇を包み、後ろへ回っていた。

先生に、ここを見てください、と頼んだ。
「沢村さんの、右の脇」
先生はプールサイドから腰をかがめた。
「擦れました? 痛いですか」
沢村さんが水着を少し引いた。先生は、赤くなってはいないですね、と言った。
私は、それ以上をうまく言えなかった。先生がどこを見ているのかは分かる。それなのに、その目の前にあるはずの膨らみを、誰も指ささなかった。

いったん二人で上がった。沢村さんは手すりを使わず、縁に両手をついて腰を持ち上げた。濡れた背中も膝も、上がってしまえばいつもの大きさだった。私の肩と、ほぼ同じ高さに彼女の肩があった。
「今日、変な感じしませんか」
「水、少し冷たいですよね」
「そうじゃなくて」
私は言いかけ、濡れたタイルを見た。

足元に、透明なものが広がっていた。沢村さんの踵から、波打つ縁が細長く伸びている。さっきまで入っていたプールの水が、身体から流れただけに見えた。けれど勾配に逆らい、彼女の足へ寄っていった。

沢村さんが歩くと、それもついていった。膝の裏まで立ち上がり、すぐ落ちた。廊下にあった大きな透明のカーテンを、水で濡らして引きずったら、あんなふうになるかもしれない。私は手を出しかけた。

触る前に、向こうが私の指を包んだ。

冷たくなかった。ぬるく、石鹸をつけた手を握られたように滑った。指を抜くと、それは沢村さんの足首へ戻った。戻る途中でタイルの目地をまたいだ。水なら細い溝へ落ちるはずなのに、一枚のまま、溝の上を通った。

私はタオルで手を拭いた。何もついていなかった。手を洗うためにシャワーへ行くと、沢村さんも来た。
「今日はやめときます?」
私が言う前に、彼女の方が聞いた。私の顔色を見ていた。
「具合、悪いんじゃない?」
私は首を振った。今なら二人とも、普通に更衣室へ入れると思った。
「一緒に上がりませんか」
「じゃ、最後の一本だけ。二十五で終わりましょう」

勝負のことだった。彼女は少し声を落とした。
「来週、私、来られないんです。仕事が遅くなるから」
休むと言ったのは初めてだった。私は、分かりました、と答えてしまった。もう一本泳ぐだけだ。あんなものを見た話より、その返事の方がずっと簡単だった。

教室で使っている二つのコースから、ほかの人たちが上がっていた。先生は壁際で時計を見ていた。
「お二人、最後です。泳いだら上がってくださいね」
私たちは隣り合った。片手を縁へかけ、壁に足をつけた。沢村さんが私の方を向いた。
「今度は途中で立たないでくださいよ」
私は頷いた。

壁を蹴った途端、右側で何かが大きく膨らんだ。

沢村さんは、まだ手を前に揃えていた。水の中に伸びた身体を、透明なものが下から受けていた。彼女が脚を開くと、それは脚の外側へ回り、閉じると腹の下へ戻った。邪魔をしているようには見えなかった。身体が沈まないよう、ずっと添えているように見えた。

私は一度、手を止めた。沢村さんは先へ行った。さっきより小さかった。コースを区切る浮きのそばを通ると、頭が浮き一つと同じくらいに見えた。それでも泳ぎ方は変わらない。左足の蹴りだけ少し外へ逃げる、いつもの平泳ぎだった。

その小さな身体の上で、透明なものが折れた。

薄い部分が二つ、内側へ曲がった。沢村さんの両腕を、外から押さえようとしていた。彼女は手を開き、押し返すように水を掻いた。少しだけ進んだ。また透明なものが前に回った。

息を継ぐと、彼女はすぐ右隣にいた。顔の大きさも声も、いつもと同じだった。
「引っ張らないで」
「私、何もしてません」
私は両手を水から出した。沢村さんは私の手を見て、眉を寄せた。
「じゃあ、何」

彼女の肩から、透明なものが持ち上がった。頭を撫でるように帽子の上を滑った。沢村さんは首を振った。
「やめてって」
先生が何か言った。あちらの壁からなので、よく聞こえなかった。私は手を振り、沢村さんが上がりたいんです、と叫んだ。
「上がるんじゃない」
沢村さんは言った。
「泳いでるの」

その声で、私は水の中を見た。

透明なものは、彼女の前を塞いでいた。腕が伸びるたび先へ回り、頭が沈むと持ち上げ、脚が開けば下へ入り込んだ。さっきから何度も、同じことを繰り返している。
小さいものが勝手に遠くへ行かないようにしている。
そう見えてからは、もう、ただの塊には見えなくなった。

押し返されても離れない。彼女が嫌がって顔を背ければ、その顔の前へ、ごくゆっくり回り込んだ。

私は立ち、浮きの綱をまたごうとした。沢村さんのいる方へ行きたかった。水の中から、柔らかいものが私の膝を押した。強い力ではなかった。邪魔なものを脇へ除けるように、もう片方の膝も押された。私は足を滑らせ、浮きへしがみついた。

先生がプールサイドを走ってきた。
「ここ、跨がないでください。大丈夫ですか」
差し出された手につかまり、私は縁へ寄った。
「沢村さんを」
「あちら、泳いでますよ」
先生は向こうを見た。私も見た。

水面には、沢村さんの頭があった。息をするために上がり、すぐ沈む。確かに泳いでいた。先生が急がないでいいです、と声をかけると、彼女は手を少し上げた。
その手の下に、もう一つ、透明なものの先があった。

私は先生の手を離し、水へ顔をつけた。沢村さんは、ほとんど同じところにいた。両手で掻いた分だけ進み、その後で戻される。浮きの綱の赤い部分が、何度も彼女の右に現れた。口から出た泡だけが先へ上がっていった。

私が顔を出すと、彼女も顔を上げた。
「先、行って」
息が切れていた。歯の間から水を吐いて、もう一度言った。
「先に着いて、見ててください」

私は泳いだ。彼女と競う時より速く泳いだと思う。途中で顔を上げず、壁に両手をついた。後ろを向くと、沢村さんはまだ赤い浮きのところにいた。

時計の針が一周した。先生が時計を見るのをやめた。
「あと少しですね」
先生は壁の近くを見ていた。私はその目線を追ったが、水しか見えなかった。

沢村さんは休まなかった。手を伸ばし、脚を蹴り、顔を上げた。肩の外側を透明なものが包んだまま、ゆっくり回転した。彼女はその内側で進む向きを変えられていた。壁へ向かっているつもりの身体が、斜めになり、また元へ戻った。

私は壁を叩いた。
「こっちです」
沢村さんが顔を上げた。
「分かってます」
怒った声だった。私は叩くのをやめた。もう、ここを教える必要はなかった。

先生が終わりの笛を吹いた。ほかの教室の人たちも、順に水から上がった。隣のコースの綱を外す係員が来て、私にも上がるよう言った。私は沢村さんを待っていると答えた。
係員は彼女の方を見て、最後の方ですね、と言った。

沢村さんの手が、壁へ届いた。

水の上からは、そう見えた。帽子がすぐ目の前へ来て、肘が縁にかかった。先生が、お疲れさまです、と言った。私は足を底につけたまま、水の中へ顔を沈めた。

沢村さんは、まだ赤い浮きのそばにいた。手のひらに載りそうなほど小さかった。透明なものが前へ曲がり、彼女の両手を受け止めていた。指がそこを押すと、柔らかくへこんだ。彼女は手を戻し、また伸ばした。

顔を出すと、いつもの大きさの沢村さんが、私のすぐ隣にいた。目を閉じ、縁を掴もうとしていた。指は、白いタイルに届く少し手前で曲がっていた。

「ついてない」

沢村さんが言った。先生が聞き返した。
彼女は目を開けて、私を見た。鼻の脇に皺を寄せた、勝負に負けた時の顔だった。
「まだ、壁についてないです」

私は先生に、今のは終わりじゃありません、と言った。先生は困ったように笑い、もう十分ですよ、と答えた。

その横で、沢村さんは両手を伸ばし直した。
何もないはずの手前で、また指が折れた。

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