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辛くなかった

修平が作る麻婆豆腐は、たいして辛くなかった。市販の素を二人分使い、豆腐を三丁も入れるからだ。鍋の中身を見て笑ったことがある。足りないよりいいだろ、と言われた。あの頃は、それでよかった。

最後に訪ねた晩も、台所から同じ匂いがした。私は駅のロッカーへ旅行鞄を入れてきた。修平の家に置いていた服や化粧品は、前の週から少しずつ持ち帰っていた。合鍵をテーブルに出し、言うことも決めていた。食事の途中では言わない。食べる前に言う。

修平は私の手元をちらっと見て、二枚の皿に豆腐を盛った。
「飯、炊きすぎた」
私は上着を着たまま椅子に座った。合鍵には二人で買った丸い鳥の飾りがついていた。安い物なのに外し方が分からず、輪に爪を立てていたら、「それ、捨てれば」と言われた。
「鍵だけでいいから」
もう分かっていたのだと思う。私が何も言わないうちに、修平は自分の茶碗を持った。

別れたい、と言った。修平は頷き、口に入れかけたご飯を茶碗へ戻した。
「ほかにいる?」
「いない」
それは本当だった。仕事が忙しくなると連絡をしなくなるところも、喧嘩をすれば何日も黙っているところも、嫌いだった。ただ、それだけなら別れずにいたかもしれない。休みの日に彼の顔を見るより、帰る時刻を考えている自分が嫌になった。その説明をすると、修平は笑った。
「それ、俺のせいなの」
責める調子ではなかったので、余計に返事に困った。

彼は食べ始めた。私も箸を取った。一緒に食べるくらいはできる、と、急に妙な意地が湧いた。断って席を立つと、いなかったと言ったばかりの別の男に会いに行くように見えそうだった。上着を脱ぎ、椅子の背へ掛けた。

一口目の豆腐はぬるかった。修平が、辛いか、と訊いた。私は首を振った。
「そうだよな」
彼の箸が器に当たった。その時、テーブルの下で、裸足の甲を何かに舐められた。

足を引いた。修平は食べていた。靴下を履いていなかったのは私だけで、彼は灰色の靴下にスリッパまで履いている。テーブルは小さな二人用だった。彼が足を出せば届く距離ではある。でも、爪先の感触ではなかった。ぬるくて、面積が広かった。濡らした布をゆっくり引き抜くように、指の付け根から足首へ擦れていった。
「何?」
私がテーブルの下を覗くと、修平も箸を止めた。
「今、触った?」
「触ってないけど」
床には何もなかった。私の足の甲に、光る筋だけがついていた。

彼はティッシュを一枚取って渡した。こちらの足を見るために屈みもしなかった。私は自分で拭き、丸めた紙を皿の横へ置いた。修平の部屋では、床に落ちたご飯粒をうっかり踏むことがある。お皿から何か垂れたのかもしれない。そう思おうとしたのに、指先についた汁は、麻婆豆腐の油とは違って糸を引いた。

「怒ってる?」
修平は茶碗を持ち上げたまま私を見た。
「別に」
「違う。俺が、怒ってると思ってる?」
私は少し考えて、思っていると答えた。
「じゃあ、怒ってない。そこは分かって」
言ってから彼は、口を閉じて豆腐を噛んだ。足元で、湿ったものが床を滑る音がした。

今度は両足を椅子の横棒に載せた。食べかけのまま何をやっているのだろう、と自分でも思った。上着を取って出ればよかった。それなのに、ちゃんと別れなければという気持ちが残っていた。修平は向かいにいる。知らない部屋ではない。私が持ってきた醤油差しも、使いにくいと言われたまま、まだテーブルに出ていた。

「ちょっと立ってみてくれる」
「なんで」
「何か、下にいる」
彼は私の顔を見て、冗談を言っているのか判断できないようだった。それから茶碗を置き、椅子を引いた。

テーブルクロスの裾から、赤みのある平たいものが見えた。修平のスリッパと床の間へ挟まり、踏まれた所だけ薄くなっていた。彼が足を横へ移すと、そこがむくむくと厚みを取り戻した。表面に、ごく小さな粒が並んでいた。

舌だった。

そう思った瞬間、私はそれを舌以外の物に見直そうとした。ゴムの玩具。濡れた布。けれど先端が反り、裏側の青い血管が見えた。私の手首ほどの幅があった。長い部分は修平の椅子の下へ続き、そこから先が見えなかった。

修平は立っていた。口を普通に閉じて、私の顔を見下ろしていた。
「何かいるの」
私は床を指した。彼が覗き込むと、舌はテーブルの脚へ巻きついた。硬い脚を一周して、その先が私の椅子へ近づいた。修平は目を細めた。
「それ、何だろう」
本当に分からない声だった。

彼は流しから菜箸を取ってきた。私は止めたが、もう間に合わなかった。しゃがみ、長い舌の脇を菜箸で押した。修平の顔が歪んだ。舌を噛んだ時のように、片方の目だけを強く閉じた。それでも菜箸を引かず、もう一度つついた。
「痛い?」
私が訊くと、彼は手を止めた。
「うん」
「やめて」
修平は菜箸を床へ落とした。舌の先がその二本を並べるように撫でた。そこから細い唾液の糸が伸び、彼の顎の下につながっていた。

私は椅子から降りられなくなった。玄関へ行くには、彼の脇を通るしかない。修平はしゃがんだまま、床の舌へ手を伸ばし、途中で止めた。自分の口を触った。唇を開き、少しだけ舌を出した。普通の大きさの舌があった。床のものも同時に、先端を伸ばした。

修平が笑おうとした。
「何だ、これ」
誰かに言ってもらわないと困る、という言い方だった。私は答えられなかった。彼が自分の舌を口へしまうと、床のものは短くなるどころか、テーブルの脚を離れて私の椅子の下へ入った。

その匂いを知っていた。修平が眠っている朝、顔を近づけた時の息だった。歯を磨く前の、少し甘くて嫌な匂い。近すぎるから感じるのであって、普通に話す距離では気づかない。ところがその晩は、彼の部屋全部が、その距離になっていた。

「出たい」
私は言った。彼は頷いた。
「うん。出よう」
一緒に、とは言わなかった。修平は立ち上がり、テーブルを壁のほうへ押した。私が通れるようにするためだった。皿から豆腐が滑り、汁がクロスへ垂れた。その下にいた舌が、落ちてきた物へ動いた。

それを見て、私は小さい声を上げた。
舌は豆腐を取らなかった。私の椅子の座面へ、ぴたりと先を当てた。私が足を載せた横棒の下を通り、ズボンの膝まで這い上がってきた。濡れた跡が黒く広がった。私は両手で膝を抱えた。

修平は私の腕を取ろうとしたが、私は手を払った。彼はその場で手を止めた。
「俺だよ」
「分かってる」
それしか言えなかった。誰か知らないものに変わったのなら、まだ説明がついた。私の腕を掴む時に、力を入れすぎないよう指を浮かせるのも、拒まれると口の端を歪めるのも、ずっと一緒にいた修平だった。

舌は膝の上で止まっていた。何もしていない。私が動かなければ、触れた面が温まっていくだけだった。そのことが耐えられなかった。彼に何年も触れられてきた身体が、この気持ち悪い温かさも、よく知っているもののように受け入れていた。
私は片手で舌を掴んだ。

見かけより重く、持ち上げると下へ垂れた。修平が息を呑んだ。私は力を緩めなかった。舌を膝から離し、そのまま椅子の外へ落とした。床で鈍い音がした。
「ごめん」
修平が言った。
私は何に対しての言葉か考えないまま、椅子を越えて壁側へ降りた。

出口まで、ほんの数歩だった。壁に肩を擦りつけて歩き、流しの角を回る。修平はずっと動かず、私が通る幅を空けていた。床の舌は私のほうへ向いたが、それ以上は追ってこなかった。彼の顔を見ると、奥歯を強く噛み合わせていた。顎の筋が突っ張り、鼻の脇に汗が出ていた。

玄関で靴を履いた。踵を潰しそうになり、指を差し込んで直した。早く出ることしか考えていないはずなのに、そんなことをしていた。鞄も上着も台所にあった。携帯は上着のポケットだった。
「取って」
私が指すと、修平は首を振った。唇の間が赤かった。私は一度だけ息を整え、靴のまま部屋へ戻って自分で取った。そのあいだ、彼は私を見なかった。

戸を開けたところで修平が言った。
「辛くなかった?」
口を動かした拍子に、血の混じった唾液が顎へ落ちた。舌が床を叩いた。私が通った道を覚えているように、先が壁際を擦っていた。

「辛くなかったよ」
本当のことを答えた。豆腐の味はまだ舌に残っていた。

修平は頷いた。その後に何か言うつもりで、ゆっくり口を開けた。私は聞かずに戸を閉めた。

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