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暗くなる火

火をつけると、部屋が暗くなった。
黒川は、マッチを擦った手をそのままにしていた。窓から入る街灯の光が、食卓の端で途切れている。さっきまで見えていた箸の先も、皿の模様も見えなかった。
火はついていた。小さな硝子の器の中で、黄色い炎がまっすぐ揺れていた。

ろうそくは、会社のくじ引きでもらったものだった。透明な器に白い蝋が詰まり、薄い木の蓋がついている。高そうに見えたが、箱を開けると甘い匂いが強くて、黒川は食器棚の奥へしまい込んでいた。
その夜、夕飯を食べようとしたところで停電した。
近所の部屋も暗く、道路沿いの信号だけが動いていた。黒川は携帯の明かりで箸を探し、惣菜の蓋を外した。それから、あのろうそくを思い出した。懐中電灯は車の中だった。四階から下りるのが面倒だった。

炎の近くだけが暗かった。
黒川は燃え尽きかけたマッチを吹き消して灰皿へ置き、携帯をテーブルへ向けた。白い光の輪が手前の皿まで伸び、器の周りで切れた。
器は見えている。炎も見えている。そのすぐ下のテーブルの面だけ、黒く抜けていた。
彼は顔を近づけた。熱はあった。甘い匂いも強かった。
火に目が慣れていないのだろうか。明かりを消してもう一度見たが、器の下にある黒さは変わらなかった。平らな影ではなかった。卓上に、浅い穴が開いているようだった。

息を吹きかけた。
炎が傾き、その先が消えかかった瞬間、穴の底に白いものが見えた。細い縁に囲まれた、丸い面だった。
炎が起きると、また黒くなった。
黒川は顔を上げた。心臓が速くなっていた。もう一度吹けば何だったか分かりそうで、そのままの姿勢で待った。
器の下で、白いものが動いた。
大きな目だった。黒川の顔ほどもある目が、暗い底から、こちらを見上げていた。

椅子を引いて立った。背中が冷蔵庫へ当たった。
食卓の下で、何かが擦れた。
箸を落とした時のような、小さな音だった。黒川は携帯の明かりをつけ直し、光を床へ向けた。丸い光が椅子の脚を照らした。その脚と脚の間に、黒い塊があった。
片膝を抱えた人に見えた。
大きさは猫くらいだった。光を向けても、服も肌も分からない。ただ、膝へ押しつけた顔と、背中の丸みだけがあった。
黒川はもう一歩下がった。冷蔵庫が鳴り、それ以上は下がれなかった。

台所には明かりの戻らない電灯がぶら下がっていた。
黒川は壁のスイッチを押した。反応はなかった。分かっていることなのに、何度も押した。最後に、つける側へ倒したままにした。
食卓の上で、火が少し長くなった。
炎の先が上へ伸びたのではなかった。硝子の器の底から、細い黄色の筋が下がってきた。その筋は、テーブルを突き抜けていた。木は焦げなかった。
椅子の間の黒いものへ、黄色い筋が届いた。
人の形が、ゆっくり解けた。顔を膝から離し、両腕を下ろした。床に足をつけるより先に、身体が下へ沈んだ。

黒川は、その場所を照らした。
床には何も残っていなかった。焦げ跡も穴もない。さっきまで人に見えたものが、床の下へ通り抜けただけだった。
器の中だけを見れば、普通の炎だった。
彼は横から近づき、指を器へ伸ばした。持ち上げて流しへ運び、消してしまいたかった。
器を持つ直前、その向こうの暗がりから声がした。
「まだ、下がある」
低い男の声だった。

黒川は手を引いた。
別の声が、すぐに答えた。女の声だった。何と言ったかは聞き取れなかったが、男は、そうか、と短く返した。
誰かがテーブルの向こう側にいる。そう思って、携帯をそちらへ振った。
誰もいなかった。
壁に立てかけた折り畳み椅子と、出しっぱなしの買い物袋が見えた。その手前で、白い光が丸く欠けていた。
黒川は腕を高く上げた。光の欠けたところも上へ動いた。何かが、自分の持つ明かりの前にいるのだった。

携帯を下げた時、天井で足音がした。
上の部屋は空いているはずだった。先月、引っ越しの荷物を運び出すところを見ていた。まだ新しい人の挨拶はなかった。
足音は台所を横切り、食卓の上で止まった。
天井の白い面に、足の裏が二つ出た。
染みではなかった。指の短い、裸の足だった。足首までがゆっくり下がり、膝が続いた。人が上の部屋から床を抜けて落ちてくる。黒川はそう思った。
だが、人は落ちてこなかった。
腰のところで止まり、脚だけを天井からぶら下げていた。足の甲には土がついていた。

部屋の壁が、突然明るくなった。
停電が終わったのだった。冷蔵庫が低い音を立て、換気扇が回り出した。黒川は息を吸った。誰かに背中を押されたように、台所の隅から離れた。
食卓の周りだけは、暗いままだった。
黒い円がテーブルの縁を越え、床へかかっていた。その中にある椅子の半分が見えなかった。天井の足も、膝の途中から見えなくなっていた。
器の火が長く下がっている。
窓の外でも、いくつもの部屋へ明かりが戻っていた。黒川の台所にも電灯はついていた。そのことが、かえって恐ろしかった。

彼は玄関へ行こうとした。
床に何かがいた。さっきの猫ほどの人より、ずっと大きかった。横向きになった男の背中だった。肩だけが床の上に出ていて、胸から下は沈んでいる。
黒川は足を止めた。
その男のすぐそばを、小さな手が一つ、すうっと下りていった。次に頭が来た。髪のない、丸い頭だった。全体は見えなかった。腕と頭だけが床へ入り、消えた。
同じ速さではなかった。
あるものは床へすぐ沈み、あるものは途中で止まった。肩を出した男だけは、身をよじりながら、少しずつ下がっていた。

黒川は靴下のまま、男をまたごうとした。
右足を上げたところで、足首に重みがかかった。
誰かにつかまれた感触はなかった。足そのものが急に重たくなり、持ち上げていられなくなったのだ。爪先を床へ下ろすと、少し楽になった。
板が、靴下の中へ入ってきた。
右の爪先が見えなくなっていた。足はまだついている。指も動かせる。しかし動かした指は、床の下で擦れていた。
黒川は壁へ両手をついた。右脚を引き上げようとして、身体ごと左へ傾いた。左の足まで床へ押し込まれた。

人の声が近くなった。
「こっちは、止まる」
男が言った。
黒川は助けを求めた。頼む、引いてくれ、と言った。
返事はなかった。どこかで女が短く笑い、笑い声が床へ下がっていった。
肩を出していた男は、もう背中の一部しか見えなくなっていた。その背中へ、黒川の膝が触れた。
布のような手触りがした。身体ではなく、濡れた服を何枚も重ねたものに膝を押しつけたようだった。彼は反射的に離れようとした。その間に、両足が膝の下まで沈んだ。

玄関のほうから、チャイムが聞こえた。
黒川は、開いてる、と叫んだ。鍵は掛かっていた。気づいてから、開けてくれと叫び直した。
隣の部屋の男の声がした。硝子が割れたような音がしたけど、大丈夫か、と訊いていた。
黒川は食卓を見た。器は割れていなかった。火の下にある暗い円が、戸口のほうへゆっくり広がっていた。
「管理人を呼んで」
自分の声が小さく聞こえた。喉を押さえるものはなかった。下腹が床へ近づくにつれ、声も遠くへ離れていった。

彼は壁沿いの冷蔵庫の取っ手をつかんだ。
扉が開き、中の瓶が鳴った。卵のパックが落ち、床で割れた。黄色い液が広がった。何もかも、床の上に留まっていた。
落ちるのは、自分たちだけだった。
黒川は取っ手を握り直した。右の掌が金属を滑り、腕まで冷蔵庫の内側へ入りかけた。冷気は感じた。硬いものにぶつかる感触だけがなかった。
彼は手を引いた。
身体を支えるつもりで伸ばした両腕が、どちらも役に立たなくなっていた。

食卓の下の黄色い火が、目の高さに来た。
器の中にあった時には、親指の爪ほどだった。今は、その長い横腹が、顔の前でゆっくり揺れていた。炎の向こうに、何人もいた。
みんな、別の高さにいた。
腰まで見える人。首から上だけ出ている人。こちらを向いているのに、顔のあるところが暗くて見えない人。
一人が、片手を胸へ当てたまま下がっていった。誰もその手を取らなかった。待っているようにも、見送っているようにも見えなかった。ただ、いるだけだった。

黒川の顎が床へ触れた。
木の匂いがした。子どもの頃、寝転んだまま床へ頬をつけた時と、同じ匂いだった。
玄関の鍵が鳴った。隣人の声と、別の人の声が重なった。靴が上がり框へ乗る音がした。
黒川は顔を上げようとした。目の前で、床の継ぎ目が少しずつ高くなった。口へ木が当たっても、痛くはなかった。
上のほうで、誰かが食卓の器を見つけたらしかった。
「これ、消して」
黒川はその声を聞きながら、下の階の天井から、頭を出し始めていた。

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