船底から出てきた座布団を見て、渉は父が休憩に使っていたのかと思った。花柄の薄い座布団だった。工具の下に敷くには綺麗すぎたが、父はそういうことを気にしない。渉が持ち上げると、端に自分の部屋の洗濯ばさみが付いていた。
修理していたのは、長く使われていなかった木の小舟だった。港の管理小屋で保管され、持ち主から整えてほしいと頼まれた。陸へ上げたままにするか、また水へ戻すかは、状態を見て相談することになっていた。
父は船を直す仕事をしていた。渉も一緒に働いていたが、秋からは別の町の工場へ勤める予定だった。今の仕事が嫌いなわけではない。生活が安定せず、父の知っている人だけを頼りに続けるのが不安だった。
父は止めなかった。かといって、喜んでいる様子でもなかった。最後にこの舟だけ手伝え、と頼まれた。渉は、分かったと答えた。その言葉で、今度は辞める話が本当になった気がした。
引っ越しの箱は、渉が自分で二階へ運んだ。父が階段の下まで来たが、手伝ってくれとは言わなかった。洗濯ばさみ一本でも置いていけば、荷物を取りに来る口実になる。それを悪いことのように考えてしまい、何でも箱へ詰めていた。座布団だけは、日に干してから入れるつもりだった。
舟は作業場の前で、地面から少し持ち上げて支えてあった。渉は床の傷んだ部分を外し、下を確かめた。狭い空間のはずだった。ところが板を一枚取ると、底まで腕を伸ばしても届かなかった。
底に座布団があった。渉は長い棒で寄せ、持ち上げた。自分の部屋の物だと分かったのは、洗濯ばさみを外したときだった。欠けた角へ紙を巻き、使い続けていた。父に見せると、知らん、と返ってきた。
渉は工房の二階に住んでいた。小さな部屋で、台所は父と共用だった。すぐに上がってみると、窓際に干したはずの座布団がなくなっていた。窓は閉まっている。風で落ちたのでも、父が持ち出したのでもなさそうだった。
船へ戻ると、底に部屋があった。板を外した四角い穴から、床の一部が見える。土足で歩く場所ではなく、畳だった。小さな柱が二本立ち、向こうの壁に白い服が掛かっていた。
父を呼んだ。父は穴の縁へ片手を置き、覗き込んだ。すぐには何も言わなかった。渉が舟の横へ下りて底を触ると、薄い板があるだけだった。その下は空気で、作業場の砂利が見えた。
部屋が入る厚みなどなかった。父は穴へ手を入れた。指が見えなくなるほど伸ばし、何かをつまんで取り出した。小さな茶匙だった。柄が曲がっていた。父はしばらくそれを見てから、戻した。
「見たことある?」
渉が聞くと、父は首を振った。嘘だと思った。物を確かめるときの父は、傷や材質を見る。今は昔の知り合いの顔を見たときの目だった。渉は問い詰めず、穴へ布を掛けた。
昼になると部屋は消えた。布を取ると、狭い船底がある。奥へ棒を伸ばせば、すぐに板へ当たった。渉は外した床板を戻さず、その日は船の外側を磨いた。座布団は二階へ上げた。
夕方、父が渉を呼んだ。舟の周りだけ、潮の匂いがした。海は作業場のすぐ先にあるが、風は陸から吹いていた。布を取ると、また畳があった。今度は、部屋の隅へ物がいくつも並んでいた。
片方だけの靴、握りの割れた鍋、短い鉛筆。古い物も新しい物も混じっていた。一つずつ、人が拾って置いたように整えてある。渉の座布団も、さっき二階へ戻したばかりなのに、真ん中へ載っていた。
父は港の方を見た。潮が高くなっていた。その後何度か確かめると、部屋が見える時間は潮の高いときと重なった。ただ、満ちた海の下へあるはずの部屋に、水は一滴も入らなかった。
持ち主の女性に来てもらった。彼女は夫が亡くなってから舟を使っていないと話した。穴の中を見ても、自分の物はないと言った。ただ、こんなに乾いてるはずがない、と妙なことを口にした。
舟は昔、一度流されたことがあった。見つかったときには水を吸い、沈みかけていた。夫が引き取り、何年もかけて直した。女性はその作業を詳しくは知らない。乾かしている間、夫が、返してやらないと、とよく言っていたそうだ。
何を返すのか聞くと、海の水だと答えていた。濡れていた舟へ水を返す意味が分からず、女性はそれ以上尋ねなかった。夫は舟を乾かしたあと、二度と海へ出さなかった。物置の代わりに使うのも嫌がったという。
父は修理を止めた。女性には、日を改めて連絡すると伝えた。舟へ乗り込むための踏み台を離し、渉にも下へ入るなと言った。渉は、二階の物が勝手に移っていることを、女性の前では話せなかった。
その晩、渉の部屋から湯呑みが消えた。引っ越しの箱へ詰めた物だった。まだ蓋をしていなかったが、誰かが取り出せるような場所には置いていない。箱の底の紙には、湯呑みの丸い跡が残っていた。
二階から舟を見下ろすと、床板の穴に明かりがあった。部屋の中で人が歩いた。渉には姿が見えず、足音だけが畳を伝ってきた。自分の部屋の床でも、同じ順番に板が軋んだ。
渉は外へ出た。父が舟の脇にいた。手に、あの曲がった茶匙を持っている。部屋から取り出したのだと分かった。渉が近づくと、父は、それを戻しに来た、と言った。聞く前に言い訳をしていた。
茶匙は渉の母が使っていた物だった。渉が幼いころの引っ越しで失くしたらしい。母は今も別の町で暮らしている。父とは長く会っていない。死んだ人の遺品ではないことが、渉にはかえって気味悪かった。
「落とした物を拾うんじゃないんだな」
父は匙を指で回した。
「なくした所へ、取りに来るんだ」
渉の引っ越しが近いことと関係があるのか、二人とも答えを出せなかった。父は匙を穴へ返した。中で、誰かが受け取る音がした。
渉は座布団を取り返したかった。私物を諦めるのが惜しいのではなかった。自分の部屋と同じように並べられた物を見ると、誰かが先に引っ越しを済ませている気がした。そこを自分の居場所にされたくなかった。
舟へ片足を掛けると、父が止めた。渉は、届く所だけだから、と身を乗り出した。湯呑みが穴の真下へあった。腕を伸ばすと、畳が浮き上がり、渉の指のすぐ先へ来た。
湯呑みをつかんだ。父が肩を引いた。渉は舟の上へ戻ったが、向こう側で同じ引っ張り方をされた。腕の中の骨が、二人に両端を持たれた棒のように痛んだ。穴の中で、知らない手が湯呑みの反対側をつかんでいた。
渉が手を離すと、痛みは消えた。けれど手首に畳の目が付いていた。皮膚へ赤く押された跡ではない。細い目が腕の下へ続き、指で触ると編んだ藺草の硬さがあった。父はそれを濡れた布で包んだ。
舟の底から、水を汲む音がした。部屋には水がない。誰かが椀で何度もすくい、見えない所へ捨てている。すくうたび、渉の手首が乾いた。布の水まで吸われていった。
父は水道のホースを持ってきた。穴へ水を流すと、畳に一度溜まったが、すぐ消えた。部屋の物は濡れなかった。父が水を止めると、渉の手首から水が一筋流れた。向こうでは、部屋を濡らさないために別の所を使っていた。
「水へ戻そう」
父が言った。穴を板で塞げば部屋を閉じ込められると思っていたが、それでは今の渉の部屋まで乾かされるかもしれない。父は持ち主へ電話し、舟を水に浮かべる準備をしたいと伝えた。
翌朝、持ち主は来て、父の説明を黙って聞いた。夫が何を閉じ込めていたのかは分からないが、陸へ置き続けたくない、と言った。父は穴を塞がず、水が抜ける部分を確かめた。渉は腕を布で包んだまま手伝った。
舟を動かし始めると、部屋の柱が穴の中へ迫った。畳の端が丸まり、下から別の床が見えた。土でできた部屋だった。そこにも戸はなく、壁際に低い水鉢があった。小さなものが、その縁に何匹も座っていた。
渉には、それが何の生き物か分からなかった。細い前脚と、閉じた口がある。誰も水へ顔をつけていない。乾いた鉢の底で、母の茶匙が横になっていた。父は覗き込むのをやめ、舟の移動に声を合わせた。
海へ下ろす前に、渉は自分の引っ越しの箱を持ってきた。中には残った食器と、使っていた布が入っていた。全部を渡すつもりはない。箱を開け、まだ自分の手で選べる物があることを確かめた。
船底の座布団は取り出さず、部屋の湯呑みも諦めた。代わりに二階の部屋の鍵をキーホルダーから外し、自分のポケットへ入れた。父は何も言わなかった。舟を水へ戻すと、渉の手首の畳の目が、濡れた布の中でほどけた。
底が水へ触れた瞬間、部屋の水鉢が満ちた。舟の中へ水が入ったわけではなかった。穴の向こうで、長く乾いていた壁が濃い色になった。小さなものたちは一斉に鉢へ顔を寄せた。人の溜息に似た音がした。
渉の部屋から移った物が、畳の上でずれた。湯呑みが座布団の端へ乗り、洗濯ばさみが倒れた。父は棒を伸ばしかけたが、渉が押さえた。もう誰かが使う場所になっている。取り戻すために、もう一度水を抜くことはできなかった。
舟は港の内側へ留めた。持ち主も陸から見ていた。陽が沈むまで三人でいたが、穴から人の顔が出ることはなかった。代わりに、真昼の港の音が聞こえた。魚箱を積む音、車の後退する音、知らない男が笑う声。
その翌週、渉は引っ越した。新しい部屋へ持っていく荷物は予定より少なかった。父は車から箱を下ろすのを手伝い、空いた床へ腰を下ろした。渉は新しい湯呑みを二つ出した。父はそれを見て、同じ柄か、と言った。
舟の穴はまだ塞いでいない。父から送られてきた写真には、暗い船底しか写っていなかった。けれど最後の一枚で、穴の縁に、渉の座布団の花柄が少し見えた。乾かすために干したように、端へ黄色い洗濯ばさみが留めてあった。


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