妹は寝間着の袖を、私の上着と同じフックへ掛けようとしていた。寝る前に着ていた、薄い綿の上着だった。佳奈、と呼ぶと、妹は振り返り、何、と答えた。手はそのまま、空になったフックを探っていた。
その宿を選んだのは私だった。夜行列車を模した二段寝台の個室があり、駅から近く、値段も手頃だった。建物そのものは普通の宿で、廊下に線路もなければ、車輪もない。列車好きだった子供のころの妹を思い出して、予約した。
佳奈は来月、海を隔てた町へ移ることになっていた。向こうの小さな出版社へ勤める。私は地元に残り、母と店を続ける。妹が出ていくのを寂しいと言うと、引き留めるように聞こえる気がした。だから、出発祝いの旅行をしよう、とだけ誘った。
駅で落ち合うと、佳奈は大きな紙袋を持っていた。私が好きな店のパンだった。旅行先で食べたい物もあるのに、と思ったが、そんなことは言わなかった。妹も、私が選んだ宿を見て、いいね、と言った。互いに、昔の相手へ贈り物をしていた。
部屋には向かい合う二台の二段寝台があり、上段は荷物置きになっていた。私たちは下段を一つずつ使った。窓の下に細い机と丸椅子が二脚あり、壁には上着を掛ける金属のフックが四つ並んでいる。少し高く、手を伸ばさないと届かなかった。
私は靴を脱ぐ前に、左端へ上着を掛けた。妹もその隣へ掛けた。二人とも、あとでクローゼットがないことに気づいた。初めて入る部屋なのに、上着の置き場所を探すことさえしなかったのが、今になって引っかかっている。
夕食から戻り、妹が先に風呂へ行った。私は明日の行き先を調べていた。地図を見ているうちに眠りかけ、目の前へ広い屋内の床が出てきた。高い所に、丸い窓があった。人が寝ているのか、白い膨らみが床一面に並んでいた。
男がその間を歩いていた。顔は見えなかったが、袖口の白い線が目についた。男は、まだ決まっていません、と誰かへ話した。私の方を向く前に、スマートフォンが手から滑り、私は目を開けた。落とした音を聞いて、佳奈が部屋へ戻ってきた。
一時を過ぎてから照明を落とした。妹は明日行く島の船に間に合うか気にしていた。私は早く寝れば大丈夫と答えた。暗くすると、廊下側のカーテンの下から細い光が入った。誰かが、その前で足を止めた。
「こちらは、お二人ご一緒で」
低い男の声だった。私は宿の係員だと思い、はい、と返しかけた。妹が先に、何がですか、と聞いた。するとカーテンの向こうで、少し間を置いて、検札です、と答えた。
部屋を出たときに返してもらった鍵は机にあった。列車の切符など買っていない。妹が入口のカーテンを引き、ドアを開けた。そこには通路の壁があるだけで、人はいなかった。遠くに非常灯が見え、建物の中の普通の廊下へ戻っていた。
宿の演出かと思い、受付へ電話した。夜の担当の女性は、そのようなサービスはしていないと言った。一度見に行きましょうかと聞かれたが、廊下を確かめたばかりの佳奈が、もういないので、と断った。私も、その時点では大ごとにする気はなかった。
横になると、さっきの広い床が見えた。今度は自分の身体が、その床の上にある。頭の横へ誰かの踵が置かれていた。男の靴が近づき、私の胸の上を跨いだ。踏まれなかったことにほっとした瞬間、自分がとても小さいと気づいた。
佳奈の呼ぶ声で目が覚めた。喉に息が詰まり、起き上がるまで時間がかかった。妹は寝台の縁を握っていた。自分も妙な夢を見た、と言った。広い場所で、服を着せられるのを待っていたのだという。
私は男の袖の白い線を話した。妹が黙った。それから、自分には白い線が二本見えた、と言った。一本だと訂正する気にはなれなかった。私たちが見たのは同じ場所で、男は一人ではないらしかった。
眠れなくなり、妹は寝間着の上へカーディガンを羽織った。私は水を飲んだ。どちらも起きているうちは、部屋は変わらない。けれど目を閉じ、返事が遅れると、窓の外から車輪の音が聞こえた。
佳奈が寝間着の上着を脱いだのは、その少しあとだった。暑い、と言って、肌着姿になった。そして畳まず、壁のフックへ掛けようとした。私は水の瓶を置き、何してるの、と聞いた。佳奈は自分の手を見て、分からない、と答えた。
上着のあったフックは空になっていた。私の服もなかった。寝台の上へ畳んで置かれていた。右側には私の上着と妹のズボン、左側には妹のカーディガンがある。誰かが持ち主と関係なく、寝る人の服を揃え直していた。
私は上着を取った。裏地が熱かった。ポケットへ手を入れると、指が何かの髪へ触れた。服を振っても何も落ちなかったが、裾の内側に、小さな踵の跡が二つ浮いた。さっき夢で見た足と同じ向きだった。
部屋を出ようとした。ドアは開いた。廊下へ出ると、下着のままの佳奈が上着を取りに戻り、私もついて戻った。そこで違和感があった。部屋を離れるほど、着る物が足りないように思えてしまう。私は靴まで履いていたのに、裸で人前へ出る気がした。
次は互いの手を持ち、何も取りに戻らないことにした。通路の角まで行くと、佳奈が私の肩を抱いた。私は肩が寒かった。見下ろすと、服の下の腕が細くなっていた。妹の手首も、私が知る大人の太さではなかった。
踵が靴の中で浮いていた。廊下の壁が高くなる。角の向こうに、白い線のある袖が見えた。私は妹を引いて部屋へ戻った。ドアを開けたまま寝台の縁へ座ると、手足はいつもの大きさに戻った。廊下へ出ることまで、向こうの支度の一つにされている。
受付へ電話したが、呼出音が途中から列車の揺れる音へ変わった。携帯は圏外になっていた。窓を開けると、駐車場があった場所に広い床が見えた。横一列に並ぶ寝具の間を、黒い靴が歩いていた。空気だけは、外の夜の冷たさだった。
「同じ所がよければ、そのように」
カーテンの外から男が言った。私は初めて、あの声が私たちへ相談しているのではないと分かった。服を並べ終わるまでに、反対しなければいい。眠ったあとの身体は、運ぶ物として扱われていた。
佳奈が、一緒じゃなくていい、と答えた。私は思わず妹を見た。こんなときにまで、私から離れたいのかと思ってしまった。妹はその顔を見て、違う、と言った。今日ここで決めさせられるのが嫌なのだと、息を切らして言った。
私は妹のズボンを取り、自分の寝台から渡した。佳奈は座ったまま穿き直した。私も自分の服を拾い集めた。窓の外で靴が止まった。すぐそばにいるはずなのに、部屋の窓よりずっと下に、白い袖口があった。
フックは四つとも空だった。そこへ掛け直すのは嫌だった。持っていると腕が重くなり、机へ置くと、気づいたときには寝台へ移っている。私たちは自分の服を膝に載せ、両腕で押さえて丸椅子へ座った。
眠るな、と互いに何度も言った。私は佳奈に明日の予定を聞いた。妹は船に乗らなくてもいいと言った。本当は島より、宿の近くの小さな本屋へ行きたかったらしい。私は、言えばよかったのに、と言い、佳奈は、いつ言う隙があったの、と笑った。
その笑いの途中で、妹の顎が胸へ落ちた。私が肩を揺すると、寝台から小さな手が伸びた。妹へ届く前に、手は掛け布団の縁をつかんだ。佳奈が顔を上げた途端に消えたが、布団には爪のない指の窪みが残った。
会話だけでは足りなかった。私はタオルを濡らし、妹と自分の顔を拭いた。冷たいはずなのに、二度目には生ぬるかった。窓の外で、男が、ここで眠る人はみんな眠ります、と言った。当たり前のことが、取り消せない約束のように聞こえた。
「お姉ちゃん、私が返事しなくても決めないで」
妹が言った。私は分かったと答え、膝から滑った上着を抱き直した。しばらくして私の方が眠りかけた。佳奈が私の手を強く開き、自分の頬へ当てた。乾いた頬に、細かい涙の跡があった。
時間はほとんど進まなかった。時計を見るたび、同じ分の数字がそこにあった。それでも窓の外は薄くなってきた。広い床の奥にあった丸い窓が消え、駐車場の街灯が透けた。夜が終わることだけは、男の都合では止まらないようだった。
佳奈が急に立とうとした。私も同時に腰を上げた。膝の服をフックへ戻さなければならない気がした。私は妹の前へ椅子を寄せ、向かい合って座り直した。互いの膝が邪魔になり、すぐには立てなかった。服は二人の間で潰れた。
寝台の下で金属が擦れた。何かが引かれている。壁へ固定されていたはずの二台が、通路側へ少しずつ動き始めた。空いた場所には、掃除で拭いた丸い跡が残っていた。夢の中の床ではなく、私たちの部屋の床だった。
カーテンが内側へ膨らんだ。二台の寝台がぶつかると思ったが、右の一台は細くなり、左の一台の中へ入った。布団が重なった。誰も寝ていないのに、白い膨らみが二つできた。どちらにも顔のある側がなかった。
男が、お忘れ物は、と聞いた。私は答えなかった。佳奈が自分の膝から出ていた私の袖を押し込んだ。寝台はカーテンを持ち上げ、部屋から出ていった。廊下に収まる大きさではなかったが、壁に当たる音は一度もしなかった。
窓の外で鳥が鳴いた。携帯の画面に電波の印が戻り、すぐに母から昨夜の返信が届いた。パンは美味しかったか、と書いてあった。私はその文章を声に出して読んだ。佳奈は笑わず、もう一回読んで、と言った。
朝の係員が来たとき、私たちは服を抱いたまま丸椅子に座っていた。部屋には寝台がなかった。係員は、改修中の部屋へ通されたのかと聞いた。壁には寝台を留めていた穴があり、私たちの靴は、何もない床の四隅に揃えて置かれていた。
予約の確認も、支払いの話も、その場ではできなかった。私たちは着替え、荷物を持って建物を出た。服を一枚ずつ広げて確かめたが、何も増えていなかった。紙袋のパンだけが硬くなっていた。朝食を取る店で、二人とも長く黙った。
船へは乗らず、佳奈の行きたかった本屋へ行った。入口の椅子に座ると眠りそうになり、私たちは本を選ぶ間、別々の棚を歩いた。妹の姿が見えなくなるたび、私は声を掛けたくなった。そのたびに、手の中の本を一頁めくった。
家へ帰った夜、私は上着を椅子へ載せた。妹が越してからも、旅の話はほとんどしていない。一度だけ、部屋に椅子が二脚あると聞いた。客はまだ来ていないという。二脚を向かい合わせにしているかどうかは、聞かなかった。


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