田淵の遺体が見つかったのは、翌朝だった。その前の晩、本人はずっと、人のいない場所を探していた。
駅へは行けなかった。顔見知りの多い飲み屋にも寄れない。兄へ電話することは一度だけ考えたが、すぐに警察へ連絡するだろうと思ってやめた。交差点の先で赤い光が回っていたので、田淵は舗装されていない道へ入った。歩いても息は切れなかった。腹を押さえた手を離すと、上着に開いた穴から、冷たい風が入った。
諸岡は空き地に置いてきた。足元に転がっていた石に頭をぶつけ、それから動かなかった。数か月かけた仕事を終えたばかりだった。振り込むと言っていた金は振り込まれず、電話をかければ、客からまだ入っていない、と返された。その客からはもう払ったと聞いたあとだった。諸岡は田淵を見て笑った。間に入る人間には、取っていい分があるのだという。あんたが聞いていた金額が、そもそも違うんだよ、と。
腹を押さえていた理由を、田淵は考えないようにしていた。諸岡が倒れる前、二人がもつれたとき、その手に何か光る物があった。今は痛くない。血も垂れていないようだった。大事なのは、あの場所から離れることだった。
住宅の裏を抜けると、塀の向こうに黄色い明かりが見えた。小さな斎場だった。表の駐車場は暗く、通用口だけが開いている。外に置かれた長椅子に、三人ほど座っていた。田淵は電柱の影からしばらく見ていた。一人の男が立ち、折り畳んだ布を運び込む。明かりの中を横切ったとき、膝から下がなかった。裾の下に何もないまま、男の体は廊下を進んでいった。
田淵は塀に手をついた。見間違いなら、もう少し見ていれば分かる。椅子に残っている女は、顔を下げていた。首が、横へ折れているように見えた。向かいの男が何か話しかけると、女はそのまま顔だけを正面へ向けた。頭の上が肩へ触れた。普通なら近づく場所ではなかった。田淵は、電柱から離れた。
子供の頃、叔父が話したことがあった。夜道で祭りの帰りらしい一団に会い、酒を勧められたら飲んではいけない。知らない場所へ連れていかれるからだ。叔父はそれを自分の知人の話として、何度も語った。いつも皆が笑う所は同じだった。助かった知人が、連れていってもらった方がよかった、と言った所だ。田淵も笑っていた。日雇いの仕事ばかりしていたその人が、何から離れたかったのかは、訊かなかった。
「あの、すみません」
通用口へ近づいて声をかけると、椅子の男が顔を上げた。頬に穴があった。穴の向こうで、廊下の黄色い明かりが見えた。田淵は足を止めず、椅子の横まで行った。
「ここに、少しいてもいいですか」
男は田淵の顔を見なかった。その上の方を見上げていた。隣の女も、頭を横へ曲げたまま同じ所を見た。田淵は背後を振り返った。低い塀と、明かりの消えた家があるだけだった。
男は立ち上がり、女の腕を引いた。女は椅子をつかんだが、男が何か短く言うと手を離した。二人とも通用口へ入った。田淵も後を追ったが、扉は目の前で閉まった。ガラスの向こうを黒い服の人たちが早足で通り過ぎていく。田淵は扉を叩いた。
「お願いです。別に、何もしませんから」
自分が何を言っているかは分かっていた。相手があの顔の男だろうと、首の曲がった女だろうと、そんな場所を警察が探しに来るとは思えなかった。そういう連中といられる場所へ、一晩でも入れてもらいたかった。
廊下の奥から、白い前掛けをした老人が出てきた。扉の手前で止まり、両手を上げた。入るな、と言っているらしかった。田淵は両手のひらをガラスへつけた。
「人を死なせたんです」
老人の動きが止まった。田淵は続けた。
「戻れないんです。どこでもいいから、連れていってください」
老人はしばらく田淵を見ていた。やがて、自分の口を片手で覆った。白い前掛けの上で、もう片方の手が震えていた。
扉の縁で音がした。木が、乾いた枝のように裂けていた。田淵は左手を引いた。ガラスの脇に四本の溝がつき、その下から長い木片が垂れていた。後ろから誰かが腕を伸ばしたのかと思った。扉の上の方へ、真っ黒な手がかかっていたからだ。その大きさでは、自分のものとは思えなかった。先の曲がった爪が、枠をつかんでいる。
田淵は肩をすくめた。黒い手も少し下がった。右腕を胸へ寄せると、爪が木から外れた。ガラスが震えた。老人が口を覆ったまま、後ろへ下がっていった。
「俺じゃない」
田淵は言った。もう一度腕を伸ばすと、黒い指がそのまま伸びた。掌の中ほどに、上着の袖口が食い込んでいた。手首だと思っていた所より、ずっと先にある。自分の指の形を思い出そうとして、諸岡の襟をつかんだときの感触だけが戻ってきた。
左手で右の手首を握ろうとした。左の爪が右腕をこすった。毛の下から、濁った赤いものが浮いたが、痛くはなかった。田淵は後退りし、椅子に膝の裏をぶつけた。金属がひどく曲がった音を聞いて、走り出した。自分で曲げたのかどうか、見たくなかった。背中を丸めなければ、裏門を抜けられなかった。
明かりの届かない道で、田淵は立ち止まった。両手を脇へ隠したつもりでも、指先が地面へ触れていた。歩くと爪の先が小石を拾った。振り払おうとして手を振れば、近くの金網が揺れた。何度か声を出してみた。自分の声の下に、空き缶を踏み潰すような音が混じった。口を閉じても、少し遅れて鳴った。
斎場の扉が開いた。田淵は草の陰へかがんだ。さっきの男たちが、裏の道を歩き始めた。一人が振り返る。田淵と目が合うと、すぐに前を向き、女を押すようにして急いだ。田淵はあとを追おうとした。二歩進んだ所で、白い前掛けの老人がこちらを向いた。指を口へ当て、そのあと田淵の足元を指した。声を出すなと言うのか、来るなと言うのか。田淵が迷っている間に、一団は家と家の隙間へ入り、足音が途切れた。
田淵はその隙間へ手を入れた。爪が壁をかいた。頭も肩も入らなかった。何もない奥から、女が短く息を吸った音がした。田淵は爪を引き、今度は片腕だけを差し込んだ。
「一人にしないでくれ」
壁の向こうで何かが倒れた。田淵は待った。返事がなかったので、しばらくして腕を抜いた。爪の一本に、白い布が引っかかっていた。老人の前掛けだろうかと思ったが、引っ張ると途中から裂けてしまった。
空が明るくなり始めた。人が出てくれば、もうこの道にもいられない。田淵は上着の前を合わせようとした。爪の先で布を探ったが、腹の辺りには何も掛かっていなかった。服は肩に引っかかっているだけだった。諸岡と会ったときには、ちゃんと前を閉じていた。何がどこから変わったのか、昨夜をもう一度たどれば分かるかもしれない。田淵は来た道を戻った。
空き地の周りに人がいた。制服姿の警官と、近所の住人だった。田淵は足を止めた。低いブロック塀の向こうに、諸岡の靴が見えた。その少し手前で、二人の男がしゃがんでいた。一人が立ち上がると、地面に仰向けになった顔が見えた。
自分だった。
少し開いた口の横に、砂がついていた。上着の前は閉じていて、腹の所だけ黒くなっている。昨日の朝、洗面所で整えたはずの髪が、一束だけ立っていた。田淵は塀に手を置こうとしてやめた。まだ爪があった。向こうで寝ている方の手には、普通の短い爪がついていた。作業で傷めた右の親指の付け根も、いつもの形だった。
呼んでくれればいい、と田淵は思った。名前を呼ばれれば返事ができる。ところが警官は、そちらはまだ触らないで、と隣の男へ言っただけだった。誰も田淵を呼ばなかった。塀の陰で待つ間に、人が増えた。やがて自分の顔へ白い物が掛けられ、男たちが体の下へ担架を入れた。
田淵は塀を越えた。自分の体を運ばれては困ると思った。あれへ戻れれば、上着の穴を押さえて、人のいる所へ出ていける。斎場の裏でも、あの大きな手さえなければ入れてもらえたはずだった。風で白い覆いの端がめくれ、顔が半分出た。田淵はしゃがみ、空いている自分の口へ指を差し入れようとした。爪の幅だけで、口より大きかった。頬を押すと、砂に汚れた人間の顔が横へ向いた。
運んでいた男が、手を止めた。相手へ何か言いながら、顔を近づけてくる。田淵はその顔を見た。唇が動き、目が明るい方を見て細くなった。首筋には汗が浮いていた。田淵は自分の体から指を離した。白い覆いをつかんで持ち上げ、立っている男の顔へ、そっと掛けた。


コメント