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見本の手

手袋の見本帳には、手首から先だけの写真が載っていた。
指を伸ばしたもの、少し曲げたもの、バッグの持ち手に添えたもの。私は入社した頃、同じ人の手だと思っていた。店長に訊くと、分からないね、と言われた。見本帳を作った会社は、とうに廃業しているそうだった。

駅ビルの隅にある、礼装用の小物を扱う店だった。靴や鞄ほど売れるものではない。式の日取りを聞き、服の色を聞いて、手袋や扇子を出す。売れない日にもお客様は来る。十年使って黄ばんだものを持ち込み、同じ品がないかと訊く。私はそういう応対が好きだった。物を長く使う人に、新しいものを渡せる仕事だと思っていた。

小谷野さんは、三月の木曜日に来た。五十代くらいで、灰色の上着の袖から指先だけを出していた。息子の結婚式に使う、飾りのない白い手袋を探しているという。
「右と左で、大きさが違うんです」
そう言って、カウンターへ左手を置いた。小指の付け根から手首にかけて、つれたような傷があった。右手より薄く、指も曲がっていた。
私は大きいほうへ合わせれば、と言いかけてやめた。小谷野さんは何軒も回った後のようだった。

店長は奥で入荷品を確認していた。私は店頭の白を三つ出し、片方ずつ試してもらった。左の薬指だけが奥まで入らず、布が余る。小谷野さんは何度か引っ張ったあと、申し訳なさそうに脱いだ。
「このまま行けばいいと思うんですけどね。写真を撮る時、手を気にするのも嫌で」
私は見本帳を開いた。絶版の品ばかりだが、形を説明するには便利だった。甲に縫い目のない、短い手袋の写真があった。
「こういうのなら、指が少し曲がっても分からないと思います」

小谷野さんは写真を長く見た。
「きれいな手ですね」
「ええ。手袋が映える手で」
余計なことを言った、とすぐに思った。彼女は左手を袖へ入れた。私もページを閉じようとしたが、その時、小谷野さんが右手で押さえた。
「これ、ありますか」
店長を呼ぶと、写真を一目見て、ありますよ、と言った。

奥から出した箱は、新しい商品と同じ、白い無地のものだった。中の手袋は写真より柔らかく見えた。店長は私に任せ、電話に出た。小谷野さんはまず左手へ通した。さっきまで余っていた薬指が、すっと先まで入った。
「痛くありませんか」
「何も」
彼女は指を曲げたり伸ばしたりした。手首の骨が布の下で動く。私は、よく似合います、と言った。

小谷野さんは買わなかった。箱に戻したものを、週末まで取り置きしてほしいと言った。店を出る前に、左手の袖をまくって見ていた。私は傷のことを尋ねず、見本帳に付箋を貼った。

翌日、彼女から電話が来た。
「昨日の、もう一度はめさせてもらえますか」
来店した小谷野さんの左手は、赤く腫れていた。写真を撮って家で服と合わせようとしたのだと言ったが、携帯を出さなかった。私は無理にはめないほうが、と勧めた。彼女は、はめている時には痛くないから、と返した。
白い布へ指が入ると、腫れは目立たなくなった。私は安心した。小谷野さんが、自分の左手を他人の落とし物のように持ち上げた時も、合う商品が見つかってよかったと思っていた。

「私、こんなふうには曲がらないんです」
彼女は手袋の小指だけを伸ばした。薬指は曲げたままだった。
「リハビリで、ずっとやったんですけど」
私は試しに同じ動きをした。自分の指だって、そう簡単には分けられない。
小谷野さんは、これ誰の手ですか、と小声で訊いた。

店長は、その話を聞くと私を休憩へ行かせた。奥の椅子に座って弁当を開いたが、味がしなかった。売場からは普通の声が聞こえた。急いで決めるものではない、と店長が言い、小谷野さんが礼を言う。帰り際、彼女の左手はまた袖に隠れていた。

「あの品、どこで作ってるんですか」
戻って訊くと、店長は見本帳を片付けながら、昔からある物だよ、と答えた。
「注文番号を見たいんです。取り寄せられるなら、他の人にも」
「それはしなくていい」
怒った口調ではなかった。棚板の埃を拭く時に、下の引き出しは開けなくていい、と言うのと同じだった。

土曜日、小谷野さんは息子を連れて来た。彼は三十歳くらいで、仕事の途中らしく大きな鞄を持っていた。
「本人が嫌なら、なしでいいんです」
私たちに向かって、息子は先にそう言った。小谷野さんは、分かってる、と少し強く返した。指の傷は子供の頃からあるものらしく、息子にとっては、母親の手はずっとあの形だった。

箱を開けると、手袋の左右が揃っていなかった。片方だけが人の手を入れたように膨らんでいた。私は指で甲を押した。柔らかかった。布だけを押したつもりなのに、爪の先で皮膚を突かれたような痛みが、自分の左手に走った。
「どうしました」
小谷野さんに訊かれ、形を整えていました、と答えた。
私はそのまま、手袋の中へ自分の手を入れた。変な物を触ったと認めたくなかった。店員が平気ではめてみせれば、彼女も安心すると思った。

指先が冷たかった。店内の音が、急に耳元で大きくなった。息子の鞄の金具がカウンターへ当たる音、店長の咳、外を通る子供の靴音。私の手は見本帳の写真と同じ角度で、カウンターの上へ置かれた。置こうと思って置いたのか、あとから分からなくなった。

小谷野さんが私の袖を掴んだ。
「もういいです。脱いで」
「ちょうどいい大きさですね」
自分で言って、驚いた。何の返事にもなっていなかった。彼女が手袋の端を引いたが、私の腕がそのままついていった。痛みはなく、白い指先もきれいだった。小谷野さんは泣きそうな顔で息子を見た。

息子は私の手を見なかった。
「母に売るのは、やめてください」
店長へそう言った。母親の肩へ手を置き、帰ろう、と促した。小谷野さんはまだ私の袖を掴んでいた。私は手を振るつもりで、指を少し曲げた。
彼女が手を離した。あ、と短く息を漏らした。
「その曲げ方」
それから左手を出した。布に隠れていない、傷のある指だった。私の白い小指は、その手と同じ角度まで曲がっていた。

私は店長を呼んだ。声は出たし、歩けた。右手で端を持って脱ぐと、手袋は普通に抜けた。店長は私の左手を一度だけ見て、冷やしておいで、と言った。白い布の中には何もなかった。小谷野さん親子は、いつの間にか店の外へ出ていた。通路の椅子に並んで座り、息子が母親の手を両手で包んでいた。

洗面所で水をかけると、手は普通の形に戻った。私は手袋を間違えて小さいものから試していたのでは、と考えた。指が痺れるほど締めつけられれば、奇妙な感じ方もするだろう。売場へ戻って、今日は早く帰りたいと言った。
店長は、いいよ、と言った。

ただ、私は左手をカウンターから離せなかった。鞄を取って帰り支度を済ませたのに、木の上に添えた手を引くことだけができない。右手を重ねて持ち上げると、肩まで一緒に下がった。甲に力を入れる感じが思い出せなかった。店長は閉店の札を出し、商品のカバーを掛けていた。

「一晩、様子を見よう」
私の手にも、薄い白布を掛けた。
暗くなった駅ビルで、私はカウンターの前に立っていた。右手で何度も電話した。電話の向こうでは家族が心配していた。住所を言おうとすると、店の名は出てくるのに、階が分からなくなった。昔からそこにいたように思えた。足が疲れ、何度も眠りかけた。左手だけはずっと涼しかった。

父が来たのは、ビルの警備員が通用口を開けてくれたあとだった。電話を繋いだまま、目の前を通った。私は右手で父の袖へ触れた。父は立ち止まり、カウンターへ掛かった布を少し持ち上げた。
「いないよ。店の中なんだろう」
電話からも、同じ声がした。私は父の指を握ろうとした。父は、商品を触ってしまった、と警備員へ謝った。布が私の左手に戻された。私は父を呼んだ。閉める時間なので、と警備員が言うまで、父は同じ所を何度も歩いた。

翌朝、店長が布を取った。通路を通る客は、私の顔を見なかった。白い手袋はしていない。それでも左手のあたりで足を止め、きれい、と言った。
昼前、小谷野さんが一人で来た。手には何もはめていなかった。私の前へ立つと、名前を呼んだ。名札を読んだのだと思う。
「こちらを向けますか」
私は顔を上げた。彼女はほっとしたように笑い、店長のほうへ向き直った。

「昨日の方を、帰してあげてください」
店長は困った顔をした。
「もう品出しが済んでますので」
小谷野さんが息を吸った。言い返してくれると、私は思った。彼女は長く私を見ていたが、やがて見本帳へ目を落とした。
「この手、いくらですか」
私の指が、カウンターの上で綺麗に揃った。

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