初日の昼公演で、僕がまだ口を開いていないのに、前列の女が笑った。
「ここ。ここで謝るの」
隣にいた男の袖を引っ張り、女はそう言った。舞台からは客の顔がよく見えない。それでも、僕を指さした爪が赤かったのは覚えている。
地方の小劇場で、三日間だけの公演だった。僕は病気で降りた俳優の代役で、五日前に台本を渡された。役は、別れた恋人を公園へ呼び出し、昔借りた金を返そうとする男。肝心なところで金が足りず、謝る。大げさな話ではないが、その謝り方で笑いを取るのが難しかった。
前列の女は公開稽古でも見たのだろうと思った。頭を下げて、台詞を言う。
「すみません。僕は、あなたが待っているとは思わなかった」
金を返すために自分で呼び出したくせに、それはないだろう、と相手役が呆れる。そこで笑いが起こるはずだった。ところが客は僕の謝罪だけで笑った。相手役の返しが聞こえないくらい、長く。
袖へ戻ると、秦が水を渡してくれた。
「知らない客だよな」
「俺の知り合いは夜」
「台詞、一か所変えた?」
秦は昔、僕と二人で芝居をしていた。十年前に役者を辞め、今はこの町で看板を作っている。今回は人手が足りないと聞き、舞台袖の手伝いに来た。僕が台本を開いて見せると、首を傾げた。
「そこ、さっきは『待たせていたとは』って言ったよ」
僕が覚えたのは、確かに「待っているとは」だった。
夜も同じところで笑いが起きた。今度は謝罪の途中から、何人かが一緒に言った。客席を知っている秦に目を向けたが、彼は袖で小さく首を振っていた。舞台へ視線を戻した時、相手役の美香が、僕の靴を見ていることに気づいた。次の台詞を忘れたのかと思い、上着のポケットに手を入れる動きを大きくした。美香は遅れて顔を上げ、普通に続けた。
終演後、美香が訊いた。
「前から、あんなふうに足を揃えた?」
「謝る時?」
「うん。右の靴で左の踵を押さえてた」
僕にそんな癖はない。秦ならする。緊張すると、片方の靴をもう片方で踏んでしまう。昔は二人で同じ役を交互にやることもあったから、無意識に真似が出たのかもしれなかった。
「秦さんの代わりに出てるみたいだった」
美香にそう言われて、気まずい笑い方をした。
片付けが終わり、秦と二人になった。彼は客席の椅子に腰を下ろし、靴底に貼りついた紙テープを剥がしていた。
「舞台、またやれば」
僕が言うと、手を止めた。
「見るのと出るのは違うから」
昔の僕なら、その返事に腹を立てたと思う。今は分かった気になっていた。僕だって普段は別の仕事をしているし、台詞を覚えるために夜を削るのは、以前ほど楽しくない。
「代役、最初はお前に頼む話もあったらしいよ」
秦は、へえ、とだけ言った。
二日目の朝、妹から電話があった。前日の公演を配信で見たのだという。家族に役者らしい感想を言われるのは苦手で、僕は先に洗濯物の話をした。妹に預けた上着を、来週取りに行くと約束していた。
「うん。分かった。もう言わなくていいよ」
妹はそう言った。
「何を」
「謝るやつ。舞台と同じ声で言うから、変だよ」
僕は電話の記録を見た。通話は二分。洗濯物の話をしたつもりで、実際には何を言ったのか。寝不足だからだと思い、昼まで余計な話をしないことにした。劇場へ行く途中、コンビニで温めを断った時、店員が妙な顔をした。レジの前で頭を下げている自分に気づいた。右足で左の踵を踏んでいた。
秦には、舞台袖で話した。
「俺、さっきコンビニで変なこと言ってなかったかな」
「知らないよ。一緒に行ってない」
「そうなんだけど」
自分でも要領を得ない。昨夜の配信を再生すると、僕は台本どおりの台詞を言っていた。秦が違って聞いたという箇所も、合っている。ただ、謝る直前に、客席から僕の声がした。音が二重になっていた。配信機材の不具合だろう、と音響担当は言った。
その日の昼公演は、出るのが怖かった。美香を困らせたくなくて、袖で台詞を一つずつ確かめた。秦が相手をしてくれたが、謝るところまで来ると手を上げた。
「そこはいい」
「一回だけ」
「もう聞こえた」
舞台では、誰も笑わなかった。僕が謝るより少し早く、客席のあちこちで人が口を動かした。皆、台詞を知っている。その後、美香が僕の肩に触れる場面で、僕は予定にないことを言った。
「そこにいるの、秦だよな」
自分の耳には、そう聞こえた。
客がどっと笑った。美香は僕の顔を見たまま、次の台詞を言った。あとで訊くと、僕はいつもどおり謝っていたらしい。
夜の回を休ませてほしいと頼んだ。理由をうまく説明できず、体調が悪いと言った。演出家は、熱がないなら舞台だけ出てくれないかと、困った顔をした。秦は何も言わず、僕の衣装を畳んでいた。
「お前だったら出るだろ」
つい、そう訊いた。
「今の俺は出ない」
畳んだ袖の長さを揃えながら、秦は答えた。それで僕は、十年前の続きを彼にやらせようとしていたのだと気づいた。自分が出るかどうかも決められず、辞めた人の根性を借りたかった。
それでも夜は出た。公園のベンチの下に、秦の靴が見えたからだ。衣装の靴でも、今日履いてきた靴でもない。昔、二人で何度も直して使った、踵の潰れた黒い靴だった。ベンチには誰も座っていなかった。靴の内側が、人の体重で少し沈んでいた。
僕はそこで芝居を止めたつもりだった。
「すみません。今日は続けられません」
頭を下げると、客が笑った。
美香が僕の腕を掴み、台詞にない言葉で名前を呼んだ。その声は聞こえた。客席にも聞こえたはずなのに、誰も気にしなかった。僕が何を言っても、美香がどう答えても、劇は進んでいく。笑うところで笑い、息を止めるところで客は黙る。僕は立ったまま、最後まで台詞を思い出せなかった。
暗転してから、秦が迎えに来た。腕を引く彼に、僕は何度も声をかけた。
「俺、今、何て言ってる」
秦は舞台の端で立ち止まった。
「黙ってるよ」
僕は喉を押さえた。声を出せた。少なくとも、自分には聞こえた。秦の看板屋の名前も、十年前に借りたまま返していない工具のことも言った。彼は僕の口を見つめていた。舞台では、誰もいないベンチに向かって、美香の芝居だけが続いていた。彼女はまだ終わっていないらしかった。
翌日の二公演は中止になった。僕は病院で診察を受けた。簡単な質問には答えられたし、医師にも声は聞こえた。秦が付き添いで横にいると、彼に話す時だけ声が出なくなる、と医師は記録した。僕にはその逆に思えた。名前と生年月日なら、何度でも同じように言える。秦には、今ここで初めて言うことがあった。
劇場へ荷物を取りに戻った。客席には、昼公演を見る予定だった人が一人だけ座っていた。遠くから来て、中止を知らなかった女だった。受付の人が返金に手間取っている間、劇場の中で待たせていた。
女は僕を見ると、嬉しそうに手を合わせた。
「少しだけでも」
僕は断るために頭を下げた。その瞬間、秦が僕と客の間に立った。
「やらなくていい」
そう言って、彼は僕のバッグを持った。僕はその手から持ち手を取り返そうとして、袖の机にあった缶コーヒーを倒した。秦のズボンに茶色い染みが広がった。小さな失敗がありがたかった。怪しいことなど何もない、ただの失敗だった。
ごめん、と言った。
秦がこちらを見た。僕はもう一度言った。彼は僕の唇から視線を外さず、ずいぶん長く待っていた。
客席の女が、待ちきれなくなったように笑った。閉じた舞台の幕の向こうから、僕の謝る声がした。滑舌がよく、聞き慣れた、舞台の声だった。
秦は濡れたズボンを拭きながら、僕の返事を待っていた。
僕は口を開けたまま、舞台の声が終わるのを待った。


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