川向こうでは、最後まで拍手が止まらなかった。
打ち上げが中止になった後も、照明が点いて人が帰り始めた後も、土手の暗がりから、ぱちぱちと小さな音が聞こえていた。
その年、俺は花火大会の警備の仕事に入っていた。警備といっても、日雇いの誘導員だ。立入禁止のロープの前に立ち、トイレはどこかと聞かれれば教える。火を使う場所や、混雑する橋の担当は慣れた人が受け持った。俺の持ち場は、会場の対岸だった。
観客席のある側より低い土手で、昔の船着き場へ続く坂があった。川幅は百メートルくらい。向こうの屋台の灯りが、細長く水面へ映っていた。隣に立っていたのは、年配の安部さんだった。よく喋る人で、ここで生まれて、ここで仕事をして、会社を畳んでから警備に入ったのだと言った。俺が県外の出身だと知ると、向こうの山の形や、昔あった橋のことまで教えてくれた。
「こっちのほうが、花火は綺麗なんだよ」
客に聞こえないような声で言った。安部さんの言う通りだった。会場の放送が川を渡ると少し遅れ、花火の光と音の間に、ゆっくりした間ができた。人も少なく、子供が前を横切るのを止めるくらいで仕事は済んだ。
異変に気づいたのは、最初の大きな連発の時だった。赤い花火が開くと、川に魚の影が見えた。鯉くらいの大きさだった。背中を曲げ、水の中を泳いでいた。夜の川に魚の影が見えるのは、おかしい。魚そのものに光が当たっているなら分かる。だが黒い影だけが、赤く照らされた川底のない場所を横切った。
次の緑の花火では、二匹になった。安部さんに話すと、黙って川を見た。三発目が開いた。魚がいなかった。代わりに、人の影が一つ、川の真ん中で回っていた。腕が長かった。両腕を伸ばして回るので、水の上を大きな黒い棒が渡るように見えた。足は二本あった。頭は見えなかった。
安部さんが、俺の腕を掴んだ。
「水際へ行くな」
俺は頷いた。安部さんは無線で責任者を呼び、水面に妙なものがあると伝えた。流木ですか、と聞かれ、少し間を置いて、人かもしれない、と答えた。その言葉で、俺も仕事の顔に戻れた。人なら、救助を呼ばなければならない。
俺はロープを少し後ろへ引き、土手の下へ客が下りないようにした。子供を抱いた父親が、何か落ちたんですか、と聞いた。確認中です、と答えた。
次の花火が開いた時、船着き場に男がいた。古い木の柱の上に座り、こちらへ手を振っていた。濡れていなかった。紺の半袖シャツに白いズボン。足を川へ垂らし、気持ちよさそうに身体を揺らしていた。安部さんが名前を呼んだ。藤木、と聞こえた。
男は安部さんへ手を上げた。近くの客も、その男を見ていた。
「藤木さんじゃない?」
年配の女が言った。別の女も、あら、ほんと、と返した。俺には普通の人に見えた。危ない場所にはいたが、酔って涼んでいるようにも見えた。安部さんは顔を伏せた。
「あいつ、去年死んだんだ」
声が掠れていた。女たちは騒がなかった。手を振り返す人までいた。ここで長く暮らした人が、好きだった花火を見に来た。そんなふうに受け取っているのが分かった。俺は少しだけ、肩の力が抜けた。だが安部さんは、俺の腕を離さなかった。
「おかしい」
「何がですか」
「あいつ、足を悪くしてた。あんなふうには座れん」
男の脚は、木の柱の両側へ大きく開いていた。膝が、横に曲がっていた。その膝の間から、もう一本、細い腕が出た。俺は女たちを後ろへ下げた。
「お下がりください」
男は笑っていた。
花火が開くたび、顔が明るくなった。暗い時には見えなかった腕が、光の下で何本も増えた。男の後ろの水面で、魚が跳ねた。影だけだった。黒い影が、水面から離れて空中へ上がった。胴の下には、釣り糸のように細い足が何十本もぶら下がっていた。
船着き場の男が、その一本を掴んだ。手を振っていたのではなかった。上にいる何かへ、届こうとしていた。
無線から声がした。対岸でも人影を見たという連絡が入っている。水難事故の確認が取れるまで、近づけないでほしい。俺は、もう事故ではありません、と言いかけた。それより先に、花火の音がした。今までで一番明るい花火だった。対岸の観客の顔が、一人ずつ見えるほどだった。
全員、川を見ていた。空ではなかった。大勢の首が前へ曲がり、手が同じ高さで動いていた。花火の下で、拍手をしていた。
俺の後ろでも拍手が始まった。振り向くと、年配の女たちが手を叩いていた。子供を抱いた父親も、片手で自分の胸を叩いていた。抱かれた子供だけが泣いていた。安部さんが俺の耳を両手で塞いだ。彼自身も、口を開けて何かを叫んでいた。
聞こえなくなると、身体が少し楽になった。胸の中が、さっきまで花火の音とは違う速さで震えていたことに気づいた。
川の真ん中の人影が、回っていた。腕を振るたび、左右の土手から拍手が返った。水の上の魚は、ゆっくり岸へ寄っていた。一匹が、船着き場を越えた。黒い腹が、ロープの向こうへ伸びた。腹の中に、人の顔が幾つも見えた。安部さんが藤木と呼んだ男の顔もあった。
目を閉じ、口を丸く開けていた。俺は安部さんの手を片方外し、耳へ自分の肩を押しつけた。空いた手で、泣いている子供の父親を引いた。父親は動かなかった。子供が俺に手を伸ばした。俺は父親の腕から子供を受け取った。急に子供が軽くなり、驚いた父親がこちらを見た。
「戻りますよ」
俺が顔の前で言うと、父親は頷いた。その間に、安部さんは近くの女を一人ずつ土手の上へ押していた。拍手を止めた人から、足が動いた。理由は分からなかった。俺たちは一人ずつ肩を叩き、目を合わせた。名前を知らないので、お母さん、とか、帽子の方、とか呼んだ。
花火はまだ続いた。そのたびに、戻りかけた人が川を向いた。放送で中止を告げてくれ、と安部さんが無線に怒鳴った。相手の声が聞き取れなかったらしく、彼は機械を耳に押しつけたまま走った。俺は子供を父親へ返し、最後に残った老女を支えた。
老女は川を指していた。
「あそこに、主人が」
魚の影が土手へ乗り上げていた。黒い腹の中に、老人が座っていた。整った灰色の髪で、膝に手を置いていた。先ほど柱にいた男とは違う人だった。老女はその顔を見ていた。俺は、偽物です、と言えなかった。知らない人の夫の顔を、俺が否定することはできなかった。
「ここへ呼んでください」
老女は俺を見た。
「危ないから。向こうから来てもらいましょう」
老女は川へ声を掛けた。あなた、こっち、と言った。老人が立ち上がった。腹の内側から立ったのに、頭が黒い影を突き抜けた。頭の下に、胴体がなかった。
細い脚が何本も束になり、服の形を作っていた。灰色の髪は、一匹ずつの小さな魚だった。老女が膝から崩れた。俺はその身体を抱えた。ようやく会場の照明が点いた。白い光の中で、川は普通の川になった。影も、人も、船着き場の上の姿も消えた。
老女を土手の上まで運んだ時には、腕の感覚がなくなっていた。安部さんはロープのそばに座っていた。両手から血が出ていた。爪が何枚か割れていた。
「叩いてた」
彼は自分の掌を見た。
「俺も途中で、叩いてたんだ」
中止の放送が流れた。
人々は文句を言いながら帰り始めた。泣いている子供が何人もいた。川にいた人影を、幽霊だと話す客もいれば、花火の仕掛けだと思っている客もいた。川向こうから拍手が聞こえていた。会場の観客がいなくなっても止まらなかった。俺たちは夜明けまで持ち場を離れられなかった。水難事故の通報が相次ぎ、救助の確認が終わらなかったためだ。
見つかった人は、いなかった。対岸の土手に並べた折り畳み椅子のうち、川に近い一列だけ、脚が地面へ深く入っていた。椅子は空だった。座面には、濡れた髪の毛のようなものが絡んでいた。係の人が取ろうとすると、それは水へ落ち、細い魚になって泳いだ。
翌年、その場所で花火大会は開かれなかった。資金や警備の都合だと聞いた。俺はもう別の仕事をしていたので、詳しいことは知らない。安部さんとは、一度だけ飯を食べた。川に出た友人の話はしなかった。彼も俺も、あの夜、自分の手が勝手に動いた時のことを、喋りたくなかった。
帰りに駅前を通ると、小さな催しをやっていた。歌い終わった人へ、客が拍手をした。安部さんの手が、胸の前へ上がった。俺が見ると、彼は苦笑いした。
「癖だよ」
両手をポケットへ入れた。俺もそうした。駅の窓に、二人の姿が映っていた。肩を並べて歩いているのに、ガラスの中では、俺たちの間にもう一人立てるだけの隙間があった。
そこを見続ける勇気はなかった。
安部さんが前を向いたまま、飯、また食おうな、と言った。俺は返事をして、彼と同じ速さで歩いた。


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