餅が飛び始めた時、私は豆腐を抱えていた。
広場の端を通れば商店街へ抜けられるつもりだったのに、会館の前には人が集まっていた。入口の庇に紅白の幕が掛かり、その上で法被姿の男たちが木箱を囲んでいる。向こう側へ出るには、人垣の後ろを大きく回る必要があった。
「お姉さん、もう始まるから、ここで待った方がいいよ」
隣にいた女の人が言った。私より少し年上だろうか。半袖のシャツの裾をズボンに入れ、小さな巾着を斜めに掛けていた。手には何も持っていなかった。
「今日だったんですね」
「私も知らなかった。袋がないから、取れても困るんだけど」
言いながら、もう庇の上を見ていた。
買物袋には、豆腐のほかに卵と葱が入っていた。餅を投げる場所だと知っていれば、違う道を通ったと思う。けれどその人は、一つくらい取れるかな、と笑った。私は豆腐の上に載せてあった空の小袋を取り出した。魚屋でもらい、使わなかった袋だった。
「これ、使います?」
「助かる。半分ずつにしよう」
まだ一つも取っていないうちから取り分が決まり、私も袋の片方を持った。
正面にいた男の人が背伸びをしたので、庇の上が見えなくなった。その肩越しに、袋詰めの白い餅が二つ飛んできた。女の人は私の前へ腕を出し、一つを両手で受けた。もう一つは足元へ落ちた。私は買物袋を膝で挟んで拾った。土のつかないよう、一つずつ透明な袋に入れてあった。
「ほら、もう二つ」
女の人が魚屋の袋を広げた。赤い餅は母親の好物なのだという。近くの団地に住んでいて、寄る途中だった。
庇の男たちは、投げる前に腕を大きく振った。前へばかり行くと後ろから文句が出て、次には遠くまで届いた。笑い声があちこちで上がった。私の後ろでも、こっちへ、と呼ぶ人がいた。女の人は餅の数を確かめ、私は豆腐の容器の角から水が漏れていないか気にしていた。
前の男が、なかなか踵を下ろさなかった。薄茶色の靴の後ろが、指二本ほど浮いていた。足の甲はまっすぐで、爪先立ちにしては窮屈そうな形だった。それでも餅は続けて飛んできたので、私はその背中から空へ目を戻した。
赤い餅が高く上がった。
「あれ、お母さんの」
女の人が言って、私の持つ袋を放した。餅は頭よりずっと高い所を通った。前の男が手を伸ばし、その両側でも手が上がった。女の人は取れずに私を振り返ったが、さっきと顔の高さが違っていた。
女の人の背後で、人の頭が横一列に上がった。私の前を塞いでいた男の肩が、額の高さまで来ている。地面を見ると、男の靴は両方とも宙にあった。足の下を、落ちた白い餅が滑った。男は膝を少し曲げた。跳んでいる人が着地を待つ時の、当たり前の動きだった。
下りてこなかった。
「ちょっと」
女の人が私の肘をつかんだ。驚くほど指に力が入っていた。私は袋を落としそうになり、買物袋と一緒に片手へ持ち直した。女の人は片足を下へ伸ばし、靴底で何かを探っていた。その下には、何もなかった。
「下、どこ?」
私は返事をせず、女の人の手首を持った。人に押されて、縁石にでも乗ったのだと思いたかった。足元の平らな砂利には、履いているのと同じ靴底の跡が二つ並んでいた。
もう一度、餅が飛んだ。
前の男の靴が私の膝まで上がった。女の人につかまれた肘も上がり、私は肩を引かれた。女の人は餅を見ていなかった。私の腕へ両手でしがみつき、下を向いていた。口を開けていたが、その時は周囲の叫ぶ声が重なり、何と言ったのか聞き取れなかった。
「投げないで!」
近くの誰かが叫んだ。私も庇へ向かって同じことを言った。男の一人が、上げた腕を止めた。もう一人の手から離れた餅は、人垣の向こうへ落ちた。人の間を押し分けて逃げる人がいた。動けない人もいた。前の男は誰かの頭に靴が当たるのを避けるように、足を縮めていた。
私は買物を地面に置き、女の人の腰へ腕を回した。引けば下ろせると思った。体が私の方へ傾き、シャツの裾がずり上がった。腰の重さは、ほとんど感じなかった。なのに、それ以上は下りなかった。私が膝を曲げると、女の人も腰を折ってついてくる。お腹が私の肩に載り、靴だけが後ろへ上がった。
「痛い、そこ、痛い」
腕を緩めた。巾着の金具が脇腹に当たっていた。女の人は金具を避けるために体を捻り、私から離れた。両膝を抱えるような姿になったが、頭も足も地面へ落ちなかった。手を伸ばせば、まだ肩に触れられる高さだった。
前の男の周りに、三人ほど集まっていた。一人は男の足首を持ち、二人は腰の帯を引いていた。男の上半身が横へ倒れた。足を持っていた人が手を離すと、靴が円を描いて上へ回った。男は腹を下にして浮いた。引いている人たちの足は、砂利の上を滑っていた。男を横へ動かすことはできるのに、下へは動かせないようだった。
「そんな引っ張ったら、腰が」
男が言い、二人が手を緩めた。男は斜めになったまま、両手を前へ突き出した。近くの人が手を取った。握手をしているような格好だった。ただ、その手は人の頭より高かった。
女の人は私の肩に指を掛け、ゆっくり体を起こした。
「私、靴、脱いでみる」
私は片方の踵を押さえた。女の人が足を抜くと、靴は普通に私の手へ落ちた。もう片方も同じだった。裸足になった女の人は、足の指をいっぱいに開いた。左右の足を交互に下へ突き出す。私の膝の横で、白い足が二つ、どこにも触れずに動いた。
「何か持ってくる。椅子とか」
私が言うと、女の人は肩の指を強くした。
「行かないで」
私は会館の入口へ顔を向け、椅子をください、と叫んだ。法被の男がこちらを見て、折り畳み椅子を一脚運んできた。餅を入れていた箱の蓋が通路に落ちていて、男はそれを蹴ってどけた。
椅子を女の人の下へ置いた。座面はまだ足に届かなかった。女の人はしゃがむように体を丸め、椅子へお尻を載せようとした。座れる高さにまで近づくのに、最後のわずかな隙間が埋まらない。椅子の座面が女の人の尻に押されて沈むこともなかった。
「もっと高いの、ない?」
私が訊くと、男は会館へ戻った。女の人は椅子の背を両手で持っていた。椅子が片脚だけ浮いたので、私は反対側の脚を靴で押さえた。
広場が急に広く見えた。人垣がほどけ、地面には餅がたくさん落ちていた。宙にいる人たちの下だけ、人が集まっていた。何人いるのか数えようとして、やめた。私が今まで頭の隙間だと思って見ていた所にも、誰かの足があった。
建物に近い二人は、庇の縁まで上がっていた。幕をつかんだ男に、上の法被の人が腹ばいになって手を伸ばしている。幕は金具の一つから外れ、斜めに垂れた。それを見て、下の人たちが一斉に動いた。落ちてくると思ったのだ。男は落ちなかった。赤と白の布だけが、靴の脇を通って地面へ降りた。
椅子を踏んでいる足が、押し返された。
振り返ると、椅子の背を持ったまま、私より高い所へ上がっていた。私は椅子を押さえている足に力を入れた。背もたれの金属が女の人の指の間から滑り、椅子が地面で鳴った。女の人が私へ手を伸ばした。手首はつかめたが、頭の上まで腕を伸ばさなければならなかった。
餅はもう飛んでいなかった。木箱は庇の上に置かれ、男たちは縁へ這っていた。投げるのをやめれば終わるのだと、私はどこかで思っていた。女の人の足首に手を伸ばすと、さっき脱がせた靴の跡が赤く残っていた。そこを見ている間にも、爪先が少しずつ遠くなった。
「腕、離して。足を持って」
女の人が言った。私は言われた通り、足首を抱えた。女の人の体が横へ傾いた。私はそれを元へ戻そうとしたが、何を押しているのか分からなくなった。つかんだ足は温かかった。汗で滑った。人の足なのに、私が両腕で抱えても、その体重が腕へ掛かってこなかった。
法被の男が二人で長い机を運んできた。椅子を脇へ退け、女の人の下へ差し込んだ。私一人が手を離せずにいるのを見て、男の一人が足を持ち替わってくれた。私は机へ上がった。台所の椅子にも普段は立たないので、足元が怖かった。男に支えてもらい、腰を低くしたまま女の人の両肩をつかんだ。
「真ん中へ寄ってください。倒れますから」
下の男が机の端を叩いた。私は真ん中へ寄った。女の人は私の前で膝を折り、座ろうとした。今度は机の上面が足の裏に当たった。女の人が、ついた、と言った。けれど私が少し体を離すと、その踵がまた浮いた。女の人は慌てて私の首へ両腕を回した。
私は机に座り、女の人の腰を自分の腿へ引き寄せた。抱えているのか、押さえているのか、自分でも分からなかった。女の人は膝を左右に開き、足の指を机の縁へ引っ掛けようとしていた。指が届く場所に足を戻すたび、私の服の襟が首へ食い込んだ。
会館の入口で、電話をしている人がいた。怪我人ではなく、下りてこない人がいるのだと言い直していた。先に通報した人もいるらしく、もう呼んだから、と別の人が言った。電話の人はそれでも切らず、庇の高さを見上げていた。私はそちらを見ていられなかった。女の人の腕が震え始めたからだった。
「少し緩めて。私、ここにいるから」
女の人は頷き、私の襟をつかみ直した。母親に電話をしなければ、と言った。私は巾着の中の携帯を取ろうかと訊いた。女の人は首を振り、今、話したら手を離しちゃいそう、と言った。何をどこまで伝えるつもりだったのかは、訊けなかった。
地面から、靴はこれですか、と声がした。若い男の人が、脱いだ靴を左右揃えていた。女の人が自分のだと答えた。男は机の下へ靴を入れ、置き場を知らせた。それを聞いた女の人が礼を言った。妙にいつもの調子だった。そのあと、私の肩へ額を押しつけて、小さく泣き始めた。
庇の上にいた人が、一人、木箱を空にした。餅がまとめて地面へこぼれたが、拾う人はいなかった。空いた箱を縁へ押し、宙の人の足を載せようとしていた。私は女の人の背を押さえたまま、その手つきを見た。少しでも足を休ませる所が要るということだけは、こちらと同じだった。
やがてサイレンが近くで止まった。広場へ入ってきた人が、空いている場所を指さし、周りの人に下がるよう言った。私は腕を緩めかけたが、女の人が足の指を机の縁に掛け損ね、二人で前へ傾いた。下にいた法被の男が私の背中を支えてくれた。まだ離せなかった。
女の人の向こうで、会館の二階の窓が開いた。中から伸びた腕が、庇の上にいる人を手招きした。それより高い所にも、靴が一つ見えた。もう片方は脱げていた。裸足の爪先が雨樋のすぐ横にあり、壁を下へ探っていた。下がるように足を動かすたび、踵は屋根の方へ上がった。
私は女の人を抱き直した。買った物も、拾った餅も、机の下に置いたままだった。女の人の足の指が、机の縁へ何度も戻ってきた。その先が木に触れる間だけ、私は少し腕を休めた。


コメント