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誕生日を変える

恒川から、ケーキを買ってきてほしいと頼まれた。
駅まで迎えに行けなくなったという電話だった。隣町の店に、小さいものを予約してある。金は着いたら払うという。
「誰の誕生日だよ」
「うちにいる人の」
私は恒川と、二人で飲むつもりでいた。

恒川とは二十代の頃、同じ印刷会社で働いていた。互いに会社を辞めてからも、ときどき会った。両親のいなくなった実家で一人暮らしをしていたはずだが、去年の秋から、人を一人置いているのだという。
「身内じゃないよ。行く所がないっていうから」
電話では、それしか聞かなかった。恒川には、そういうところがあった。人の困ったことを自分の用事にする。こちらが頼む前に手伝ってくれる代わりに、手を引く時機を決めさせてくれない。

玄関を開けたのは、その人だった。
白髪があるのに、顔は若く見えた。私と同じくらいにも、二十歳そこそこにも見える。襟のあるシャツを着て、袖を肘まで捲っていた。
ケーキの箱を見て、困ったように後ろを振り返った。
「ここへ置いていいですか」
私が訊くと、男は恒川を呼んだ。自分に訊かれたのだと分からなかったらしい。

彼は、岸さんと紹介された。
恒川が冷蔵庫を開ける間に、私は、お誕生日だそうですね、と言った。岸さんは、ありがとうございます、と頭を下げた。
「おいくつになられたんですか」
岸さんは口を開いたが、すぐ閉じた。
台所から恒川が、そういうのはいいんだ、と言った。
「飯にしよう。腹が減ったろ」

食卓へ座ると、岸さんの皿だけ、肉が細かく切ってあった。
手を怪我しているのかと思った。左の手首に、紫色の跡があった。岸さんが取り皿をこちらへ渡したとき、右の手首にも同じものが見えた。
恒川は彼の皿に野菜を足し、箸が止まると、冷めるぞ、と促した。
岸さんはよく食べた。嫌々という様子ではなかった。ただ、恒川が席を立つたびに、箸を置いた。

食後、恒川が二階へ上がった。借りていた本を返すから、待っていてくれと言われた。
私が岸さんにビールを勧めると、少しだけ、と小さなグラスを出した。自分から食器棚を開けたのは、それが初めてだった。
「あの、何歳に見えますか」
岸さんはグラスを両手で持って訊いた。
私は迷ってから、四十くらいでしょうか、と答えた。
「そうですか」
嬉しいのか、がっかりしたのか、分からなかった。

「自分では、分からないんです」
岸さんは、誕生日も、ここへ来る前の住まいも、はっきり覚えていないと言った。
恒川が役所へ一緒に行ってくれたこともあるらしい。ただ、今どこまで話が進んでいるか、本人には分からない。
私が、親御さんは、と訊こうとすると、岸さんの顔が横へ動いた。
首を傾げたのではなかった。顎が跳ね、グラスが食卓へ倒れた。
頬に、細長い赤い線が浮いていた。

「大丈夫です」
岸さんは、私が何も言わないうちに言った。
私は立ち、廊下を見た。恒川は二階にいた。足音がした。窓は閉まっていたし、私の横を何かが飛んだ気配もなかった。
岸さんが布巾を取りに立つと、今度は膝が折れた。
腰を曲げたまま、食卓の縁へ両手を置いた。
「見ないでください」
頼まれても、目を逸らせなかった。シャツの腹が、何かで押したように深く窪んでいた。

私は岸さんの脇へ手を入れた。
その瞬間、肘の内側を指で挟まれた。皮膚をつまみ、捻る力だった。腕を振っても離れなかった。
岸さんが、小さく謝った。私に向けてではなかった。
廊下から恒川が来て、彼の背中へ手を置いた。
「もういいだろ。客が来てるんだから」
私の肘から、急に力が抜けた。
岸さんは床へ座り、こぼしたビールを拭き始めた。

恒川は冷蔵庫からケーキを出した。
箱を開き、きれいな包丁を持ってきた。岸さんの皿を先に置いた。
私は、今のは何だ、と訊いた。
「あとにしてくれ」
岸さんの前で訊くことじゃない、と恒川は言った。
岸さんは自分の皿を見ていた。ケーキに手をつけず、フォークの柄だけを指でこすっていた。
私は祝いの言葉を言わなかった。

帰りに、恒川が門まで送ってきた。
私の肘には、指の跡が二つ残っていた。見せると、恒川は自分の袖を捲った。同じ所に、薄茶色になった小さな傷が並んでいた。
「親父が、こういうことをする人でさ」
知っていた。酒を飲むと殴る父親の話は、会社にいた頃にも聞いていた。恒川が実家へ戻ったとき、私は平気なのかと訊いたことがある。
その父親が死んで、もう十五年になるはずだった。

「死んでからも?」
恒川は頷いた。
最初は、座っている背中を突かれるくらいだったという。放っておくと、痛いことをするようになった。
「出ればよかったじゃないか」
「出て、どうするんだよ」
門柱へ蛾が来た。恒川はそれを手で払い、家の方を見た。
岸さんが窓の内側に立っていた。こちらの話を聞こうとしているようだった。
恒川はカーテンを閉める身振りをした。岸さんはすぐ従った。

私は、別の人をここへ置くなよ、と言った。
恒川は顔をしかめた。
「俺が殴ってるわけじゃない」
「そういうことじゃなくて」
「見つけたとき、靴もなかったんだぞ」
岸さんを見つけた場所は、駅の裏の公園だった。雨の中で、濡れていないベンチへ座っていたという。話しかけると、帰りたい、とだけ言った。
「家があるのかと訊いたら、分からないって。どこへ帰すんだ」
恒川は、私が何も答えられないのを待っていた。

「誕生日は、どうして今日なんだ」
訊くと、恒川は門の鍵を指で回した。
「親父の命日だよ」
私は家を見た。
「祝う日があれば、あいつも少しは遠慮するかと思って」
嘘だとは思わなかった。実際、ケーキを出してから、岸さんは叩かれなかった。
ただ、恒川は笑っていた。父親の話をするときの、昔からの笑い方だった。大したことじゃないんだ、と相手へ先に教えるような笑い方だった。

私は翌週、昼間にもう一度訪ねた。
恒川には、先に連絡をしなかった。出直すことになってもよかった。岸さんが戸を開けたので、散歩へ行きませんか、と誘った。
岸さんは靴箱を開け、閉めた。
「靴は?」
「あります」
履いてよいかどうかを迷っているのだと気づいた。
私は玄関の外へ下がり、ここで待っています、と言った。

二人で駅前まで歩いた。
岸さんは靴を引きずらず、私より速いくらいだった。歩きながら、弁当を買える店と、銭湯の場所を訊いた。
喫茶店へ入ると、メニューを長く見た。私は急かさなかった。
恒川の話は、こちらから出さなかった。
コーヒーが来てから、岸さんが、あの家で眠ると顔が痛いんです、と言った。
「起きていると、恒川さんが止めてくれます」

夜中に頬を叩かれて目が覚める。
寝直すと、布団から出した足を踏まれる。声を上げると恒川が来て、もう寝かせてやれ、と誰もいない所へ言う。
それでしばらくは静かになる。
「助かっているんです」
岸さんは言った。
私は、ここでは叩かれませんね、と返した。
岸さんは頬へ触れた。来る途中にも、何もなかった。
「ここで眠ったことはないですから」
私には、その返事がつらかった。

駅前の安い旅館に、空きがあった。
事情を全部話せはしなかった。身分を示す物のことも含め、岸さんと一緒に主人へ相談した。私が代金を払い、連絡先を残した。
岸さんの服を取りに戻ると、恒川が帰っていた。
私は三人で話そうとしたが、恒川は私に外へ出ていろと言った。
岸さんが、ここにいてください、と私の上着を掴んだ。
恒川は口を閉じた。

部屋にあった岸さんの服は、全部、恒川のものだった。
私は空の手提げを広げた。岸さんが下着を二枚入れると、恒川は、足りないだろ、と箪笥を開けた。私には何も言わず、タオルや靴下を岸さんの前へ積んだ。
「宿代がなくなったら戻るんだぞ」
岸さんは返事をしなかった。
「こいつも、ずっとついててはくれないから」
恒川は私を見て言った。

岸さんが手提げを持つと、恒川の顔が左へ弾かれた。
音はしなかった。
下唇が切れ、恒川は指の先で血を拭った。
私は岸さんを後ろへ庇った。だが、岸さんには何も起きなかった。
恒川のシャツの肩が、上から押さえられたように下がった。襟の奥へ、節の太い指が一本見えた。
指は、恒川の首を掴んでいた。
恒川は、それを払いのけなかった。

「ほらな」
恒川が私に言った。
「こうなるんだよ」
何を責められているのか分かって、私は返事ができなかった。岸さんがいなくなれば、恒川だけがあの家へ残る。
恒川は首を掴まれたまま、岸さんへ、忘れ物はないか、と訊いた。
岸さんは目を伏せた。
私は手提げを持ち、先に玄関へ出た。後ろで、岸さんが、ありません、と答えた。

旅館で一週間眠った岸さんの頬は、赤くならなかった。
そのあとも簡単に暮らしが決まったわけではない。私は一度だけ役所へつき合い、それからは連絡を取りながら、できることを手伝った。岸さんは、自分のことは自分へ話してほしい、と窓口で言うようになった。
誕生日を訊かれたときにも、私の方を見なかった。
分かりません、と答え、それは今日決めないといけませんか、と続けた。

冬になる前に、岸さんから食事に誘われた。
小さな食堂で待ち合わせた。シャツの袖は捲っていなかった。私の顔を見ると、今日は自分が払います、と言った。
何か祝い事でもあるのですか、と訊いた。
「誕生日にしようと思って」
その日を選んだ理由は、休みが取れたからだった。
私は、おめでとうございます、と言った。何歳になったのかは訊かなかった。

食べ終わる頃、恒川が店の前へ来た。
岸さんが場所を知らせたのだった。入ってくれればいいのにと私が言うと、岸さんは、呼んでいません、と答えた。礼だけはしたくて、近況を伝えたらしい。
恒川はガラス越しに私たちを見ていた。手に、新しい靴下の袋を持っていた。
頬がひどく腫れていた。
その肩の少し上に、白い爪が並んでいた。

岸さんは席を立たなかった。
恒川が袋を持ち上げると、小さく頭を下げた。それから私へ、もうお茶はいいですか、と訊いた。
私は頷いた。
岸さんは伝票を取った。店の人へ自分で金を渡し、先に戸を開けた。
外で恒川が何かを言った。岸さんは聞き終わるまで待っていたが、靴下を受け取らなかった。
私は二人の横へ出た。恒川の首を掴んでいた手が、少し開いた。白い爪が、岸さんの肩へ向いた。
岸さんは恒川へ、では、と言い、私の返事を待たずに歩き出した。

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