火曜日の池は静かだった。客の持つ餌を目当てに集まるアヒルも、休園日には南側の小屋の陰で寝ていた。由紀は長靴で柵をまたぎ、水に浮いた葉を網ですくった。返事があったのは、二度目に網から水を切ったときだった。
「まだ、こっち」
低い男の声だった。由紀は網を持ったまま顔を上げた。池の縁に、臨時職員の成瀬が立っていた。彼は両手を上げ、自分じゃないという顔をした。その足元で、一羽のアヒルが首を伸ばしていた。
「今の、聞いた?」
由紀が尋ねると、成瀬はうなずいた。あまり驚いていない。由紀が初めてここへ勤めたときも、動物の声は何でも人の言葉に聞こえた。慣れないうちはそんなものだ、と自分に言い聞かせ、残った葉をすくった。
そこは遊園地の端に付属した、小さな動物広場だった。大型の動物はいない。山羊とウサギ、鳥が何種類か。遊園地の閉鎖が決まり、動物も少しずつ移されていた。由紀は引渡しが済むまでの契約だった。成瀬は専門学校へ通いながら、片づけを手伝いに来ていた。
由紀はこの仕事を二十二年していた。人に説明するより先に、手が動く。餌を量り、扉を閉め、足りない物を取りに戻る。成瀬がどうしてその順番なのかと尋ねるたび、自分でも理由を考えなければならなかった。
次の火曜、二人で池の泥をさらった。底は由紀の踝ほどの深さしかない。アヒルは隣の囲いへ移してあった。長いこと水の下にあった砂を返すと、乾いた土のような匂いがした。成瀬が、これ何ですか、と白い欠片を拾った。
貝殻だと思った。だが断面に細い穴がある。由紀は手袋の掌へ載せ、触ってから、袋へ入れておこうと言った。何年も前に運び込んだ砂には、いろいろな物が混じっていた。釘を拾ったこともある。
泥を一輪車へ載せていると、小屋のほうで「はい」と声がした。由紀は名前を呼ばれたつもりで振り返った。誰も呼んでいない。成瀬は遠くでホースを巻いていた。囲いのアヒルが一斉に首を振った。
「はい、分かりました」
今度は女の声だった。由紀より少し高いが、聞いたことがある。どこで聞いたか考える間もなく、囲いの戸が内側から押された。嘴は届いていない。細い指の影が、網目に五本掛かっていた。
由紀は近づかなかった。成瀬を呼び、外側から掛け金を確認してもらった。七羽とも中にいた。成瀬が戸へ触れると、アヒルが普通に鳴いた。指の影は、網目が地面へ落とした影に紛れて消えていた。
翌日、係の獣医が来た。袋の欠片を見てもらうと、骨かもしれないと言ったが、何の骨かは分からなかった。由紀は池の改修時の話をした。古い小屋を壊したとき、そこの砂を一緒に使った記憶がある。
古い小屋は、由紀が入る前に死んだ動物を埋めていた場所の近くにあった。由紀は詳しく知らない。当時の責任者に言われ、積まれた砂を運んだだけだった。獣医は残りを別の容器に分けるよう言った。由紀はうなずき、袋へ日付を書いた。
その日の昼、由紀の契約終了日が早まると連絡が来た。動物の移動が済めば作業も減る、という説明だった。電話で由紀は、はい、分かりました、と答えた。答えてから、昨日の池の声と同じだったことに気づいた。
声の高くなる場所まで同じだった。成瀬に話そうとして、やめた。仕事が終わると聞かされて動揺した人の話になる。由紀は弁当を半分残し、午後の見回りへ出た。アヒルの囲いに、空の餌桶が一つ増えていた。
毎朝、由紀が重ねて持っていく桶だった。欠けた縁には自分で緑の印を付けていた。倉庫で数えると、そこにも同じ桶があった。成瀬は手が滑って水をこぼした。ひどく小さな声で、持っていってません、と言った。
由紀は池の桶を洗った。内側に泥が付いていた。水を流すと、泥の下から短い毛が出た。白も黒も茶色も混じっている。桶を傾けたとき、底で一度だけ爪の音がした。成瀬が急に、洗うのをやめてください、と言った。
「流れます」
「泥でしょう」
成瀬は首を振った。排水の溝を見ていた。濁った水が流れる先で、浅い影が壁へぶつかっていた。四本の脚を持つものが、立てない高さの水の中で向きを変えていた。
由紀は蛇口を閉めた。溝の水が引いても影は残った。成瀬は膝をつき、両手で水をすくって溝へ戻した。その手つきが危なく見えて、由紀はやめなさいと言った。誰を守るために止めたのか、自分でも分からなかった。
アヒルの移送は木曜日に決まった。二人は新しい運搬箱を用意した。一羽ずつ入れていくと、どれも普通に嫌がった。元気だった。成瀬の腕を嘴で挟む一羽を見て、由紀は少し笑った。
最後の一羽を持ち上げたとき、下で別の声がした。
「ここまででいいです」
由紀の声ではなかった。成瀬が言いかけた声に似ていた。彼は口を開いたまま止まった。由紀の両腕には、間違いなく一羽分の重みがあった。
地面に、もう一羽いた。羽はなく、水に濡れた砂で体ができていた。丸い背中の下へ手を入れると、ふにゃりと崩れた。頭だけが持ち上がり、由紀の顔の高さまで長く伸びた。
由紀は本物のアヒルを成瀬へ渡し、自分の腕を引いた。砂の頭の先に、開いた口があった。嘴ではない。人の奥歯と、もっと細い歯が同じ列に並んでいた。口は何かを言いたそうに動いたが、音にならなかった。
手袋を脱ぐと、砂はそれを抱いて地面へ沈んだ。手袋の中の指が、由紀の手を抜いたあとで曲がった。成瀬は箱の扉を閉め、二人で離れた。運搬の車が着くまで、どちらも囲いへ入らなかった。
係の人には、七羽とも元気です、と伝えた。嘘ではなかった。新しい飼育先から、その日のうちに写真も届いた。由紀は七羽を一枚ずつ確かめた。砂でできたものを載せてしまったのではないかと思っていた。
鳥のいなくなった池で、鳴き声がした。成瀬は泣いていなかった。ただ、由紀の顔を長く見なかった。自分は終わる場所へ来たくなかったと、ぽつりと言った。動物の世話を覚えたくて申し込んだのだという。
由紀は、移すのも世話だから、と答えた。自分でも正しいことを言ったと思った。けれど成瀬は、それじゃこれはどこへ行くんですか、と空の囲いを指した。由紀には答えがなかった。
金曜日に残りの砂を分けた。作業を放棄して次の業者へ渡すこともできたが、袋の白い骨を思い出すと、それも嫌だった。二人で浅い容器へ広げ、小さな欠片を取り除いた。獣医へ渡す分には、それぞれ土の場所を記した。
日が傾くと、容器の砂がゆっくり盛り上がった。動物の形にはならなかった。顔を伏せた人の背中ほどの高さまで膨らみ、すぐ崩れる。水を足すと動きが止まり、由紀が桶を下ろすとまた始まった。
「飲みたいのかな」
成瀬が言った。由紀は、分からない、と答えた。この仕事をしていると、若い人に分からないと言うのが難しくなる。いつもより大きな声で答えてしまい、成瀬が驚いた顔をした。由紀は謝った。
二人は桶へ水を満たし、砂の脇へ置いた。しばらく何も起きなかった。夕方の見回りを終えて戻ると、桶の水が半分になっていた。地面は濡れていない。縁に由紀の手袋が掛かっていた。
手袋はきれいだった。泥は取れ、指の一本一本に水が溜まっていた。拾おうとすると、成瀬が由紀の袖へ触れた。首を振っている。由紀も、そこに手を入れるのは違うと思った。手袋の向きを変えず、その場へ残した。
片づけの最終日は火曜日だった。園の正門は閉まったままで、作業の車だけが裏から入った。由紀と成瀬は、最後のウサギを係の人へ引き渡した。空になった小屋は、動物がいたときよりも匂いが強かった。
池の桶を回収するため、由紀は一人で柵をまたいだ。水はまだ残っていた。周りに、座った跡がいくつもあった。丸い腹の跡、尻尾を引いた跡。中に一つだけ、長靴を揃えたような四角い窪みがあった。
自分がしゃがんだ跡だと思った。長靴を重ねてみると、窪みは少し大きかった。踵が深く、そこから先は水へ続いている。成瀬が外から由紀を呼んだ。何でもないと返事をした途端、池の底でも同じ声がした。
由紀は桶を持ち上げた。残っている水の分だけ重かった。それでも持ち上げた腕が下りてこない。肘の下を、知らない人が両手で支えている感じがした。顔を上げると、囲いの外へ出る戸が遠くなっていた。
浅い砂の上に、何人もしゃがんでいた。人なのか動物なのか、上からは分からなかった。みんな頭を下げ、由紀の長靴の周りへ集まっていた。桶の水が一滴落ちると、一番近くの背中がぴくりと動いた。
由紀は成瀬へ助けを求めた。若い人へ危ないことをさせたくないと思いながら、声は止められなかった。成瀬が柵を越えると、しゃがんでいたものが二つに割れた。中から、成瀬の靴に似た足が出た。
「桶、戻してください」
成瀬は由紀へ近づかずに言った。由紀は腕を下げた。水の重さが急に戻り、指が縁から滑った。成瀬が持ち手をつかみ、二人で元の場所へ置いた。水面は揺れず、底へ深く下がった。
由紀は膝をついた。水の中から、自分の顔が見上げていた。若くも老いてもいない、今の顔だった。口を開けて餌を待っている。由紀が顔をそむけても、その顔は上を向いたままだった。
水を足したのは成瀬だった。ホースの先を桶へ入れず、少し離して注いだ。水が上がるにつれ顔は見えなくなった。由紀は地面から足を離し、成瀬に腕を支えられて柵の外へ出た。
全部片づけたとは報告しなかった。池の土に骨のようなものが混じっていること、検査用に取り分けたこと、桶を回収できなかったことを責任者へ伝えた。責任者は現場を見て、ここは当面残そうと言った。由紀は返事を急がなかった。
門を閉める前に、成瀬と二人で水を運んだ。桶はもう満ちていたので、足さなかった。由紀の手袋は縁から消えていた。砂の上には二つの小さな水溜まりがあり、どちらも指を開いた形をしていた。
成瀬が、ここまででいいです、と言った。由紀はその声を知っていた。あの日、最後のアヒルを抱いたときに聞いた声だった。二人で作業着を脱ぎ、鍵を返した。帰りのバスでは、成瀬が持っていた空の弁当箱を、由紀が膝に載せてやった。


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