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観覧車の影法師

観覧車の影だけが、まだ回っていた。

美津子は娘の手を握り、売店の前で立ち止まった。観覧車は点検で休止中と入口に書いてあった。白い輪は空の下で動かず、赤と黄色のゴンドラも同じところに下がっていた。地面へ伸びた影だけが、ゆっくり回っていた。
「風で動くのかな」
娘の菜々が言った。

七歳だった。美津子は、そうかもしれないね、と答えた。本当は、そんなはずはないと思った。だが娘を怖がらせたくなかった。二人で出かける約束を、雨や仕事で三回延期していた。ようやく晴れた日曜日だった。小さな遊園地だった。美津子も子供の頃に来たことがある。乗り物は半分ほどになり、昔の迷路は花壇へ変わっていた。観覧車だけは同じ場所にあった。

菜々は白い帽子を被り、首から小さな鞄を下げていた。美津子が前の日に縫い直した肩紐が、まだ少し長かった。鞄は、美津子が子供の頃に使っていたものだった。母の家を片付けた時に出てきて、菜々が欲しがった。新しいものを買ってあげると言っても、これがいいと譲らなかった。

前の晩、菜々は美津子の膝の横で針を見ていた。一度短くした紐をほどく間も眠らず、最後に肩へ掛けて鏡の前を歩いた。その姿を夫に見せてから、ようやく布団へ入ったのだった。二人は売店でジュースを買った。小銭を出す間だけ、美津子は娘の手を離した。

その十数秒で、菜々がいなくなった。美津子は最初、隣の棚にいると思った。菓子や玩具が並ぶところを覗き、名前を呼んだ。返事はなかった。売店の女が外へ出てくれた。美津子は通路を見回した。観覧車のほうで、白い帽子が揺れた。乗り場へ向かう階段を上がっていた。

美津子は走った。菜々、と呼んだ。娘は振り向かなかった。黄色い上着の係員が、乗り場に立っていた。菜々の肩へ手を載せ、入口の奥へ案内していた。美津子が階段の下へ着いた時、係員は入口の柵を閉めた。
「すみません、娘が」
係員は振り向いた。

顔が見えなかった。帽子のつばが深いのではなかった。首から上が、背景の観覧車と同じ白さになっていた。美津子は足を止めた。係員が、片手を上げた。その手は長かった。柵の上を越え、階段の半ばまで伸びてきた。美津子は一段下がった。

後ろから、誰かが名前を呼んだ。売店の女だった。
「お母さん、見つかりました」
女の横に、菜々がいた。白い帽子を被り、鞄を下げていた。美津子は娘へ駆け寄った。抱き締めると、いつもの汗と日焼け止めの匂いがした。
「どこ行ってたの」
菜々は泣き始めた。

「お母さんが、こっちって」
菜々は観覧車を指した。美津子は階段を振り返った。柵の向こうに、もう一人の菜々がいた。両手で柵を掴み、口を開けていた。声は届かなかったが、美津子を呼んでいることは分かった。腕の中の菜々が、顔を上げた。

二人は互いを見た。どちらも泣いた。

売店の女が、無線で人を呼んだ。休止中の乗り場には誰も入れていない、という返事が聞こえた。黄色い上着の係員は、今日は出勤していないとも言った。美津子は菜々の手を握ったまま階段へ戻った。今度は売店の女も来た。柵の前の菜々は、美津子へ手を伸ばした。

美津子も手を出した。柵の隙間から、小さな指が彼女の掌へ触れた。温かかった。爪の端に、昨夜塗ったピンクの色が少し残っていた。片方の菜々も同じだった。母親なら違いが分かるはずだ、と思った瞬間、その考えが自分を追い詰めた。

美津子には、分からなかった。どちらも菜々だった。売店の女が柵の鍵を見た。南京錠が掛かっていた。連絡を取るので待っていてと言った。美津子は二人の手を握っていた。一人は隣、一人は柵の向こう。どちらの指も、彼女の手から離れまいとしていた。

足元の影が動いた。地面に映った観覧車のゴンドラが、階段を横切った。黒い箱の形の中に、人が座っていた。頭のない人だった。長い腕を自分の膝へ畳み、身体を小さくしていた。影が階段の角を越えると、その腕が柵のほうへ伸びた。柵の中の菜々が、後ろへ引かれた。

美津子は手を握り直した。隣の菜々も同時に、肩を後ろへ引かれた。二人は、同じものに掴まれているように動いた。
「足、痛い」
隣の菜々が言った。柵の向こうの菜々も、同じ口の形になった。美津子は二人の足を見た。影が一つしかなかった。

二人分の影が、階段の上で一つに重なり、回るゴンドラの影へ吸い込まれかけていた。美津子はしゃがんだ。自分の身体で影を覆おうとした。だが観覧車の影は、彼女の上着の上を通った。黒い線が布の皺を越え、胸を締めつけた。息ができなくなった。

美津子は立ち上がった。頭のない影が、ゴンドラから下りた。足が地面へ着くと、実物の観覧車が小さく軋んだ。止まっていた黄色いゴンドラの扉が開いた。誰も乗っていないはずの座席に、女がいた。美津子だった。膝に白い帽子を載せ、こちらを見下ろしていた。

菜々が二人とも、母さん、と言った。美津子は二人の手を強く握った。
「あっちじゃない」
声が震えた。娘たちは美津子を見た。その目に、初めて疑いが浮いた。美津子は泣きそうになった。母親であることを証明しようとして、娘が小さい頃の話をしようとした。好きな食べ物も、昨夜読んだ絵本も、自分だけが知っていることだと思った。

だがゴンドラの女も、同じ話を知っている気がした。彼女は何も言わずに笑っていた。売店の女が鍵を持って戻ってきた。ほかに二人の職員がいた。男の一人が観覧車を見上げ、足を止めた。
「上、誰かいる」
もう一人が、動かすなよ、と言った。

美津子は柵の鍵を開けてもらった。中の菜々を引き寄せた。二人の娘が、美津子の両側へ並んだ。一人の鞄の肩紐は少し長かった。もう一人は、短かった。それを見つけて、美津子は息を呑んだ。前の晩、肩紐を短くしようとして一度縫い、短すぎたのでほどいた。その後、少しだけ長く直した。

短いほうの紐には、最初の縫い目があった。長いほうには、縫い直した跡があった。どちらも自分が縫ったものだった。短い紐の菜々が、美津子の顔を見た。
「こっち、違うの?」
美津子は首を振った。答えを探すのをやめた。
「今は、二人とも来る」
美津子は階段を下りた。

二人の手が引かれた。足元の影が、まだゴンドラへ繋がっていた。職員が一人、頭のない影の前へ立った。影はその人を通り抜けた。男の黄色い上着が、地面へ落ちた。身体はその場にいた。半袖の下着姿で、自分の肩を見ていた。上着だけが、影に引かれてゴンドラのほうへ滑っていった。

美津子は娘たちを前へ押した。
「鞄、外して」
二人は嫌がった。母親に縫ってもらったばかりの鞄だった。菜々は、遊園地へ行く日に初めて使うと決めていた。美津子は、自分で肩紐を外した。二つの鞄を柵の内側へ置いた。影が、そちらへ伸びた。

菜々たちの足が前へ出た。美津子は二人を連れて走った。売店の女が先へ出て、客を避けながら道を作った。人の多い場所まで来ても、美津子は止まれなかった。

園の事務所へ入り、窓のない部屋へ案内された。美津子は二人を両側に座らせた。職員が水を持ってきた。コップは二つだった。美津子が見ると、職員は慌ててもう一つ取りに戻った。二人の菜々は、並んで水を飲んだ。短い紐の鞄を持っていたほうは、コップを両手で持った。

もう一人は片手で持った。違いはあった。美津子は、その違いでどちらかを選ばなかった。職員から、双子ではないんですね、と聞かれた。美津子は頷いた。電話で夫を呼んだ。夫は、娘が見つかったのならよかった、と言った。美津子は説明しようとして、言葉が出なかった。

「迎えに来て」
それだけ頼んだ。娘たちは、少し落ち着くと互いを見始めた。白い帽子の縁を触り、手の甲を比べ、片方が泣くと、もう片方も涙を浮かべた。美津子は二人へ、自分の上着を掛けた。それぞれ半分ずつだった。

外で、観覧車が動く音がした。職員が部屋を出ていった。戻ってきた時、顔が白かった。点検のために低速で一度回したのだという。上にいた女はいなかった。代わりに、黄色いゴンドラの座席へ、小さな鞄が二つ置かれていた。どちらも、肩紐がなかった。

紐は、窓の外へ伸びていた。扉を開けても引き込めなかった。だから、そのゴンドラだけはまだ上にある、と職員は言った。美津子は窓のない壁を見た。頭の上に、細い影が二本垂れていた。照明の影ではなかった。二人の菜々の肩へ、一筋ずつ触れていた。

美津子は二人を抱き寄せた。夫が来るまで、ここから動かないと決めた。職員が何かを聞いても、少し待ってください、と答えた。娘たちが眠り始めた。呼吸は同じ速さだった。片方の指が、美津子の上着の裾を掴んだ。もう片方の指も、同じ場所を探った。

美津子はその小さな手を、それぞれ自分の手へ握らせた。外で、夫が自分の名前を呼んだ。菜々、と続けて呼んだ。二人の娘が目を開けた。

美津子は、二人とも、と声を出した。

どちらかだけを立たせることは、できなかった。

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