駐輪場の奥で、自転車を起こしている人がいた。
深夜一時を過ぎていた。私は残業の帰りで、鞄からはみ出すパンの袋を押し込みながら歩いていた。夜の休憩に会社近くのパン屋へ行き、九時の閉店間際に買ったものだった。三つで二百円。夜食のつもりが食べる間もなく、翌朝へ持ち越しになった。それでも、買っておいてよかったと思っていた。
駐輪場の端にある街灯が切れていた。自分の自転車がある列だけ暗く、私は携帯の灯りを使った。
女の人だった。腰を曲げ、倒れた自転車のハンドルを握っていた。年は七十くらいに見えた。厚い作業手袋をして、花柄の雨靴を履いていた。雨は降っていなかった。
この場所で何度か見たことがある。係の人だろうと思っていた。いつも自転車の籠を一つずつ覗き、何かを拾って袋へ入れていた。
だから、そのときも私は手伝おうとした。
「こっち、持ちます」
言ってから、前輪を持ち上げた。
女の人が鋭い声を出した。言葉ではなかった。息を噛むような音で、私は驚いて手を離した。前輪が落ちた。泥除けが隣の自転車の脚へ当たった。
その音に遅れて、低い呻きがした。
誰かが間に挟まっていると思い、私は灯りを向けた。
自転車しかなかった。
銀色の車体が三台、斜めに重なっていた。女の人が起こそうとしていたのは一番下だった。普通なら上から退ける。下の一台を引けば、余計に絡まるだけだ。
「上からやったほうが」
女の人は私を見ずに、ハンドルを少し戻した。
呻きがやんだ。
私は、手伝うのをやめた。余計なことを言った気がした。知らない仕事へ口を出すと、こういうことになる。
自分の自転車は五台ほど先にあった。青いフレームで、後輪の泥除けが少し凹んでいる。昨年、酔った帰りに倒した傷だった。端に置くとよく将棋倒しになるので、いつも列の真ん中へ入れていた。
その青い自転車も、左へ傾いていた。
籠へパンの袋を移した。鍵を開けようとして後輪を覗くと、サドルの下から息が掛かった。
温かい息だった。
私は顔を上げた。誰も座っていない。サドルには黒い切れ目があり、中の黄色いスポンジが少し出ていた。交換しようと思いながら、何年もそのままだった。
切れ目が、細く開いた。
私は身体を退いた。
後ろで、自転車のスタンドを立てる音がした。女の人が一台目を起こしていた。籠を揃えると、少し下がり、両手を胸の前で払った。作業手袋の縫い目から、白い粉が落ちた。
砂利の上で小さく光ったので、泥ではないと思った。
女の人は次の一台へ移った。倒れたハンドルをゆっくり持ち上げた。
そのあいだ、さっき起こした自転車のベルが鳴った。誰も触っていなかった。鳴り終わる前に、サドルの高さが変わった。上へ伸びたのではなく、腰を浮かせた人の下にくっついていたように、前へ傾いた。
私は空のハンドルの間を見た。そこに二本、薄い腕があった。
裸の腕ではなかった。服も肌もない、腕の長さだけをした暗がりだった。街灯の向こう側が、そこだけ見えなかった。
片方は肘で曲がり、もう片方はハンドルから下へ落ちていた。女の人が自転車へ寄り、落ちた側の握りを少し上げた。
暗がりが曲がった。
人が気持ちよさそうに、長く息を吐いた。
私の手の中で鍵が鳴った。自分が震えているのに、その音で気づいた。女の人が振り返った。
「それ、まだ乗るの」
彼女は青い自転車を見ていた。
私はうなずいた。夜道を歩けば三十分掛かる。明日も使う。新品を買う余裕も、放って帰る理由もなかった。
「じゃあ、引きなさい」
怒ってはいなかった。自分でやれるならやりなさい、という言い方だった。
私は鍵を開けた。音が大きく聞こえた。ハンドルを両手で握り、車体を後ろへ引いた。
動かなかった。
後輪は回っていた。隣の自転車にも引っ掛かっていない。前輪が、砂利へ沈んでいた。私が引くとサドルも少し動き、その上の空気が、嫌がるように後ろへ反った。
私は力を緩めた。
「誰か、乗ってるんですか」
自分でも馬鹿な質問だと思った。乗っていると返事をされても困る。
女の人は、まだ起こしていない列を見た。
「そっちは最後」
質問に答えたのではなかった。後ろへ向けて言っていた。暗い列の中で、ブレーキの握りが順番に軋んだ。
私は係員の詰所を見た。駐輪場の入口に小さな建物があった。料金の精算機は灯っていたが、窓のブラインドは閉まっていた。
管理会社の番号へ電話した。録音の案内が流れた。自転車が取り出せない場合は、と言うので、そのまま聞いた。係員が対応する時間は朝の六時からだった。
六時までここで待つつもりはなかった。
「今、電話しても来ないよ」
女の人が言った。
私は急に腹が立った。こんな夜中に一人で何をしているのか。ここで働いているなら、困っている客を見ていていいのか。
「じゃあ、あなたが」
言いかけると、彼女は作業手袋を外した。
指が多かった。
一本多いとか、そういう数えられる形ではなかった。手首から先に、爪のない指が房のようについていた。女の人はそれを広げ、傾いた自転車のハンドルとサドルと前輪を、同時につかんだ。
私は後ろへ一歩下がった。自分の青い自転車のベルが鳴った。
「動かさないで」
女の人は私のほうへ言った。
私は手を離していた。動かしていない。そう言おうとしたが、声が出なかった。誰へ言ったのかはっきりしなかった。
女の人はサドルの高さを直した。白い粉が、細い筋になって落ちた。ゴムの表面から出ているのではない。何もないはずのサドルの上から、粉がこぼれていた。
古い関節を動かすような、乾いた音が続いた。
私の鞄には仕事用の書類と財布が入っていた。自転車の籠にはパンだけだった。
パンを取るには、ハンドルの間へ手を入れなければならなかった。私は迷った。二百円で買ったものだった。置いて帰ればいいと分かっているのに、袋をつかんでから歩き出そうとしていた。
サドルの前に、腹の丸みが見えた。
袋の上で、その腹がゆっくり上下していた。
私は後ろへ下がった。
女の人が、手袋をつけ直した。指は普通の本数へ収まった。手袋の中でどうなったのか、見たくなかった。
「今日は歩いて帰ります」
私は頭を下げた。なぜ彼女に断ったのか分からない。
女の人は、そう、と言った。
すぐ次の自転車へ向き直った。
入口までの道は空いていた。私は走らなかった。走ると後ろからベルを鳴らされる気がした。
詰所の前に来たとき、中で椅子が動いた。ブラインドが二枚、指で開かれた。若い男の顔が見えた。
「大丈夫ですか」
私は窓へ寄った。彼も今しがた来たのではなく、そこにいたらしかった。青い上着の胸に管理会社の名前が縫われていた。
私は、自転車が取れない、と言った。
彼は奥の列を見た。それから、私の手を見た。握ったままの鍵を。
「明日の昼に来られますか」
「今、あの人が」
「はい」
彼は返事をした。言葉を続けるようには促さなかった。
「あの人は、係の人ですか」
男は一度口を開き、閉じた。
「僕は今月からなので」
それが嘘なのか本当なのか、私には分からなかった。彼も私も、窓の向こうで小さく鳴る金属の音を聞いていた。
やがて男が鍵を開け、外へ出た。私と同じくらいの年だった。
「歩いて駅のほうへ行きましょう」
彼はそれだけ言って、先を歩いた。私の自転車を取りに行くとは言わなかった。私ももう頼まなかった。
駅前のコンビニのところで別れた。男は店へ入り、入口から詰所のある方向を見ていた。戻る時間を計っているようだった。
私はパンを買い直した。いちばん安い一袋を選んだ。会計をしていると、外でいくつもベルが鳴った。
女の人が歩いていた。
道の端を、花柄の雨靴でゆっくり進んでいた。手には何も持っていなかった。後ろから、自転車が並んで来た。
誰も漕いでいなかった。車輪も回っていなかった。
一本ずつ、スタンドが地面へついていた。細い金属の脚で、車体を前へ押していた。
列の真ん中に青い自転車があった。籠にパンの袋が載っていた。サドルの上には、両肩を丸めた人の形があった。
その姿勢を私は知っていた。残業の帰り、風を避けながらペダルを踏むときの、自分の姿勢だった。
自転車は私のほうへ向かなかった。女の人について、明るい通りを曲がっていった。


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