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網の上を歩く

桐原が空振りをすると、後ろで須賀が笑った。
嫌な笑い方ではなかった。自分で誘っておいて当たらないのだから、桐原も一緒に笑った。十九球のうち、前へ飛んだのは二球だけだった。

「もう一回、やります?」
「いや、今日はいい」
須賀は財布を出しかけて、しまった。金曜日の夜だった。駅前の雑居ビルの屋上に、四つだけ打席のあるバッティングセンターがあった。桐原は十年以上、看板を見て通り過ぎていた。

会社の人たちで野球をすることになり、打ったことくらいあると言ってしまった。中学の体育も入れれば嘘ではなかったが、実際にはバットの持ち方から怪しかった。須賀に聞くと、仕事のあと付き合ってくれると言った。

須賀は桐原より十五歳若かった。仕事では何度も注意をしていた。試算の根拠を書かずに数字だけ出す癖があって、その日も昼に言い合ったばかりだった。ところがここでは、桐原の肘を見て、少し下げてみてください、と遠慮がちに言う。言われた通りにすると、二球目が当たった。

最後の球は、バットの先をかすめた。桐原の右足の横へ落ち、ゆっくり前へ転がった。拾おうとして腰をかがめると、須賀に、そのままでいいです、と止められた。
「前へ転がって、勝手に集まるんで」
桐原は膝へ置いた手を離した。球は途中で止まっていた。

ネットの影に引っかかっていた。
白い球の下を、黒い線が一本通っていた。傾いた床の小さな段差に止まったのだろうと思った。桐原が体を起こすと、線は球を持ち上げた。爪の先ほど浮いて、すぐ下りた。

投球機のランプが消えた。打席の後ろを開けて外へ出ようとすると、足が何かを踏んだ。紐だと思い、後ろを見た。床には網目の影があった。緑色の本物のネットは、桐原の頭より高いところまで、横の支柱にきちんと張られていた。

「ここ、紐ある」
須賀に言って、靴をずらした。黒い線が靴底の溝から抜けた。
須賀は足元をのぞき、少しだけ笑った。今度は、笑っていいか迷ったようだった。
「影じゃないですか」

桐原もそう見えていた。だが、踏んだときには細いものが靴の下にあった。足を置き直す気になれず、線のない四角の中へ爪先を入れた。網目は両足の間を通り、打席の外の通路へ続いていた。

奥の打席で、男が一人打っていた。白い半袖に、紺のズボンだった。スイングを終えるたび、バットの先を自分の肩へ載せた。桐原たちの入店時から、ずっとそこにいた。
男の打席の後ろにも、黒い網目が伸びていた。

須賀が貸し出しのバットを受け取り、壁際の棚へ戻した。桐原の上着と二人の鞄は、棚の隣の長椅子にあった。上着を取って腕へ掛けると、背後で球が当たった。奥の男が前へ出て、打席から出るところだった。

男は長椅子の反対の端へ座った。汗もかいていない顔で、両膝に手を置いた。
けれど、床の影はバットを振っていた。
黒い両腕が肩の上から前へ出て、体の横を回った。立っている人の影だった。座った男の爪先からは少し離れていて、足と足の間に床の灰色が見えた。

桐原は上着を抱えた。須賀は鞄の口を閉めていた。
「今の、見たか」
男へ聞こえないつもりで言ったが、男は顔を上げた。桐原を見てから、その靴を見た。
「まだ、そこにいるの」
休憩している桐原に言ったのかと思った。男の目は上がってこなかった。

受付は階段の入口の脇にあった。窓の下に球速を書いた札が並び、青い作業着の店員が帳面へ何か書いていた。窓ガラスは横へ寄せられ、腰の高さのカウンターの上が広く開いていた。桐原はそちらへ向かった。須賀も鞄を肩へ掛けてついてきた。

長椅子の端を過ぎたところで、桐原の足が止まった。
右の靴へ、黒い線が一本掛かっていた。甲の上を斜めに通り、両側が床につながっていた。落ちた紐のように見えたが、下には何も敷かれていなかった。黒いところを通して、靴の縫い目が見えた。

足を引くと、甲が締まった。
桐原は思わず、須賀の腕をつかんだ。上着が落ちた。拾おうとした須賀の指が、床の手前で止まった。
「これ、何ですか」
彼の爪が、黒い線を押していた。線はその指の下でたわみ、隣の四角が細長くなった。

座っていた男が立った。もう一人、受付の横にいた細身の女も近づいてきた。桐原は邪魔になっているのだと思い、先にどうぞと言った。
女は通り過ぎず、桐原の足を見た。
「ついたままなんですね」
「何がですか」
女は答えず、男へ顔を向けた。男は珍しい物を見るように、桐原の右足と左足を見比べていた。

桐原の影は、靴の先から普通につながっていた。上着を落としたせいで、曲げた肘の形も分かった。
男の影は、もう打つ動きをしていなかった。床へ両手をつき、細い体を横にして、網目の下へ入っていた。本人は桐原の前で立っている。しゃがんでもいなかった。

女が男の袖を引いた。二人は受付のほうへ戻った。
影は、少し先へ行っていた。男の黒い膝が通路を擦り、体が長椅子の下へ隠れた。女の影は見つけられなかった。
二人ともこちらへ戻ってこなかった。桐原は声を掛けるのをやめた。

須賀が桐原の靴へ両手を伸ばした。
「待て。触るな」
昼の打ち合わせと同じ強い声になった。須賀が手を引いた。桐原は続けて何か言おうとしたが、右足の指を動かすだけで甲が痛かった。

須賀は長椅子へ戻り、棚からバットを取った。
先を桐原の靴の横へ差し込み、ゆっくり持ち上げた。線が浮いた。細い黒い網の、四角が三つほど一緒に起きた。緑のネットの結び目とは形が違い、線と線が交わるところに丸いこぶがあった。

足が抜けた。桐原は両足を揃えて後ろへ下がった。
須賀がバットを寝かせると、持ち上がった網目も床へ戻った。上着はその上に載っていた。片袖の下で線が見えなくなっていたが、布の上を通っている線もあった。光が落としている模様には見えなかった。

「店の人、呼んできます」
須賀が立ち上がった。桐原はその鞄をつかみ、引き止めた。
「そっちもある」
彼の足の前まで、網目が広がっていた。最初は打席の足元にあるだけだったのに、今は通路を横切り、受付の窓の下へ届いていた。

桐原は店員へ声を掛けた。足に何か引っかかる、と伝えた。店員は窓から身を乗り出し、通路を見た。それから受付を出てきた。
「どこですか」
桐原が足元を示すと、店員はすぐには来なかった。窓際に置いていた椅子へ手を掛け、その後ろへ立った。

「灯り、消せますか」
須賀が聞いた。
店員は桐原を見ていた。返事がないので、須賀がもう一度頼んだ。店員は窓へ戻り、内側へ腕を入れた。
打席の上の強い照明が、一度に消えた。

屋上は真っ暗にはならなかった。隣のビルの赤い看板が点いていた。階段室からも白い光が出ていた。
須賀の影はそちらと反対へ薄く伸びた。床の網目は、向きを変えなかった。受付へ伸びた線の先が、窓の下で持ち上がった。

桐原の上着が、ずるりと動いた。
床を擦ったのは裾だけだった。胴の部分は、膝ほどの高さへ上がっていた。黒い四角がいくつも立ち、上着を内側から押していた。桐原は袖へ手を伸ばしかけ、やめた。胸ポケットに社員証が入っているのを思い出した。

須賀がバットを握り直した。上着を取るつもりらしかった。
桐原は首を振った。
「置いていく」
「でも」
「俺のだから、いい」
上着は少しずつ高くなっていた。

打席の緑のネットは静かだった。支柱の先に結んだ余りの紐だけが風で揺れていた。その下を、黒い網が通路へ寄ってきた。床を離れた部分には厚みがなく、横から見ると消え、こちらへ向くと四角が並んだ。

須賀が長椅子に残っていた桐原の鞄も肩へ掛けた。靴のまま片足を座面へ載せ、手を壁についた。桐原にも上がれと言った。
桐原は縁へ膝を掛けた。右足を上げると、さっき踏んだ線が靴底から伸びた。引っかかっているのか、もう靴から出ているのか分からなかった。

須賀がバットを下ろした。線の横へ先を当て、桐原の靴から離すように押した。
桐原は足を引いた。ほどけた感触はなかったが、今度は上がった。長椅子の座面へ両足を載せると、下で黒い四角がつぶれた。椅子の前脚に巻きつき、ゆっくり締まった。

座面が前へ傾いた。
二人は壁へ肩を押しつけた。須賀がバットを落としかけたので、桐原も柄を握った。長椅子の脚が床を滑った。少し動いては止まり、そのたびに網の四角が細くなった。

入口まで、あと一つ短い椅子があった。その先は受付で、腰の高さのカウンターが出ていた。店員は窓の内側へ戻っていた。さっきの男も女もいなかった。
「そこの戸、開けて」
桐原は言った。階段へ下りるガラス戸だった。店員はカウンターの後ろを通り、手を伸ばして戸を押した。

須賀が先に短い椅子へ移った。桐原の鞄を肩から外し、受付のカウンターへ置いた。桐原がついていこうとすると、乗っていた長椅子が壁から離れた。
膝が折れ、腰が座面へ落ちた。須賀の手をつかむつもりで、バットの端を突き出した。須賀が受け取った。

引いてもらい、短い椅子へ足を移した。腹がカウンターに当たった。桐原は息を吐き、カウンターへ両肘を載せ、開いた窓の内側へ上体を入れた。須賀が鞄を奥へ寄せてくれた。桐原はその場所へ膝を載せ、カウンターを越えた。

店員が後ろへ下がった。桐原は彼の椅子へ片足を下ろし、もう片方を戸の敷居へ伸ばした。黒い線が一本、入口まで来ていた。
須賀もカウンターを越えようとしていた。片手にまだバットを持っていたので、桐原は貸してくれと言った。

バットを入口へ横に寝かせ、転がらないよう端を押さえた。線がその上を渡ろうとしていた。須賀はカウンターから下り、バットを大きくまたいで戸を抜けた。桐原も敷居から階段の最初の段へ足を下ろした。

バットは置いたままになった。
黒い線は、柄を締めつけずに、ゆっくり向こうへ運んでいた。桐原は指を離し、戸の取っ手へ持ち替えた。店員が何か言おうとして口を開いたが、桐原は待たずに閉めた。

階段を下りる途中で、須賀が止まった。鞄を一つずつ、踊り場へ置いた。二人とも息が切れていた。
桐原は自分の鞄を受け取った。須賀の掌に、バットの柄の汚れが黒くついていた。自分の手にも同じ汚れがあった。

須賀は掌をズボンで拭き、先へ下りようとした。桐原はその腕をつかんだ。
「一緒に下りてくれ」
須賀が頷いた。桐原は腕を離せず、そのまま二人で次の段へ足を下ろした。

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