青果店のレジに、空の紙袋を五十円で売ると書いた札が出ていた。夏帆は出勤するなり、それを剥がした。買い物袋を忘れた人へ渡すための袋だ。五十円も取るほど立派ではない。父の敏夫は、欲しいって言うから、と札を取り返し、またレジへ立てかけた。
夏帆は平日の午前だけ父の店を手伝っていた。午後は別の店の仕事があった。父はそちらを本業と呼び、ここは家の手伝いだと言った。月末の賃金の話になると口数が減るので、夏帆は自分から決めた額を封筒へ入れて受け取る。客には仲のよい父娘に見えていたと思う。
問題の袋は市場でもらったものだった。古い包装紙の束と一緒に、隣の仲卸が使わなくなったからと渡されたらしい。茶色い紙で、底の折り目に白い綿のようなものがついていた。父はそれを、紙の屑、と指で払った。屑は床へ落ちず、ふわりと袋の中へ戻った。
夏帆が口を開くと、青かった。内側に青い紙を貼ってあるのかと思ったが、底に白い筋がゆっくり動いていた。雲に見えた。口を狭めると青も細くなり、広げると奥行きが出た。夏帆は袋を裏返した。底は普通の茶色で、糊のはみ出した線があった。
「印刷じゃないの」
夏帆が言うと、父はそうかもしれないな、と答えた。興味がないふりだった。レジ横には袋を買っていった客の小銭が溜まっていた。朝だけで八枚売れたという。夏帆は残りを数えた。十七枚あった。父はまだ奥にもあると言ったが、見に行くと束はそれだけだった。
最初の客が戻ってきたのは十一時だった。常連の野田さんで、鞄から袋を大事そうに出した。「これ、預かっといてもらえる?」。不良品なら代金を返すと言うと、違う、と笑った。会社へ持っていくと人に触られるのが嫌なのだという。夕方取りに来るから、と袋を閉じて渡した。
夏帆が受け取ると、中で軽い音がした。小石が底へ転がったようだった。野田さんが帰ってから覗くと、青い空の手前を黒い点が飛んだ。鳥なら遠くにいるはずなのに、紙の内側を爪が引っかいた。夏帆は袋を落としかけた。父が横から取り、口を二度折って棚へ置いた。
昼になると、店の天井が低く感じられた。入口の暖簾をかけ直すと、父の頭へ触れた。いつもは腕を伸ばす高さにある棒が、肩のすぐ上まで下がっている。夏帆は脚立を見た。高さは変わらない。店の床もいつも通りだ。青い紙袋を広げて置いた棚の上だけ、天井の梁が近かった。
袋を閉じると、梁は少し上へ戻った。夏帆は何度も開け閉めしなかった。一度見ただけで十分だった。父へ袋の販売をやめるよう言った。父は頷いたが、売った八枚をどうするかまでは言わなかった。夏帆は常連の分だけでも連絡しようと、顔を思い出した。
父は、みんな喜んでた、と言った。「野田さんなんか、もう一枚欲しいって」。それが安全だという理由にはならない。夏帆が言い返そうとすると、棚の上の袋が内側から膨らんだ。折った口を誰かが押し上げていた。父も黙った。広がった青の中へ、白い腕が一本降りた。
腕は肘から下だけだった。指を伸ばし、袋の底を探っていた。夏帆たちから見れば、空の上から垂れている。ところが手の甲は売場の蛍光灯に照らされていた。爪の縁が薄く光った。父が袋を倒すと、腕は横から伸びてくる形になった。重力の向きが、袋と一緒に回っていた。
夏帆は口を閉じた。中で指が紙へ触れ、逃げる小動物のように動いた。父はその上へ白菜の箱を載せようとした。夏帆が止めた。押し潰していいものか分からない。父は箱を床へ下ろした。お客さんの物だから、と小さく言った。初めて袋の持ち主の話をした。
野田さんへ電話すると、昼休みのうちに戻ってきた。青い顔で、会社の鍵が消えたと言った。更衣室の棚へ置いたはずが見つからない。夏帆は袋を見せた。野田さんは口を開き、空へ手を入れかけた。夏帆と父が同時に止めた。野田さんは、そこにある、と底を指した。
鍵が、小さな屋根の上に載っていた。袋の底にはもう空だけでなく、店の屋根を上から見た景色があった。エアコンの室外機と、錆びたトタン。そこへ鍵が落ちていた。野田さんが袋を傾けると、屋根の縁から小さな人が覗いた。作業服のようなものを着ていたが、頭は青いところに隠れていた。
夏帆は裏の階段から屋上へ上がった。父を袋のそばへ残すのは心配だったが、二人で離れたくもなかった。鍵は室外機の横にあった。見つけた瞬間、頭上で大きな紙が擦れた。晴れた空の端に、茶色い帯が見えた。屋上の四隅へ、誰かが指を置いたような影が落ちていた。
彼女は鍵を拾い、階段へ走った。下りる途中で天井へ頭をぶつけた。入口の高さが足りなかった。屈んで店へ戻ると、父と野田さんも身を縮めていた。天井の梁が、肩をかすめるところまで来ている。野田さんの袋だけが大きく開き、二人の間に空の穴を作っていた。
父は袋を閉じようとしたが、白い腕が口を押さえていた。指を剥がすと、別の指が出た。夏帆は買い物に来た客を入口で止め、今日は急に閉めることになったと謝った。青い空の中で、誰かが買い物籠を持ち上げた。父の店で使う赤い籠だった。
籠が売場から消えた。中に入っていた長葱と豆腐が、袋の空へ上がった。持ち上がる途中は見えない。売場の床にあったものが次に見たときには青いところにあった。夏帆は床の箱を抱え、袋から離した。父がレジのお金を引出しへ戻した。小銭が一枚、天井の隙間へ飛びこんだ。
「売ってると思ってるんだ」
野田さんが言った。何が、と聞く前に、父がレジの札を取り上げた。空袋五十円。その札を破ろうとしたが、紙の端が頑丈で裂けなかった。夏帆は父から札を受け取り、裏へ伏せた。袋の中から、硬いものが一つ落ちた。五十円玉だった。
父は拾わなかった。朝から溜まっていた小銭を見ていた。穴のある硬貨だけ、妙に白く曇っていた。父はレジを開けて五十円を野田さんへ返した。野田さんは受け取り、袋を棚へ置いた。口の白い指が一本離れたが、ほかはそのままだった。
午後の仕事を休むと電話した。夏帆の声は上ずっていた。父はその間に、市場へ連絡を取った。袋をくれた店は普通に営業していた。あの茶色い袋を戻したいと話すと、そんな物は渡していないと言われたらしい。父は日付と置いてあった場所を説明したが、相手の声は変わらなかった。
敏夫は受話器を置き、奥の柱へ背をつけた。「あそこで荷を開けたの、俺だけだったかな」。朝早い市場で、空いた区画に袋の束が置いてあった。持っていっていいと、向こうから言われた。そう思ったのだという。誰が言ったかを尋ねると、顔は見なかったと答えた。
夏帆は十七枚の袋を畳み、輪ゴムでまとめた。青い空が薄く重なり、紙の束とは思えない弾力があった。野田さんの分は閉じられず、別の箱へ入れた。売った残り七枚を探している時間はない。父は常連へ連絡し、袋を開けず店へ持ってくるよう頼んだ。
夕方までに四枚戻った。客は文句を言いながらも返してくれた。一人だけ、雨が入って困る、と言った。家の中で開いていたら、中の晴れ間から雨粒が落ちたらしい。残りの三人は誰だか分からなかった。夏帆は父へ、売上だけ見てたから、と言いそうになり、やめた。今は父も床の小銭を拾っていた。
市場へは父と二人で行った。野田さんは店の外にいて、戻る客へ事情を説明してくれることになった。車へ載せた袋の箱は、口を開いたままだった。閉じようとすれば指が出る。夏帆は後部座席で押さえ、空に自分の顔を映さないよう、窓の外を見ていた。
市場は片づけを終えていた。父が袋を拾ったという区画は空で、屋根の一部が抜けていた。地面に四角い陽が落ちていた。夏帆は箱をそこへ置いた。父が束を外すと、畳んだ袋が一枚ずつ開き、風もないのに同じ方向へ口を向けた。青い面が、屋根の穴の色と重なった。
上から腕が降りた。今度は袋の中ではなく、屋根の外からだった。肘から先しか見えない。指の関節が屋根の梁に届くほど大きかった。父は声を出さず、夏帆の手首をつかんだ。白い指が、袋の束をつまんだ。紙の角が軽く鳴り、一枚ずつ上へ引かれた。
最後に野田さんの袋だけが残った。口が開いたまま、青の中に店の赤い籠が見えた。父はそれを取り戻そうとして腰をかがめた。夏帆は父の襟をつかんだ。手が先へ出るのを止めると、父はしばらく袋を見つめ、それから自分の手を背中へ回した。爪先で袋を陽の中へ押した。
頭上で大きなものが折れた。屋根ではない。青い空に一本の筋が入り、そこが茶色く裏返った。袋は軽くなり、地面から離れた。小さく開いた口から、五十円玉が三枚落ちた。父は拾わなかった。夏帆も見なかった。二人で屋根のあるところへ下がり、音が止まるまで待った。
店へ戻ると、梁は元の高さだった。野田さんは疲れた顔で、最後の一人が来たと紙袋を指した。口は閉じられ、底も潰れていた。夏帆が開くと、普通の茶色い内側だった。売ったあと戻らなかった袋は二枚になった。父はその数だけを、レジの脇の紙へ書いた。
空の袋を売る札は外した。父は頼まれても袋だけを売らない。仕入れた野菜を売ることも、以前ほど簡単ではなくなったようだった。朝、品物を並べる前に、箱の底へ手を入れて確かめる。その手が見えなくなる一瞬、夏帆はよそを向かずにいる。
秋の終わり、店の上を紙袋が飛んだ。鳥のように羽ばたくのではなく、折り目を一つずつ変えながら進んだ。父は外へ出て見上げ、戻ってからレジ脇の二を一に直した。夏帆には数を減らしていい理由が分からなかった。ただ、父の指へ白い綿がついていたので、それを自分の手では払わなかった。


コメント