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終点の樟脳

そのバスだけ、雑巾を絞る水が温かくなった。冬の車庫で、ほかの車を拭いたあとの水は指が痛むほど冷たい。最初は給湯器のある場所で汲んだのかと思った。けれど斎藤さんのバケツから分けてもらっても、座席を二つ拭けば湯気が出た。

私はバス会社から清掃を請け負う会社で、夕方の短い時間だけ働いていた。勤め始めて一か月で、まだ車の呼び名を覚えていなかった。斎藤さんは車番を言わず、青い座席のやつ、後ろが高いやつ、と教えた。問題の古いバスは、樟脳のやつ、と呼ばれていた。

樟脳の匂いなら知っていた。祖母の箪笥を開けると鼻の奥が痛くなる、あの匂いだった。バスへ入ると同じ匂いがした。乗客の服についたものが長く染みこんだのだろう。斎藤さんはあまり気にしていなかった。匂いを落とすより、窓の指の跡を残さないことを厳しく言った。

古いバスを売ることになり、座席の奥まで掃除する指示が来た。主任は普段使わない洗浄機を持ってきて、説明書を置いていった。私と斎藤さんが二人でやることになった。私は新しい道具が好きだった。汚れた水が透明なタンクへ戻るのを見ていると、仕事が進んだ気がした。

一番後ろの席を洗い始めると、樟脳の匂いが薄くなった。代わりに、外で焚いた草の煙のような匂いがした。私は窓を少し開けた。斎藤さんが振り向き、もう開けたのか、と言った。換気したほうがいいと答えると、そうだな、と窓の留め金を確かめた。

後部座席の右端が、人の座った形に沈んだ。私は吸水口を離し、腰を浮かせて自分の手を見た。今拭いた席ではなく、一つ隣だった。沈み方はゆっくりで、尻の跡と背中の跡が別々にできた。斎藤さんへ知らせようとしたが、彼は前のほうで手すりを拭いていた。

私は沈んだところを避けて左側を洗った。終わって見ると、右端は元へ戻っていた。濡れて柔らかくなったクッションが動いたのだと思った。吸い取った水のタンクには、灰色の小さな糸屑が浮いていた。底へ溜まった水は、触っていないのに温かさが分かるほど曇っていた。

「暑うなったな」
斎藤さんが言った。暖房はつけていなかった。彼は自分の上着を脱ぎ、後部の窓の小さな取っ手へ掛けた。更衣用のロッカーが車庫の入口にある。私も無意識に同じところへ上着を掛けた。袖が座席へ触れ、濡れると思って取り直した。そのとき、斎藤さんが自分の上着を見て固まった。

「あっちへ持っていこう」
彼は二枚をまとめて持ち、降車口へ急いだ。私は機械のホースを避けてついていった。扉を下りたはずなのに、足元はまだバスの床だった。目の前に運転席があり、その向こうに、斎藤さんが立っていた。彼も降りたつもりだったらしい。上着を抱えたまま後ろを振り向いた。

扉の外に、車庫の白い壁が見えた。一段下りるとそこへ出るはずだった。私はもう一度足を出した。床が足裏へ上がってきた。低い段差を越えた感触のあと、運転席の横へ戻っていた。扉を通り抜けられないというより、乗るときの一歩だけを何度も踏んでいた。

斎藤さんは乗務員用の小さな扉を試した。外へ開いた。身体を半分出すと、車庫に置いた脚立の影が彼の胸を横切った。私は肩をつかんだ。斎藤さんの下半身が、すぐ後ろの通路へ伸びていた。彼が戻ると扉は普通の扉に見えた。私は見たことをうまく説明できなかった。

窓の外を、人が歩いていた。主任だと思って手を振った。男は車内を見ず、ゆっくり後ろへ回った。同じ男が、次の窓から前へ戻った。斎藤さんが窓を叩いたが、男は止まらなかった。顔の高さだけが窓枠に隠れ、服は昔の作業着のように見えた。

私は携帯で主任へ電話した。すぐに出た。車から出られないと言うと、扉の操作を間違えたのではないかと聞かれた。開いていると答えても分かってもらえず、見に来てくださいと頼んだ。主任は五分で行くと言った。私はその五分を、機械の電源を切って待った。

洗浄機が止まると、座席のあちこちで人が息を吐いた。眠っていた客が揺れの変化で目を覚ますような音だった。斎藤さんが車内を見回した。前から三列目の上に、頭の形の湿りが浮いていた。私はその席をまだ洗っていない。薄い水が布へ広がり、次の席へ滲んだ。

主任が外へ来た。窓越しに私たちを見て手を上げ、正面の扉へ回った。斎藤さんがそこへ立ち、待ってくださいと言った。主任の顔が見えなくなった。私たちの足元では、一段目のゴムだけが濡れていた。誰も乗ってこない。携帯が鳴り、主任が、どの車だ、と聞いた。

「いま前に来ましたよね」
「前にはいるよ。二人とも見えないけど」
私は窓のそばへ行き、主任の名前を呼んだ。彼は車の横にいると言った。そこには作業着の男が立っていた。携帯を持つ手は見えない。私は主任へ、もう扉を触らないで、と頼んだ。電話の向こうで彼が強く息を吸った。

斎藤さんは後ろの席へ戻った。掛けてあった上着の跡へ手を置き、布を撫でた。「前にも、ここだけ暖かかった」。彼は昔この会社で運転をしていた。退職してから清掃へ来たのだと、その時に初めて聞いた。乗客の忘れ物を確かめると、誰もいないのにここが暖かい日があったという。

「降り損ねた人ですか」
私が聞くと、斎藤さんは分からないと言った。終点で誰もいないと確認し、折り返して走る。暖かくても座っている姿がなければ、それで出していた。「乗ってるかどうか、俺には決められなかった」。彼は上着を椅子へ置き、窓を大きく開いた。

樟脳の匂いが、外へ長く流れた。煙は見えないのに、車庫の景色が細く歪んだ。外の男が窓へ近づいた。片手を差し入れた。指の節が太く、爪に黒い汚れがついていた。斎藤さんは手を取らず、座席の背を押した。沈んだクッションが少し戻り、男の腕も外へ引かれた。

私は全部の窓を開けようとした。斎藤さんが止めた。どこへ出るのか分からない、と言った。確かに外が車庫ならば、さっき主任の声と姿が重ならないはずはない。私は前方の窓だけを細く開けた。冷たい風が入った。そこに主任の懐中電灯が当たり、初めて指先が普通の寒さになった。

「そこは見える」
携帯の主任が言った。私は窓の縁へ手を置いたまま、動かないでくださいと頼んだ。後部の窓は開いたままで、そこから暖かい空気が流れ出ていた。車内の真ん中だけが、ひどく狭く感じられた。通路の両側で、見えない膝が私の服へ触れた。

一人ずつ降りているのだと思った。誰も扉を使わず、暖かさだけが後部の窓へ寄っていった。私の耳の脇で、小さく礼を言う声がした。女の人だった。続いて、子供を急かす声。私は返事をしなかった。終点の名前を聞かれたら、答えられないと思ったからだ。

斎藤さんが窓から顔を離した。腕時計を見て、もう遅いな、と呟いた。時計の針は夕方のままだった。私の携帯は十時を過ぎていた。主任は応援を呼び、車庫の外で待っていると言った。声は近いのに、扉の一段がどうしても外へ続かなかった。

最後列の左端だけ、沈みが残った。私はそこを最初に洗ったことを思い出した。樟脳の匂いはほとんど消えている。雑巾を当てると暖かく、水で濡らしても温度が戻った。斎藤さんは席へ座ろうとし、腰を浮かせた。「先にいる」。私は頷き、彼を通路へ戻した。

洗浄機のタンクで、水が揺れた。動かしていない。灰色の糸屑がまとまり、人の指に似た形になった。私は蓋を開けた。ぬるい湯気と一緒に、古い服の匂いが上がった。あの席から吸い取ったものが入っているのだと思った。捨てる場所を探すと、斎藤さんが雑巾を広げた。

二人で少しずつ水を布へ戻した。私はタンクを傾け、斎藤さんが濡れた雑巾を座席へ押し当てた。汚れを落とすために使った時間を、逆向きに使っていた。新しい洗浄機は綺麗なまま、足元にあった。主任へ、少し待ってください、と伝えた。理由を話す余裕はなかった。

最後の水を戻すと、椅子の沈みが二つになった。斎藤さんが一歩退いた。大人の尻の跡の前に、小さな足の窪みができていた。誰かを膝に載せていたらしい。布が、二人分の重さをゆっくり返した。後ろの窓の外で、男が子供へ何かを言った。今度は言葉が聞き取れなかった。

窓を閉めるかと私が尋ねると、斎藤さんはもう少し待とうと言った。私は前方へ戻り、冷たい窓の縁へ手を置いた。外に主任の姿が見えるのを確かめてから離した。冷たい指の跡がガラスに付いた。後ろの窓の取っ手に、私たちのものではない袖が一枚掛かっていた。袖口から何も出ていない。私が見ていると、布だけが外へ引かれた。

扉の下に、車庫の床が見えた。さっきまでと同じ場所なのに、今度は深さが違った。斎藤さんが私の腕を持ち、同時に一段を下りた。足裏へ冷たいコンクリートが当たった。主任が駆け寄り、何をしていたのかと怒った。私たちにはまだ車内にいたとしか説明できなかった。

上着は車の中に残した。主任が取ってくれると言ったが、二人とも朝でいいと答えた。私たちは車庫の外の縁石へ座り、空が明るくなるまで待った。主任は途中で事務所へ戻り、毛布を持ってきた。斎藤さんがそれを私へかけた。彼の手から樟脳の匂いがした。

バスはすぐには売られなかった。整備の人が調べることになった。扉も窓も普通に動き、原因は分からなかったと聞いた。私は別の車の清掃を続けている。斎藤さんも辞めずにいる。座席の温かさを確かめる仕事が増えたが、誰も会社の作業手順には書いていない。

明け方の車庫の舗道に、ときどき樟脳の匂いが残る。そこを歩く人はいない。斎藤さんは車の窓を一つだけ開け、しばらくその前で待つ。私は水を汲みに行く。戻るころには窓が閉まっている日も、まだ開いている日もある。どちらの日も、彼は最後の一人が見えたとは言わない。

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