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靴を脱ぐ道

遥が靴を脱いだので、私は少し驚いた。舗装していない道ならともかく、そこは住宅の間のアスファルトだった。砂利も、割れた貝殻も落ちていた。
「足、痛いの?」
小声で聞くと、遥は靴を片手にまとめ、私のサンダルを指した。
脱いで、という意味だった。

高校の同級生に会いに行った帰りだった。海の近くの町で、私は十年ほど前まで住んでいた。遥は今もそこにいて、昼間は漁協の事務をしていた。泊まっていけばいいという言葉に甘え、彼女の家へ歩いていた。

駅前で飲んだが、酔うほどではなかった。二人とも三十を過ぎ、翌朝まで騒げる体力もなかった。結婚した人の話、別れた人の話、会えば毎回同じような話をした。
遥の新しい恋人の話を聞こうとしたころ、後ろの足音に気づいた。

男の人だった。振り向いたとき、一瞬だけ、街灯の下で見えた。上着を肩にかけ、こちらを見ていた。私たちが横へ寄っても追い越さず、少し離れて歩いていた。
遥は喋るのをやめなかった。話の内容だけが急に変わり、明日は何時に出るの、と訊いた。

歩く速度を少し上げると、足音も速くなった。遅くすると遅くなった。
私は携帯を出した。知り合いに電話をするふりをしたが、声が出なかった。後ろの人に聞かせるための台詞が、一つも思いつかなかった。
遥が私の肘をつかんだ。
「こっち」

海へ出る路地だった。私は、そっちは暗い、と言いかけた。遥は携帯の画面をこちらへ向けた。短い文字が出ていた。
「家に行かない」
私はうなずいた。後をつけられたまま彼女の家へ入るわけにはいかなかった。

角を曲がったところに、閉まった魚屋があった。昔から知っている店だった。脇の狭いところに人が一人ずつ入れる隙間があり、店の裏を通って次の通りへ出られた。
子供のころ、近道にして怒られた場所だった。

遥はそこで靴を脱いだ。
私のサンダルは、歩くたび踵が鳴った。音を消したいのだと分かり、私も脱いだ。素足の下で、砂がざらりとした。
二人で魚屋の脇へ入った。壁に肩を擦り、置いてある籠を避けた。

足音が角まで来た。そこで止まった。
私たちは裏の扉の陰にしゃがんだ。表の通りからは見えなかった。魚屋の薄い壁の向こうで、冷蔵庫が唸っていた。
足音は店の前を行ったり来たりした。遥は自分の口へ指を当てた。

やがて足音が遠ざかった。
私は肩の力を抜いた。遥はまだ動かなかった。見に行こうかと目で訊くと、首を振った。
そのすぐあと、海側の暗がりで、砂を踏む音がした。

店の裏から海までは、防波堤を挟んで短い浜があった。表の道から回れば、かなり歩く。さっきの人がそんなに早く回れるはずはなかった。
足音は、浜のほうからまっすぐ来た。
砂を踏む音が止まり、アスファルトの上で、私のサンダルと同じ音になった。

私は手に持ったサンダルを見た。
踵を叩く、乾いた音が二つ。少し間が空き、また二つ。
私が歩くときと同じだった。右の踵だけ、底が削れて音が大きくなっていた。

遥が私の手首を握った。私は彼女を見た。遥は口を開けていたが、声を出さなかった。
足音が裏の扉の前まで来た。
薄い金属の扉が、外からゆっくり押された。鍵がかかっているので開かない。押す力が少し強くなり、蝶番が鳴った。

私たちは扉のすぐ脇にいた。押している人から見れば、手を伸ばすだけで届くところだった。暗くても、目が慣れれば見つかる。
私はなぜ見つからないのか、そればかり考えた。

扉から圧力が抜けた。
次に、遥の靴の音がした。硬い底の、こつ、こつという音だった。足音は私たちの前を通り、店の反対側へ行った。
遥は目を閉じた。涙が一筋、顎へ落ちた。

何分待ったか分からない。音が聞こえなくなってからも、二人とも動けなかった。
私の携帯が震えた。さっき電話の画面を開いたとき、間違って母へ発信していたらしい。折り返しだった。
私は音を切った。母から、どうしたの、と短いメッセージが来た。
指がうまく動かず、「むかえ」とだけ打った。

母は町の反対側に住んでいた。すぐには来られない。何度かやり取りをして、今いる魚屋の名前を伝えた。
母は、そこにいて、と返した。
それを遥に見せると、彼女はうなずいた。私の手をまだ離さなかった。

魚屋の中で、戸が開く音がした。冷蔵庫の音が少し大きくなり、男の人が、誰かいるのか、と言った。
私は顔を上げた。店の人なら助けてもらえる。
遥が首を振った。

声は裏の扉の向こうからした。扉の隙間に、細い光が見えた。鍵を外す音がした。
「そこ、汚いから。中、入ったら」
私は立ちかけた。遥が腕を引いた。爪が食いこんだ。
店の人だよ、と言おうとしたとき、遥が携帯を見せた。

「この店、閉めた」
私は看板を思い出した。魚屋の名前は変わっていなかった。シャッターが下りていたことを、夜だからだと思っていた。
冷蔵庫の音が、壁の向こうで止まった。

扉が少し開いた。光はなかった。暗い店の中から、潮の匂いがした。生魚の匂いではなく、引いたあとの浜の匂いだった。
私は遥と一緒に、壁沿いに移動した。足の裏に何かが刺さった。声を出さず、体を引いた。

「何で、脱いだの」
扉の中から男の声がした。
怒ってはいなかった。知りたいだけのようだった。
「履いてたら、分かるのに」

遥が先に立った。私の手を引き、来たほうとは反対へ進んだ。古い網の入った籠があって、跨がなければならなかった。私は片足を上げたまま、つりそうになった。遥が肩を貸した。
店の中で、私たちの靴音がした。二人分、すぐ横をついてきた。

隙間を抜けると、明るい通りだった。
私は一瞬、助かったと思った。けれど、そこは来る前にいた道だった。海側へ抜けたはずなのに、駅の看板が見えた。魚屋の正面へ戻っていた。
店の脇を、ただ一周しただけなのかもしれない。私は自分の知っている道を信じられなくなった。

車のライトが近づいた。
母の車だった。私は道路へ出て両手を振った。母は急に止まり、窓を開ける前に、助手席の鍵を外した。
遥を先に乗せ、私は後部座席へ入った。母は何も聞かずに車を出した。

走り始めると、窓の外で足音がした。
車のすぐ横、歩道からだった。私のサンダルと、遥の靴。車の速度に合うはずのない間隔で、こつ、ぱた、こつ、ぱた、とついてきた。
母が、座って、と強く言った。私は窓へ近づけた顔を戻した。

大きな通りへ出ると、音は消えた。
母はコンビニの明るい駐車場へ入り、そこで初めて振り向いた。
「誰が、追ってきたの」
私は、男の人、と答えた。
母は遥を見た。
「二人?」
遥は首を振った。私も一人しか見ていなかった。

母が魚屋の前へ来たとき、二人の人影がいたという。私たちのすぐ後ろに、一人ずつ。靴を持っていた私たちが車へ駆け寄っても、その二人は、ゆっくり歩いたままだった。
「どんな人だった」
私が聞くと、母は答えるまで少し間を置いた。
「顔、見えなかった。二人とも、下を見てたから」

警察には、後をつけられたと話した。魚屋の脇へ逃げたことも、車で迎えに来てもらったことも話した。途中から、どう説明してもおかしくなるので、足音のことはうまく言えなかった。
遥は、閉まった店の中から声をかけられた、と言った。そこは調べてもらえた。

店の裏の扉は、内側から板で塞がれていた。倉庫として使うため、別の入口を作ったのだという。中に人が入った形跡はなかった。
冷蔵庫も、もうなかった。
私たちが隠れていた場所には、湿った砂が薄く残っていた。海が近いので、それ自体は珍しくないと言われた。

遥はその夜、私の母の家へ泊まった。足を洗うと、私の踵に小さな貝殻が刺さっていた。遥が毛抜きで取ってくれた。彼女の足にも細い傷がいくつもあった。
靴を脱げと言ってごめん、と謝られた。
私は、脱がなかったら見つかってたと思う、と答えた。

遥は首を振った。
「私、音、聞こえたから脱いだの」
いつから、と聞くと、最初に後ろを歩いていた人のとき、と言った。
「私らが止まっても、同じ音が続いたでしょ」
私はそこまで気づいていなかった。

彼女が言うには、後ろの足音は、私たちの歩き方を少し遅れて繰り返していた。角を曲がる前に私がサンダルを引きずった音も、同じようにした。遥が立ち止まって鞄を持ち替えたときの、靴底をねじる音まで。
「一人なのに、二人分だったから」

その町へは今も帰る。遥とも会う。ただ、帰りは車を呼ぶ。店を出る前に、車が着いたことを確かめる。
大げさだと思われても、気にしないことにした。

母は私のサンダルを捨てた。片方の底が剥がれかけていたからだという。遥もあの靴は処分した。
でも、靴が悪かったとは思っていない。買い替えれば済む話なら、どんなによかっただろう。

先日、遥と駅まで歩いた。昼間で、人も多かった。彼女が急に立ち止まり、私も止まった。
足音が一つ、遅れて止まった。
振り向くと、小学生の子がランドセルを背負っていた。私たちが怖い顔をしたので、戸惑っていた。

私はすぐに道を譲った。子供は小さく会釈して、走っていった。
遥はまだ動かなかった。
私は彼女の肘をつかみ、子供が角を曲がるまで、二人でそこに立っていた。

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