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検温の時間

父は、熱が下がったら電話する、と言った。下がったあとの知らせを待つより、今の具合を知りたい。私がそう答えると、父は笑い、もう大丈夫だ、と言い直した。熱は三十八度あった。私はその日の仕事を切り上げ、飲み物と着替えを持って父の家へ行った。

一人暮らしになってから、父は風邪を引くと大げさになった。とはいえ、今回は声が細かった。玄関を開けると、寝室の奥から小さく返事がした。布団の上に座り、両足を毛布で包んでいた。暑いのか寒いのか聞くと、足だけ冷たいと言った。顔には汗が浮いていた。

診療所で診てもらい、薬ももらっていた。領収書と説明の紙が食卓に並んでいたので、私はそれを読んだ。水分は取れていた。苦しさも今はないと言う。症状が変われば連絡することにして、その夜は泊まった。父は私が用意した食事を半分食べ、残りを朝に食べるから捨てるなと言った。

体温計は、いつもの電子式だった。先端が銀色で、表示窓の縁が黄ばんでいた。三十八度一分と出たものを受け取ると、手の中で温かかった。測った直後だからだろうと思い、私はスイッチを切った。表示が消えた瞬間、足元に置いた紙袋が鳴った。

中に、青い手袋が入っていた。持ってきたものではない。父の家で見つけたものかとも思ったが、指の付け根に見覚えがあった。親指だけ違う糸で編んである。高校の家庭科で作り、父へ渡すと言ったまま片方しか仕上げなかった手袋だった。もう何年も前に、実家の片づけで捨てたはずだった。

父に見せると、あったのか、と言った。私が捨てたと話しても、どこかに残っていたんだろう、と答えた。父は手袋を自分の右手へはめた。小さくて指が途中までしか入らない。ああ、温かい、と言って、すぐに眠ってしまった。私は体温計を卓へ置き、紙袋の底を確かめた。

翌朝、父の額は冷えていた。本人も楽になったと言う。ところが測ると、四十度二分と出た。私は別の体温計を買いに走った。新しいほうでは平熱に近かった。古いものが壊れたのだろう。父は古い体温計を捨てようとする私を止めた。借り物だという。二十年以上、自宅で使っていたものが借り物だとは、初めて聞いた。

私が小学生のころ、父は出張先の下宿で高熱を出した。世話をしてくれた家主から体温計を借り、そのまま鞄へ入れてしまった。次に行くとき返すと言ったが、仕事が変わって行かなくなった。電話も一度したきりで、思い出すたび、今度、と考えた。私は返せばいいと言った。父は、もう家がない、と答えた。

去年、その町を通って探したそうだ。家のあった場所は駐車場になっていた。家主の連絡先も分からず、結局持って帰った。父は体温計のケースを開いた。蓋の裏に、小さな赤い糸が挟まっていた。自分のものと取り違えないよう、借りたときから入っていたのだという。

私は古い体温計のスイッチを切った。青い手袋が、父の布団の上で立ち上がった。指の先を上へ向け、何かを掴むように開いた。父は片手を毛布の下へ入れていた。手袋は誰もはめていなかった。私がつかむと、熱くてすぐ離した。布団の中で、誰かが短く咳をした。

父は起きていた。口も閉じていた。私は布団をめくった。足は二本あり、その先にもう一足、裸の足があった。父の踵へ爪先を揃え、同じ方向に向いていた。色が少し黄色く、くるぶしの骨が大きかった。私が全部めくり上げると、足は消え、畳の上に汗の跡が残った。

「足、もう冷たくない」
父は穏やかに言った。私は、見えなかったの、と聞いた。
「何が」
父の脚はいつもより細かった。半日でそんなに痩せるはずがない。私は父のすねを見た。小さいころ、港の段差で転んだという長い傷がなかった。父は自分の脚を撫で、いつもこうだと答えた。

携帯の写真を見せると、父はズボンをはいている写真ばかりじゃないかと笑った。それもそうだった。人の脚を確かめるために写真を撮っておくことはない。私は古い体温計を缶へ入れ、蓋をして寝室の入口の棚に置いた。青い手袋は別の袋に入れた。父を居間へ移し、寝室の布団を片づけようとした。

掛け布団を畳むと、下に座椅子の背があった。父が以前使っていた緑の座椅子だった。腰を悪くしてから背に手をついて立つので、買い替えようと私が言い、古いほうを粗大ごみに出した。新しいものを買うのを忘れ、父は普通の椅子でいいと言った。畳の上の座椅子は、その捨てたものだった。座面が熱を持っていた。

私は缶を開けた。体温計の表示は消えていたが、もう一度押すと、四十度二分が残っていた。前の値を表示する機能だと分かっている。けれど電源を切ると、座椅子の背に肩が出た。布張りの上から、人の肩の丸みがせり出した。私は電源を入れ直した。肩はその姿勢で止まった。

父は居間からこちらを見ていた。額がまた濡れていたので、新しい体温計で測ると熱が上がっていた。私は診療所へ電話し、朝との違いを説明した。もう一度来るよう言われたので、父を連れていった。古い体温計と手袋は置いていった。二人で車へ乗るまで、背後で誰かが布団を折りたたむ音がした。

受診のあと、父は自宅で様子を見ることになった。薬の飲み方と連絡が必要な症状を、私も一緒に聞いた。帰り道で父が、お前の家で寝るのは駄目か、と言った。私はそのつもりでいた。父の荷物を取りに戻り、寝室へ入ると、畳んだはずの布団が広げてあった。

中に人がいた。掛け布団から出ているのは手首だけだった。青い手袋を片方だけはめていた。顔の位置には枕があり、その上に浅いくぼみができていた。私は扉のところから動けなかった。父も後ろへ来た。私は入口の棚から缶を取って胸に抱えた。父は何も言わずに立っていたが、彼にはその手が見えていると分かった。

父が一歩入ると、中の人がずれた。場所を空けてくれたのだ。布団の端から、汗のついた腿がのぞいた。父の足に消えていた、長い傷があった。父は後ろへ下がった。布団の手が毛布を持ち上げ、早く、と言うように内側を示した。声はしなかった。喉の奥で痰を動かす音だけが続いた。

私は父の腕を引いた。その拍子に缶を落とした。蓋が外れ、古い体温計が床を滑り、座椅子の下へ入った。表示が消えた。布団の中で手が増えた。片方ずつ、袖口の違う腕が、布団を自分のほうへ引いた。床に置かれた座椅子も、誰かが座るように深く沈んだ。部屋の空気が急に暖かくなった。

私たちは玄関へ戻った。私は泣いていた。怖かったのもあるが、自分が約束したことを捨てていたせいだと思った。手袋も座椅子も、忘れていたほうが楽だった。父へ、ごめん、と言うと、父は首を振った。
「今、それを言われると困る」
私は顔を上げた。父は自分の両足を見ていた。

「俺が返さなかったんだ。お前が謝ったら、こっちへ渡したことになる気がする」
それが正しいのかは分からない。父も分かっていないはずだった。けれど私は、言おうとしていた謝罪をやめた。父は靴を脱いだ。部屋へ戻るというので止めると、体温計を置いたまま誰かを呼べない、と答えた。

私が取りに行った。父には玄関で待ってもらった。寝室の手前で靴下を脱ぎ、足音を立てずに近づいた。座椅子の下へ手を入れると、冷たい指に触れた。熱のある人の手なのに、指先だけが氷のようだった。私は目を閉じ、床に触れた硬い体温計をつかんだ。指は追ってこなかった。

電源を入れた。表示は四十二度になっていた。測れる数字がそこまでなのか、実際にその熱があるのか分からない。私は握ったまま廊下へ戻った。手の中がひどく熱かった。父は濡らしたタオルを持ってきていた。それで体温計を包むと、布の中で誰かが息を吐いた。

寝室の布団が薄くなった。座椅子の背から肩が下がった。私はもっと冷やそうと台所へ向かったが、父が途中で止めた。自分の足を押さえていた。触れると、足首から先が異様に冷たかった。新しい体温計の数字だけでは分からない冷え方だった。父は、急にはやめてくれ、と言った。

私たちは居間へ座り、体温計を包んだタオルを広げた。熱い場所と冷たい場所が、布の上にいくつもあった。母が生きていたころ、誰かが熱を出すと額に載せていたタオルだった。父はその端だけを持った。私が真ん中へ手を当てると、知らない人の呼吸に合わせて、布が少し上下した。

窓を開けた。夜風が入った。寝室の布団を全部めくることも、体温計を切ることもせず、二人で待った。父はときどき水を飲み、私は新しい体温計で様子を見た。時間が経つにつれ父の足が温まり、タオルの熱は弱くなっていった。布団の中の咳は、声の違う誰かへ順番に移った。

どれほどいたのかは分からない。女の咳のあとに男の咳がして、次は小さい喉の鳴る音になった。私は眠ってしまいそうで、父に話しかけた。手袋は、本当は両方仕上げるのが面倒になったのだと言った。父は知っていた、と答えた。座椅子も、買わなくてよかった、と言った。それで何かが消えることはなかった。

夜が明けるころ、最後の咳が止まった。寝室の布団には人の形がなくなり、座椅子も消えていた。青い手袋だけが残った。父は寝室へ戻らず、居間で眠った。私はその隣で起きていた。古い体温計は、電源を入れたままタオルへ包んであった。

父の熱は翌日には下がった。しばらく私の部屋で過ごし、食事が取れるようになってから家へ戻った。手袋は私が持っている。もう片方を編もうと思っても、同じ色の毛糸が見つからない。父は急がなくていいと言うので、その言葉に甘えている。

古い体温計は切っていない。電池がいつまでもつのか考えたくない。夜に見ると、数字が上がることがある。誰かが具合を悪くしているのかと父が言う。私たちはそのたび居間へ椅子を二つ並べ、窓を少し開ける。寝室へ入っていく足音が止むまで、どちらも横にならない。

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