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朝までの客席

人形を笑わせると、客が一人減った。

僕がそれに気づいたのは、同じ場面を三度演じた後だった。舞台は公民館の二階にあった。間口が二メートルほどの、小さな人形劇の舞台だった。黒い布で下半分を隠し、演者はその後ろに腰を下ろして人形を動かす。

祖母が三十年続けた一座の、最後の公演だった。座員は祖母を含めて四人。平均年齢は七十を越えていた。毎月呼んでくれていた保育園が統合され、集まる場所もなくなったので、これで終わりにすると決めた。

僕は音を出す係として呼ばれた。子供の頃に見た芝居だったから、台詞もだいたい覚えていた。若い大工が山で不思議な老人に会い、何でも入る袋をもらう。欲張って家まで袋へ入れてしまい、最後は自分の知恵で取り戻す。二十代の僕には、正直、古い話に思えた。

それでも祖母が、最後だけは一緒にやってほしいと言ったので、会社を早く出た。

公演は夕方からだった。客席には折り畳み椅子が三十脚ほど並んだ。半分くらい埋まった。子供連れの母親が数組と、近所の老人たち。前の列に、小さな男の子が一人で座っていた。青いシャツを着ていた。保護者がどこにいるのか気になったが、始まる直前で聞けなかった。

芝居は問題なく進んだ。僕が音を出す場面を一度間違え、祖母が人形の首を振って誤魔化した。客が笑った。僕も布の後ろで笑った。

最後の場面で、大工の人形の口が壊れた。下顎を動かす糸が切れたのだった。口を閉じられず、笑い顔のままになった。祖母はそのまま、やれやれ、と言わせた。客が一人立った。青いシャツの男の子だった。椅子から下りると、その場で消えた。

僕には、そう見えた。隣の椅子の陰へ隠れたのかもしれない。だが通路には出ていなかった。

幕を下ろした。挨拶をしようとして、祖母が手を止めた。幕が下りなかった。滑車に何かが引っ掛かったのだと思い、僕は立ち上がった。布の上から頭を出すと、客席が満席になっていた。見たことのない人ばかりだった。服装は普通だった。買い物帰りの女、作業服の男、中学生くらいの子供。みんな黙って前を向いていた。

さっきいた親子連れは見えなかった。公民館の時計は、午後七時を指していた。公演は三十分の予定だった。いつの間にそんなに時間が経ったのか分からなかった。祖母が僕の服を引いた。座るように、手で示した。
「続けて」
小声だった。

「もう終わったよ」
「まだ見てるから」
祖母は、大工の人形を持ち上げた。同じ最後の場面を演じた。家を袋から出し、火鉢を元へ戻し、もう欲張らないぞ、と言う。人形が笑った。今度は、通路側の老人が消えた。椅子は動かなかった。座っていた形のまま、輪郭だけが薄くなった。背凭れが透け、後ろの人の膝が見え、その後には何も残らなかった。

僕は隣の座員へ声を掛けた。滝口さんという男だった。彼は首を振った。客席を見ずに、人形の袋を畳んでいた。祖母が三度目を始めた。人形が笑うと、今度は女が一人消えた。女は笑わなかった。口を開け、泣く時のように顎を震わせていた。消える直前、両手を膝に伏せた。

その手に、指がなかった。

僕は音を止めた。祖母がこちらを見た。
「止めないで」
僕は小さなスピーカーへ手を戻した。録音した笛の音が流れた。祖母の額に汗が出ていた。ほかの座員も同じだった。誰も説明しようとしなかった。説明できるほど分かってはいないのだろうと、僕は後から思った。

客席の後ろのドアが開いた。青いシャツの男の子が入ってきた。さっき消えた子だった。今度は顔がなかった。目鼻のない、白い丸い顔だった。男の子は空いている椅子へ座った。僕は舞台の人形を見た。大工の人形の頬に、青い線があった。

もともとの塗装ではなかった。目の下に細い線が増え、少しずつ、さっきの男の子に似た顔になっていた。僕は祖母の手を掴んだ。
「これ、顔が変わってる」
祖母は頷いた。
「分かってる」
人形の口が閉じた。糸は切れたままだった。なのに、ゆっくり顎が上がった。

人形の目が僕を見た。笑った。祖母は泣いていた。手に持つ人形だけが、楽しそうだった。僕は人形を下ろそうとした。人形の足が、舞台の縁を掴んだ。布の上から、木の指が何本も下りてきた。大工の人形には、こんなに長い指は付いていなかった。小道具を持つための、丸く作った手だったはずだった。

客席の後ろから、椅子を引く音がした。顔のない人が増えていた。消えた客が、戻ってきていた。祖母が人形を演じるたび、一人ずつ顔を取られていた。僕はようやくそのことを言葉にした。滝口さんが袋を開いた。人形用の小さな袋の中に、顔が幾つも入っていた。

老人の顔、女の顔、子供の顔。薄い膜になって重なり、互いの目や口が透けていた。滝口さんは袋を閉じた。
「最後って言ったからかな」
彼はそう言った。誰を責めるでもない声だった。公民館で昔から芝居を見ていた人たち。もう来られなくなった人、亡くなった人、引っ越して消息の分からない人。祖母たちには、客の顔に覚えがあるらしかった。

「あの子も、よく来たの」
祖母は青いシャツの子を見た。
「お母さんが、いつも遅くなってね。終わってから、ここで待ってた」
僕は、どこまでが知っている事実で、どこからが今考えたことなのか分からなかった。顔のない子は、黙って座っていた。

人形は、次の客を見ていた。

僕は音を止めた。祖母が手を伸ばしたが、今度は再生しなかった。

代わりに、舞台の横から客席へ出た。立ってみると、椅子の間はひどく狭かった。膝を避けようとしても、避ける人の身体が見えなくなる。足元が冷たく、誰かの息が耳のすぐそばにあった。僕は最前列へ行った。青いシャツの子の隣へ座った。

祖母が舞台の後ろから僕を見た。僕は大工の台詞を言った。
「袋はもう、要らない」
子供の頃、祖母と何度も練習した台詞だった。舞台の人形が首を傾けた。本当の最後の台詞ではなかった。祖母は昔、この場面を変えた。袋を返してしまうと、もう不思議な話が続けられなくなるから、持って帰ることにしたのだと聞いたことがある。

僕は古いほうの台詞を続けた。
「持ってると、また入れたくなるから」
滝口さんが顔を上げた。袋を持ち上げた。人形が、その袋へ手を伸ばした。祖母は人形の腕を止めた。木の肩が軋んだ。客席の人々が、こちらへ顔を向けた。顔のある人も、ない人も、同じように向いた。

僕は膝の上で手を組んだ。続きを覚えていなかった。次の台詞は、山の老人が言うはずだった。だが老人の人形は、もう壊れて仕舞ってあった。祖母が一人で大工を動かすようになって、十年以上経っていた。僕は隣の子へ話しかけた。
「返すなら、どこがいいと思う」
返事はなかった。

子供の顔のないところが、少し動いた。口の位置だけが窪んだ。僕は待った。急がせると、その子の顔まで舞台へ取られてしまう気がした。後ろの席で、老人が咳をした。前の時計が進んだ。七時五分だった。窓の外は真っ暗だった。祖母は人形の腕を押さえ続けていた。滝口さんは袋を開いたまま待っていた。

僕は、子供へもう一度聞くのをやめた。自分で返す場所を決めることにした。
「ここへ置く」
僕は隣の空いた椅子を指した。
「あんたたちが、持って帰ればいい」
誰に言っているのか、自分でも分からなかった。滝口さんが舞台から出てきた。

袋を椅子へ置いた。椅子の上で、袋が広がった。人の顔が、一枚ずつ浮いた。風はなかった。客の前へ流れ、顔のないところへ重なった。目が戻り、口が戻った。青いシャツの子にも、最初に見た顔が戻った。その子は、僕を見た。笑わなかった。

ただ、小さく頭を下げた。舞台の人形の口が、開いた。顎の糸は切れたままで、木の中から細い手が出た。祖母はその手を自分の両手で包んだ。
「もう、おしまい」
声は普段と同じだった。子供に、片付ける時間だと教える時の声だった。人形の顔から、色が剝がれた。

頬も眉も、薄い紙になって落ちた。下には何も描かれていなかった。客席の人たちが立ち上がった。一人ずつ、後ろのドアから出ていった。誰も拍手をしなかった。挨拶もなかった。長く待たされた帰りの列のように、静かに出ていった。最後に青いシャツの子が残った。

僕は、迎えは来るの、と聞いた。子供は頷いた。ドアの外に、女の人の手が見えた。子供はその手を取って出ていった。

明け方だった。時計は七時五分のままだったが、窓の外が白くなっていた。椅子は最初に並べた三十脚だけに戻っていた。祖母は人形を膝へ置き、座り込んでいた。僕が手伝おうとすると、首を振った。
「顔、描かないでね」
大工の人形は、白い顔のままだった。

僕は頷いた。座員たちと椅子を畳み、舞台の布を外した。最後まで残った袋は、誰の鞄にも入れず、舞台の真ん中へ置いた。公民館を出る時、僕は一度だけ振り返った。白い顔の人形が、空の客席へ向いていた。

祖母が扉を閉めた。

鍵を回す手は、いつも通り小さかった。僕はその手から荷物を受け取り、朝の道へ一緒に出た。

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