記録的な渇水だった。
鏡伏ダムの貯水率は一割を切り、五十年あまり湖底に沈んでいた集落の跡が水の上へ出ていた。旧県道の白いガードレール。屋敷の石垣。風呂場のタイル。湯呑みのかけらが乾いた泥の中で日を照り返している。
山あいの九月の空気は乾き切っていた。露出した斜面は白茶けた粘土の色をして、歩くたびに靴の下で乾いた音を立てる。
麓の町では先月から取水制限が続き、小学校のプールの脇に給水車が並んでいるという。水は今年この流域のどこへ行っても足りていない。
倉橋奈緒は測量機材を背負って斜面を下りた。

ダム補修会社の計測技師になって十一年目の秋である。渇水の年にしかできない取水塔と底部放流設備の調査を成し遂げれば、次年度の保守契約はほぼ確実に取れる。会社にとっても奈緒にとっても、落とせない現場だった。
現場は四人。
現場責任者の戸塚誠司は四十九歳のベテランで、十二年前の渇水時にもこのダムを担当している。ダム管理所からは設備担当の宮嶋邦夫が付いた。五十九歳。遠隔操作の利かない旧式の設備を扱える人間は、いまではこの人しか残っていない。
もう一人は環境調査員の三枝環、二十八歳。湖底に取り残された魚類と昆虫と植物を記録する係で、干上がった水たまりの鮒を数え、石垣の隙間の沢蟹を数えている。数えることが根っから好きなのだと本人は言う。記録用の橙色チョークの粉が、いつも指先についていた。
「昨日までで千二百匹です。数えた魚」
初対面の挨拶より先に、三枝はそう言った。
調査開始は午前六時。接近中の低気圧が明日の午後六時、三十六時間後に豪雨を運んでくる予報だった。雨が来れば湖底は再び沈む。使える時間は短い。
奈緒は斜面に測量鋲を打ち、実水位の基準点を作っていった。打った鋲は二十四本。
基準点の途中、取水塔に近い段丘で旧集落の祠の跡を通った。文化財の番号札の脇に、一枚岩を彫り抜いた上向きの鉢と、真下の台座に逆さ向きの鉢が据えられている。何を祀ったものかは、水没前の記録にも残っていないという。
上の鉢は乾き、内側に白い輪が段になって残っていた。逆さの鉢の内側には黒い水垢が同じ段を描き、こちらは今も湿っている。下向きに開いた石の内側だけが、乾かない。
奈緒は野帳に標高だけを控えた。五一三・九メートル。

その近くの砂利で、三枝が足を滑らせた。左の作業靴の踵が三角に欠け、三枝は破片を拾って笑った。千二百一個目です、と言って。
湖面の標高は五一二・四メートル。
双眼鏡を下ろした時、対岸の斜面に白いものが見えた。
濡れたように光る白い帯が一本、乾いた斜面を水平に走っている。測ると標高五一七・六メートル。湖面より五・二メートルも高い。
雨は一か月以上降っていない。あの高さまで水が来たのは三年前が最後である。
帯のすぐ上に、蛾がとまっていた。
数十匹の蛾が白い線に沿って一直線に並び、翅を閉じたまま動かない。線より下の斜面には一匹もいなかった。

「石灰か」
隣に来ていた戸塚が言う。
「土の成分が浮いたんだと思います」
奈緒はそう答えた。
答えながら胸の奥で数字が引っかかっていた。前夜の予備計測で同じ帯を測っている。あの時の値は五一七・二。測定表には載せず、機器誤差の欄に書いて横線で消した。
三年前、奈緒は別のダムで異常値を報告し、工事を止めたことがある。原因は計測機の故障だった。損害は会社が被り、過剰反応する技師という評価だけが残った。以来、説明のつかない数字を口へ出す前に、まず自分を疑う癖がついている。
石灰の帯が一晩で〇・四メートル上がる理由は、どの教科書にも載っていない。
載っていない数字は表にも載せない。それだけのことだと言い聞かせ、奈緒は次の基準点へ歩いた。
午前のうちに湖面は〇・六メートル下がった。
計画放流と蒸発を合わせれば計算の合う下がり方である。五一一・八メートル。数字そのものに問題はない。
問題は白い帯だった。
測り直すと五一八・二メートル。
湖面が下がった分だけ、正確に〇・六メートル上がっている。

偶然と呼ぶには揃いすぎた数字を、奈緒は今度こそ測定表に書き込んだ。書いた手が止まったのは、視界の隅で灰色のコンクリートが黒く光ったからである。
作業用斜路の上に、濡れた足跡があった。
裸足の跡である。
湖の側から一歩、また一歩と、誰もいない斜路の上に足跡だけが増えてゆく。踵が乾いたコンクリートへ落ち、指の跡がにじみ、次の一歩が前へ出る。歩く者の姿だけが、そこにない。
奈緒は動けないまま跡を目で追った。歩幅は乱れていない。急ぐ足取りではない。散歩に近い間隔で、見えない列は斜路を上ってゆく。
大人の足に小さな足が混じり、数えると十数人分になった。
足跡の列は白い帯の手前で、ぴたりと途切れている。
奈緒は声を出さなかった。出した瞬間に、この現象へ名前を付ける役目が回ってくる気がしたのである。
代わりに採取容器を出し、足跡の泥をすくった。

宮嶋が足跡の一つに屈み込んだ。定規を当てて二十三センチ、と読み上げる。子供の足の寸法を測る声は、機械の点検と同じ調子だった。
「報道が嗅ぎつける前に洗っておけ。幽霊だ何だと騒がれたら調査が止まる」
戸塚はそれだけ命じた。ブラシと川の水で擦っても濡れ色は薄れず、目地の奥から染み戻ってくる。放っておくと昼過ぎには跡形もなく乾いて消えた。
昼休みに簡易検査へかけた結果は、名前を付けるより厄介だった。
泥に湖底の粘土がまったく含まれていない。混じっていたのは乾いた花崗岩の粉と植物の花粉である。花粉の種は照合できた。ダムの下流側の山にしか生えていない低木のものである。
足跡は湖から上がってきたように見えた。
付着物は、湖と正反対の乾いた山から来ている。
正午に計画放流が終わり、底部ゲートは点検準備のため電源ごと閉じられた。ここから先、湖の水位を人が動かす予定はない。
午後の頭に、三枝が記録の手を止めて斜面を指した。
「虫が、線から下に一匹もいないんです」
「数え間違いだろう」
「甲虫も蟻も蜘蛛も、全部あの白い線の上で止まってます。境目に沿ってずらっと並んで、まるで見えない柵があるみたいに」
戸塚は鼻を鳴らし、捕虫かごから蛾を一匹つまみ出した。
「湿気に寄ってるだけだ」
言いながら、白い帯の下側へ蛾を放り投げた。
蛾は落ちない。
放物線の途中で羽ばたきが急に遅くなり、翅の動きが水を掻くそれに変わる。蛾は何もない空中をゆっくりと斜め上へ泳ぎ、白い帯の高さへ達した瞬間、糸が切れたように乾いた地面へ落ちた。

拾い上げると翅は乾いたまま動かない。
腹をつまむと口から透明な水が一滴だけ出た。
誰も湿気の話には戻らない。
奈緒は伸縮棒の先へ密閉型の作業灯を付け、白い帯の下へ差し入れてみた。三十秒数えて引き上げる。
灯具の外側は乾いていた。
透明な内部ケースの中に、水が満ちていた。
傾けると継ぎ目から水が糸を引いて流れ落ちる。無色で匂いもない。持ち帰った検体を顕微鏡で覗くと、湖水と同じ微生物が泳いでいた。
「湖の水と同じ生き物がいます。数も、たぶん同じくらい」
顕微鏡を覗いた三枝の声は、半音だけ高くなっていた。
外は濡れず、内側だけが浸かる。

染みならば逆である。
あの白い線は染みではない。水面なのだと、奈緒はそこで初めて考えた。目に見えない水が、乾いたこの谷を下から満たしつつある。湖の水が減るのと引き換えに。
考えはしたが口には出さなかった。
証拠は蛾一匹と作業灯一個。三年前の記憶が、まだ舌の根を押さえていた。
午後三時、奈緒は基準点の点検に回った。
打った鋲は二十四本。伝票にも野帳にもそう書いてある。
斜面には二十五本あった。

数え直しても二十五本である。増えた一本は他と離れた岩の上に打たれ、頭部に赤錆が浮いていた。今朝打った鋲に錆が出るはずがない。
「戸塚さん、これ」
呼ばれて近づいた戸塚は、錆びた鋲を見た瞬間に足を止めた。
日に焼けた顔から表情が抜け、喉仏だけが上下した。
「……この刻印、控えとけ。写真もだ」
「戸塚さん?」
「夜に話す。今は手を動かせ。雨が来る」
奈緒は鋲の写真を撮り、頭部の刻印を控えた。型録と照合すると、十二年前まで支給されていた旧規格品の刻印と同じである。
夕方、白い帯は作業拠点のすぐ下まで上がってきた。
湖面は五一一・三メートル。帯は五一八・七メートル。午後五時十分の値である。
撤収の判断を仰ごうと、奈緒が無線機へ手を伸ばした時だった。
斜面の下で三枝が声を上げた。
「試料ケース、置いてきちゃった」
「すぐ取ってきます。あれがないと、数えた千二百匹がいなかったことになります」
昼の調査地点に生物試料の保冷ケースが残っている。三枝が指先を橙色に染めながら数えてきた、湖底の生き物の三日分の名簿である。置いてある場所は、もう白い帯の内側だった。
「三枝さん、明日にして」
奈緒の声より、三枝の足の方が早かった。
三枝は斜面を二歩で下りる。
一歩目は、そこにいた。
二歩目が地面へ着く前に、いなくなった。
落ちたのなら音がする。地面に穴はない。まばたき一つの間に、三枝の形だけが景色から抜き取られていた。
「三枝さん!」
奈緒は叫んで駆け寄り、白い帯の手前で足を止めた。

帯の内側の乾いたコンクリートに、黒い染みが浮く。
染みは靴底の形になった。
左の踵が三角に欠けている。今朝、祠の近くの砂利で欠けた、あの靴である。
濡れた靴跡は一歩ずつ増え、斜面を横切り、取水塔の方向へ歩いてゆく。
「三枝! 戻れ!」
戸塚が怒鳴った。靴跡は止まらない。
奈緒は白い帯へ顔を寄せ、名前を呼ぼうと息を吸った。途端に喉の奥で何かが逆流した。

口から透明な水があふれ、顎を伝って乾いた地面に落ちる。
肺が水を吸い込んでいる。線のこちら側に、乾いたまま立っているのに。
宮嶋が奈緒の襟をつかんで引き戻した。咳き込むと水は止まった。地面には、落ちた水滴だけが痕跡として残っている。
三枝の靴跡は、取水塔の入口で見えなくなった。
宮嶋がプレハブへ走り、有線で管理所と消防へ通報した。午後五時十分、環境調査員一名が行方不明。伝えられる事実は、それだけだった。
「車を出す。管理所まで下りて態勢を組み直す」
戸塚の判断は退避だった。手順としては正しい。
退出路は一本しかない。湖岸の作業道は一度低い沢地へ下り、そこから峠道へ上がる線形になっている。
ヘッドライトの先で、白い帯が道を横切っていた。
沢地の一番低い部分が、すでに帯の内側へ沈んでいる。
戸塚は資材運搬用の無人小型車を先に走らせた。電動の運搬車は境界を越え、十メートルほど進んだところで止まる。

車体は乾いている。
前照灯のレンズの内側に水面が揺れ、排気口とモーターの継ぎ目から水があふれ出した。
誰も言葉にしない。宮嶋が計器へ、戸塚が運搬車の止まった先へ、順に目を移した。
帰り道は、目に見えない水の底に沈んでいる。
プレハブへ戻ると、消防からの折り返しが届いていた。防災ヘリは前線の風で朝まで飛べない。峠越えの徒歩隊が着くのは早くて明日の夕方で、豪雨と同着になる。着いたところで、境界を越えた者は運搬車と同じ側へ入る。それはこちらが一番よく知っていた。
宮嶋は有線の端末で設備記録を呼び出した。老眼鏡の奥の目が細くなる。
「底部放流の作動回数が、帳簿より一回多い」
「昼に閉めて、電源も落としました」
「落ちとる。儂は幽霊は信じん。信じんが、計器の数字は誤魔化さんよ。ゲートは閉じたまま、湖の水だけが減り続けとる」
谷のどこにも流れ出す水音はない。湖の水は、誰の目にも触れない場所へ移されている。
白い帯は、その分だけ上がり続けていた。
窓の外で風の質が変わり始めている。
「十二年前にも、あれは出た」
戸塚が雨合羽の内側から角の潰れた書類袋を出した。黄ばんだ報告書の写しである。日付は十二年前。起案者の欄に戸塚の名がある。

前回の渇水の折にも、乾いた斜面に白い線は現れたという。作業員の柏木が昼の点呼から消え、水の引いた湖底には三日間、泥の足跡だけが現れ続けた。足跡は毎朝少しずつ、取水塔へ近づいていたという。
戸塚は見たままを所見に書いた。線の高さも足跡も、消えた鋲のことも。
報告書は受理されなかった。会社の結論は夜間の転落事故。所見は参考の判を押されて本編から外され、手元には写しだけが残る。
「柏木はな、右手の小指がなかった。若い頃にプレス機へ持っていかれて、手袋をいつも二重にしてな。……岩の上のあの鋲は、あいつの型だ」
「今度は数字がある」
戸塚は写しをしまいながら言った。
「十二年前の儂には、それがなかった。だから測れ。数字で殴る以外に、あれを書類へ引きずり出す方法がない」
奈緒は野帳を開き、その日の数字を時刻順に並べる。
実水位五一二・四、陸側の線五一七・六。

実水位五一一・八、線五一八・二。
実水位五一一・三、線五一八・七。
どの行も、足すと一〇三〇・〇になる。前夜の予備計測も同じだった。
片方が減った分だけ、片方が増える。ならば水を返せば上がりは止まる。線が止まれば境の際で三枝を捜せる。紙の上ではそこまでの算段だった。線を下げて返させる手は、紙のどこにもなかった。
湖へ注ぐ川は、調査のために迂回導水路へ全量を回してある。導水路の取り口の堰までは、線より高い管理道を歩いて行ける。
午後九時、宮嶋が堰の点検用の分流管を湖側へ開けた。流れはバケツを傾けた程度である。一時間後の計測で、線の上がる速さが流入の分だけ鈍っていた。管を閉じると元へ戻り、開け直すとまた鈍る。鈍っても線が下がることはなかった。
「分流管じゃ焼け石だ。本管を戻すしかない。旧の導水門、塔の中の手動水門だ」
宮嶋が図面を叩いた。十二年前の渇水調査で使ったきり、誰も触っていない設備である。最後に操作した記録の名は、柏木だった。
取水塔は、もう白い線の内側にある。
行けば、三枝と同じ側へ入る。外から見えず、声も届かない。なお行くかどうかの話だった。
雨を待つ手はない。豪雨は迂回路を伝ってダムの外へ抜ける設計で、門を開けない限り湖へは一滴も入らない。待てば、線だけが上がってゆく。
時計は午後十時を回った。豪雨の到達まで、二十時間を切っている。
「儂が行く」
宮嶋が立ち上がった。
「あの水門は癖がある。図面を読めるだけの若いのじゃ回せん」
「一人では無理です」
奈緒は自分の口が動くのを、半分他人事のように聞いていた。
「計測係が要ります。線の高さを見る目がないと、引き返せません」
三年前から数字の前で口をつぐんできた人間が、数字を理由に前へ出ていた。戸塚は何も言わず、命綱の確保役を自分から引き受けた。
分流管は開けたまま、車両だけを峠側の路肩へ移してある。宮嶋は管理所の防災倉庫まで管理道を歩き、潜水作業用の空気呼吸器を二組運んで戻った。加圧試験と面体の点検が済んだのは、日付が変わる頃である。
進入は午前五時半。計測に足りる光の分だけ、朝を待つと決めた。
午前五時、試験を終えた空気呼吸器を背負い、命綱の安全索を腰に結んだ。索の端は戸塚が境界の外で確保する。無線機は運搬車と同じ末路をたどる。合図は索の引き数である。二回で前進、三回で停止、連続なら全力の回収。

進入前の計測は、実水位五一一・〇に線五一九・〇。和は一〇三〇のまま、夜のあいだも進んでいた。
五時半、白い線の手前で奈緒は一度だけ空を見た。東の稜線が薄く白み、雨雲の先触れが低く流れてゆく。
境界を越える。
一歩目で、耳の奥に圧力がかかった。
二歩目で、呼吸器の排気が泡になった。
銀色の泡は肩口から昇り、頭上五メートルの高さで音もなく消える。白い線の高さである。服は乾いている。髪も乾いている。押し寄せる水の感触だけが、乾いた身体の内側にあった。
水深にすれば五メートル余り。ただの数字である。息を吸うたび、その数字を身体が信じなくなってゆく。
振り返ると戸塚の姿が白く濁って見えた。すりガラスの向こうに立つように輪郭が滲む。向こうからは、もうこちらが見えていないはずだった。
足元のコンクリートには、無数の足跡が浮かんでいた。

大人の裸足。小さな裸足。古い地下足袋。編み上げの作業靴。現代の安全靴。乾いた地面に濡れ跡だけが折り重なり、そのすべてが同じ方向を向いている。
取水塔である。
左踵の欠けた靴跡も、その流れの中にあった。
輪郭の崩れた古い跡の上に、真新しい濡れ跡が重なっている。この列はずっと前から、少しずつ足されてきたものである。
塔の内部は真の闇だった。防水仕様の携行灯は点けた途端にレンズの内側へ水面が生まれ、十分と保たずに沈んで消える。予備の灯りを使い捨てにしながら、二人は螺旋階段を下りた。
階段は八十段ある。奈緒は段数を数えながら下りた。数えていないと呼吸器の音の向こうにある別の音を、耳が勝手に拾い始めるからである。
水音ではない。衣擦れに似た乾いた音だ。誰かが階段の壁に沿って、二人と同じ速さで下りてゆく音だった。灯りを向けても壁の他には何もない。
「数えるのをやめるな」
前を行く宮嶋が言った。この人も同じ音を聞いている。そう分かっただけで、膝の力が戻った。
中程の踊り場で、宮嶋の面体が手すりに触れて浮いた。
マウスピースが外れる。
水を吸えば、運搬車の前照灯と同じことが肺で起こるはずだった。
咳は出ない。
「……息が、できる」
面体を戻した宮嶋の声が、初めて揺れていた。入り切った身体には、この水は呼吸を許すらしい。線を跨ぎ切らない者だけが、溺れる。三枝の息が続いたわけも、たぶんそこにある。
その壁に、手形が現れ始めた。
濡れた手形である。大きな手、小さな手、指先の擦り切れた手袋の形。手形は通路の分岐のたびに現れ、水門へ向かう正しい側にだけ、点々と並んでいた。
道標のつもりなのか。

同じ場所へ、招き入れているのか。
どちらとも決めかねたまま、奈緒は手形の並ぶ側の通路を選び続けた。他に選びようがない。
最下層の水門前は、小さな広間になっていた。
床の隅に古い工具箱が置かれ、十二年前の調査班の備品札が付いたままである。
蓋の上に、埃が一粒もなかった。
手動水門の操作輪は、大人の背丈ほどの鋳鉄の車輪だった。
宮嶋が固着防止剤を吹き、二人がかりで力をかける。
動かない。
十二年分の錆が、軸を骨まで噛んでいる。
呼吸を合わせ三度目に体重を沈めた時、車輪の向こう側の握りに黒いものが浮かんだ。
濡れた手形である。

大人の男の手。右の小指が、ない。
「柏木さん、ですか」
奈緒の声は呼吸器の中でくぐもった。返事の代わりに手形が増える。
小さな手が握りに並ぶ。細い手が重なる。擦り切れた軍手の跡が、輪の下側を支える位置に浮かぶ。
車輪が、動く。
二人の力を待たずに、である。奈緒と宮嶋は回したのではない。錆の悲鳴を上げて回り始めた輪に手を添え、振り落とされないよう付いていっただけだった。
軸の奥で水の走る音がした。
導水門が開き、迂回していた上流の川が、水位の落ちた湖へ戻り始めた音である。地響きに似た水音が塔の壁を伝い、乾いた広間の空気を震わせた。
「水が入った。この流量だと、湖面は一時間に数センチだな」
宮嶋が計器を読む。実水位、五一一・〇二。〇三。爪の伸びる速さである。線の上がりが止まるにも、半日はかかる速さだった。
それなのに、奈緒の耳の圧は目に見えて軽くなってゆく。
見えない水が、数字より速く引いている。
二人は階段を駆け上がり、塔の外へ出た。
東の空が明るい。白い線は目に見えて斜面を下ってゆく。線が通り過ぎた地面から、濡れた足跡が次々と乾いて消えていった。
奈緒は下りながら測った。実水位五一一・〇四。線は五一六を割り、五一五へ落ちてゆく。
足しても一〇三〇に届かない。
釣り合いが壊れている。戻した水の何百倍もの速さで、向こう側が退いてゆく。
「靴だ! 三枝の靴だ!」
境界の外から戸塚が叫んでいる。姿の滲みが薄れ、声が届くようになっていた。
後退する線のすぐ上に、左踵の欠けた靴跡が現れていた。
靴跡は線を追って斜面を下りてくる。見えない水面の際を、際のまま歩いている。
線が三枝の背丈を割る。
何もない空中に、まず髪が現れた。
額が、目が、肩が続く。水面を割って上がってくる者の順で、三枝が宙に生まれてゆく。
膝から下はまだない。線より下は、まだ向こう側である。
「三枝さん!」

水面の上へ突き出された右手の指先が、橙色に汚れていた。
奈緒はその手首をつかむ。冷たい。水の底から引く重さが、腕の付け根まで伝わってくる。
「引け!」
線の外へ回り込んだ戸塚が、反対の腕をつかんだ。
足首のあたりに、大小の手形がまとわりついている。引き留めているのか、押し上げているのか、輪郭だけでは読み取れない。
線が踵を割った瞬間、三枝の全身がこちら側の重さになった。三人はもつれて乾いた斜面に倒れ込んだ。
髪は乾いている。服も乾いている。その口と鼻から、堰を切ったように透明な水が噴き出した。吐かれた水は、乾いた土に黒い染みを広げてゆく。
奈緒は反射で腕時計を読んだ。午前七時十二分。
「脈はある!」
宮嶋が首筋に指を当てて叫んだ。戸塚は自分の上着を脱いで三枝を包み、濡れてもいない髪を何度も拭った。
白い線は、なおも下がってゆく。
斜面を下り、湖岸を渡り、旧集落の段丘へ達する。あの石鉢の高さ、五一三・九を割った瞬間、谷じゅうの足跡が一斉に消えた。
線はまだ下れたはずだった。湖面まで、乾いた斜面は二メートル以上残っている。それを使わずに白い帯は鉢の前で薄れて消えた。
終わる場所に鉢が祀られていたのか、鉢の前だから終わったのか。水を返したから引いたのか、門を開けたから引いたのか。境まで下りてきた人間を、向こうが初めて数え返したのか。決める材料はどこにもない。
撤収の間際、奈緒は岩の上の錆びた鋲を抜いた。鋲は拍子抜けするほど軽く抜ける。先端が、乾いた岩の中で濡れていた。
写真を撮り、番号を振って証拠袋へ封じる。
三枝は麓の病院へ搬送された。
三日後に見舞った病室で、三枝は窓の外の雀を数えていた。唇だけが小さく動いている。

指先の橙色は、きれいに落ちていた。
肺から出た水の量が嘘のように、受け答えは明瞭である。消えていた時間を、三枝は数分だと思い込んでいた。実際には十四時間である。
吐いた水の検査結果は、退院より先に届いた。混じっていたのは下流の山の低木の花粉である。初日の斜路の足跡と、同じものだった。
透明な水の底を歩いていた、と三枝は言った。
息は続いたという。方向も分からないまま、明るい方へ歩いた。壁のようなものに触れるたび、乾いた別の場所が一瞬だけ見えたという。
「そこにはダムも湖もありませんでした。山の斜面に、人がたくさん立っていて」
白い天井を見たまま、三枝は続けた。
「全員、頭を下げてるんです。深く、深く。誰に下げてるのかは、見えませんでした」
それきり三枝は目を閉じた。
二か月後、奈緒は会議室で委員会の最終報告書を受け取った。
物証の頁には、作動記録と内部だけが浸水した作業灯、足跡と鋲の写真、三枝の肺から出た水が並ぶ。どれも否定されず、どれも説明されなかった。結論欄に残ったのは、原因不明の四文字である。
初日の測定値を除外した件は自己申告のとおりに載り、奈緒の処分の欄は口頭注意の五文字で終わっている。
戸塚の名は名簿になかった。十二年前の写しを添えて所見を出し直し、受理を待たずに退職したと、欄外に一行だけある。
末尾の私見には取り消し線が引かれていた。陸側の水位は消滅を確認していない、の一行である。根拠不十分と朱の判がある。
ダムは点検休止の名目で立入禁止となった。豪雨で水位の戻った斜面に、白い線も足跡も出ていないと報告書は結ぶ。集落の跡も二つの石鉢も、再び水の下である。
錆びた鋲は袋のまま、廊下の奥の資料室へ移されている。
三枝は三週間で職場へ復帰した。
書類の上では、すべてが収まるところへ収まっている。
六週間後の夜、奈緒の携帯に三枝から電話があった。
復帰した三枝は、下流の川で追跡調査に入っている。報告は三枝らしく数字から始まった。
「堤体の直下だけ、川虫の数が合いません。あと、蛾が数えきれないくらい死んでます。壁に沿って、一直線に」
翌朝、奈緒は依頼票のないまま鏡伏へ向かった。
社用車で県道を上がる間、川の水位は平常に見えた。浄水場の貯水池が朝日を受けて光り、団地のベランダには洗濯物が出始めている。二万人が暮らす、ありふれた朝の町だった。
ダムの下流側に立つのは久しぶりである。
高さ六十メートルのコンクリートの壁が、乾いた灰色に光っていた。
亀裂はない。滲みもない。計器の誤作動を疑いながら双眼鏡を上げた奈緒は、接眼レンズの中で息を止めた。
壁面を、白い線が一本横切っている。
乾いた堤体の中腹を、濡れたように光る水平な線が、端から端まで走っていた。
レーザー距離計で高さを測る。
線の標高は、その朝の貯水位と小数点以下まで一致した。
壁の向こうの水面と、同じ高さ。
線の下に、奈緒は立っている。息はできる。耳の圧もない。あの谷の規則なら、ここは水の底のはずだった。
試しに作業灯を壁面へ寄せる。透明なケースの内側に水滴が一粒生まれ、三十センチ離すと消えた。
線は壁という一枚の面にしか立っていない。面には、まだ厚みがない。
足して一定の釣り合いも、もうどこにもない。あの朝に壊れたきりである。
線には蛾がとまっていた。
数百匹の蛾が線に沿って貼りつき、一匹残らず死んでいる。どの翅も、線より上を向いて閉じられていた。
双眼鏡を下ろした奈緒の足元、ダム直下の作業道路に、それはもう始まっていた。
濡れた裸足の足跡が、点々と続いている。
列はダムの基部から始まり、作業道路を下り、川沿いの県道の方向へ延びていた。その先には浄水場があり、団地があり、さっき通り抜けてきた朝の町がある。
戻ってくる向きの足跡は、一つもない。
奈緒は足跡の一つに屈み、定規を当てた。二十三センチ。あの日、宮嶋が斜路で読み上げたのと同じ寸法である。
列の起点に、鋲が打たれていた。
頭部に赤錆の浮いた測量鋲。調査の最中に増え、証拠品として回収した二十五本目である。保管袋ごと会社の資料室に封じたはずのものが、乾いたコンクリートの継ぎ目に深々と打ち込まれていた。
奈緒は手袋をはめ、鋲の頭をつかむ。
引く。
鋲は動かない。
力を込めた指の下で、乾いたコンクリートが黒く変わり始める。
鋲を中心に、水の滲みが円を描いて広がってゆく。
輪は波紋のかたちのまま、奈緒の靴の爪先へ静かに迫ってくる。
雨は、まだ一滴も降っていない。



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