弟は、私が道に迷うと必ず笑った。腹を立てるでもなく、じゃあ戻ろうか、と言って笑う。その日はそれがいちばん腹立たしかった。
自転車を借りて海沿いを走るはずだったのに、私は港へ出る角を一つ早く曲がっていた。道は坂になり、民家が減り、最後には杉林の脇へ出た。携帯で確かめると港は山の向こうだった。坂を下ってやり直すほかなかった。
「いいよ。海、逃げないし」
弟は自転車から下り、日陰へ押していった。
二人で旅行をするのは初めてだった。父の家を売ることが決まり、書類を揃えるために帰省したついでだった。父が死んでから実家を管理したのは弟で、売ろうと言ったのは私だった。昨日まで不動産屋で値段の話をしていたので、今日くらい別のことをしたかった。
私は費用を振り込めば済むと思っていた。弟が家の修繕のために何日も休みを取ったことは、昨日初めて知った。
道端に女の人がいた。水色の帽子を両手に持って、林を見ていた。六十くらいだろうか。上着の袖を肘までまくり、裾の長いズボンに布の靴を履いている。畑仕事の休憩中に見えたが、畑も道具もなかった。
弟がこんにちはと言うと、女の人はこちらを向いた。
「下から来たの」
「はい。港へ行く道を間違えて」
私が言う前に弟が答えた。女の人は、そう、と言ったきり、帽子のつばを左右から押しつけた。ひっくり返した帽子が、浅い器のようになっていた。
帽子の中で何かが動いた。白っぽいものだった。虫かと思った。女の人がつばを緩めると、内側の暗いところへ引っ込んだ。
私は弟の自転車のハンドルをつかみ、向きを変えるのを手伝った。後ろの泥除けに擦り傷があった。借りるときにもついていた傷だと言うと、弟は分かってると笑った。
「一つだけ頼まれてくれない」
女の人が声をかけた。私たちに帽子を差し出したので、私は反射的に手を引っ込めた。
「持ってるだけでいいの。すぐだから」
何をする間かは言わなかった。弟も受け取らずに、どこかへ持っていくんですか、と訊いた。
「ここで。動かなくていいから」
帽子の奥で、爪が布を引っかくような音がした。
私は虫が苦手なのでと断った。本当のことだった。女の人は怒らず、そうなの、とつばを合わせた。中身が見えなくなると、音も止まった。
弟が、役所かどこかへ電話しましょうか、と言った。何を頼まれているのか分からなかったが、困っている人を置いて帰るのは気になったのだろう。
女の人は首を振った。
「手が足りないだけ。電話は足りてる」
その言い方が妙に可笑しく、弟は少し笑った。女の人も笑った。二人はほんの一瞬、私には分からない話で通じ合ったように見えた。
坂を下る前に、弟が靴紐を結び直した。自転車を私に預けてしゃがんだ。そのとき、林の奥から男の声がした。
「そっちでいいよ」
近くにもう一人いるらしかった。私は帽子を持ってくれそうな人がいるなら、と言いかけたが、女の人はこちらを見ていなかった。帽子の内側へ顔を寄せ、口だけを動かしていた。
今の声、と弟が立ち上がった。
「誰か呼びました?」
女の人は答えなかった。二人で顔を見合わせた。風で枝が擦れる音がしていた。私は何も聞こえなかったふりをして、弟に水を飲むか訊いた。早く戻りたかった。
女の人の帽子から、指が出た。
人差し指だけがつばへ掛かっていた。大人の爪があり、第一関節に細かな皺があった。虫ではなかった。ただ、私の小指の爪くらいの長さしかなかった。
その指が帽子を掴み、次にもう一本、脇へ並んだ。女の人は親指で二本を押し戻した。乱暴ではない。鍋の蓋に挟まりそうな布を直すような手つきだった。
私は自転車を倒した。二台が重なり、ベルが鳴った。弟がすぐ起こそうとしたが、私は触らないで、と言った。自転車に言ったのではなかった。何を触るなと言いたかったのか、自分でも分からなかった。
女の人は私たちを見て、困ったね、と言った。
「そんなに大きな音を出すと」
林の中から、もう一度男の声がした。今度は一人ではなかった。女の声もした。小さく咳をする人がいて、誰かが、いいから、と言った。どれも私たちと同じ高さから聞こえた。木々の間に人の姿はなかった。
女の人は帽子を胸へ抱いた。つばの合わせ目から白い顔が半分出て、すぐ引っ込んだ。
顔が小さいことより、その顔に覚えがある気がしたのが怖かった。どこで見た誰なのか、思い出そうとすると吐きそうになった。弟に尋ねてはいけないと思った。
弟は二台を起こした。私は礼も別れの言葉も言わず、サドルへ跨がった。
「走るな」
低い声で弟が言った。
彼はまだ自転車の横に立っていた。ブレーキに手を掛け、私の前輪を見ていた。私は足を地面につけ直した。
何かがタイヤのすぐ前を横切っていた。
白い裸足だった。二本の脚の間に、濃い色のズボンの裾が垂れていた。小さな男が、道を渡っていた。身体のつくりも歩き方も、人間そのものだった。膝を少し庇い、片方の肩を下げて歩く。私たちを見上げようとはしなかった。
一人が通りすぎると、次が来た。次も男だった。さらにその後ろから女が出てきた。林からではなく、女の人の足元からだった。帽子は胸に抱いたままだったから、中のものが落ちたわけではなかった。
女の人が私の足を指した。
「ちょっと、そっちへ」
私は足を上げられなかった。上げたあとにどこへ下ろせるのか分からなかった。弟は自分の自転車を路肩に寝かせた。それから私のハンドルを支え、左のペダルを動かした。私は両足をペダルに載せた。自転車へ座ったまま、弟に支えてもらっていた。
小さな人たちは私の靴があった場所を歩いていった。一列ではなかった。立ち止まって待つ人も、別の人を追い越す人もいた。若い女がひとり、空の両腕を赤ん坊でも抱くように曲げていた。そこに子供は見えなかった。
女の人はその女へ顔を近づけた。
「まだ持ってるの」
声は優しかった。小さな女は歩くのをやめた。空の腕を少し持ち上げ、見せるようにした。女の人は何度か頷いて、じゃあそのままで、と言った。
私は弟の名前を呼んだ。
「大丈夫。倒さない」
弟は私を見ず、ハンドルを両手で握っていた。私は違うと言いたかった。自転車の話をしているのではなかった。けれど、何を言いたいのかまとまらず、弟の腕だけを見ていた。日焼けしていないところに、腕時計の白い跡があった。
私の左足の下で、人が立ち止まった。さっき最初に道を渡った男だった。戻ってきたのか、同じ格好の別人なのかは分からなかった。その男だけが、こちらを見上げた。
「お姉さん」
と呼ばれた。
誰に向けた呼び方なのか、尋ねる気にはならなかった。私は下を向かず、弟の手に爪を立てた。男はもう一度呼んだ。顔を見ないでいると、やがて諦めたように私の下から離れていった。
女の人はつばを開き、小さな人が歩いていった道の端へ帽子を置いた。中へ入った者は一人もいなかった。皆、帽子のそばで立ち止まり、女の人の顔を見上げた。
女の人は腰に手を当てた。
「入らないなら、もう持っていかないよ」
返事は聞こえなかった。それでも女の人は、何か言い返されたように唇を結んだ。
弟が自転車を半歩引いた。私はサドルに座ったまま、その動きについていった。足元はもう空いていた。弟が私の靴を指し、地面へ下ろしていいという身振りをした。
私はゆっくり左足をついた。靴底が道路に触れるまで息を止めていた。
私たちは乗らずに坂を下った。弟が先に自転車を押し、私がそのすぐ後ろへ続いた。少し離れると怖かったが、前輪を弟の踵へ当てないようにするだけでも難しかった。
背後から女の人が呼んだ。
「さっきの、やっぱり頼めない」
弟は振り向かなかった。
「できません」
はっきり言った。それきり、私たちは何も言わなかった。
家並みが見えてから、道を間違えたことを謝った。弟は、あんなのがいるなんて知らなかった、と言った。私のせいではないと言いたかったらしいが、慰めにはならなかった。
海へは行かなかった。自転車を返し、店の椅子を借りて迎えのタクシーを待った。弟が缶のお茶を二つ買ってきた。私は開けずに、手の中で持っていた。
弟は自分のお茶を半分ほど飲んだあと、低い声で訊いた。
「足元にいた人さ。姉ちゃん、知ってる人だった?」
知らない、と私は答えた。あの顔を思い出しかけて、もう一度、知らないと言った。
弟は缶を持ったまま黙った。
タクシーが来て、運転手がトランクを開けるまで、何も話さなかった。乗り込む直前、弟が私の後ろから肩を押した。強い力ではなかった。後部座席の奥へ行け、という合図だった。
「あの人、俺にも呼んだ」
弟は小声で言った。
「兄ちゃんって」
私は奥へ詰めた。弟が乗り、ドアが閉まった。狭い座席で二人の膝がぶつかったが、どちらも脚を引かなかった。


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