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空気を抜く

午後の講習が終わると、私は人形の胸を開けた。講師の柳沼さんはまだ廊下で質問を受けていた。受講者は帰ってから倒れた人を助けることまで考えているのに、私は早く段ボールを畳みたかった。最後の片づけまで残ってくれる人は、いつもいなかった。

医療用の教材を貸し出す会社で、私は配送と講習の補助をしていた。その日使ったのは、口から入れた空気で胸が膨らむ、上半身だけの人形だった。中の薄い袋を外して処分するのも私の仕事だ。赤いケースの人形に手を入れたとき、袋が指先へ吸いついた。静電気だと思って振ると、指の腹をなぞるように、もう一度、内側から押された。

「それ、置いといて」
戻ってきた柳沼さんが言った。私の手にある袋を見ていた。
「使ったやつですよ」
「分かってる。置いといて」
昼休みに食べたパンの袋も同じ机に残っていた。そちらを片づけかけると、いいから休んで、と声が荒くなった。私は返事をせず、外した袋を人形の脇へ置いた。

柳沼さんは月に何度かうちの会社の講師を引き受けていた。独立する前のことを聞くと、病院だとか消防だとか、こちらが想像しやすい職場の名を挙げず、長くこういうことをしています、と答える人だった。資格や契約は営業の担当が確かめている。私は詮索する理由もなかった。ただ、受講者が帰ってからも人形に話しかける癖は、好きになれなかった。

「あの人、帰りたくなさそうでしたね」
私が言うと、柳沼さんは頷いた。廊下に残っていた男は、自分が見つけたときには妻が冷たくなっていた、と講習の途中で話した。誰も訊いていなかった。柳沼さんは止めず、他の受講者も聞いていた。予定より四十分遅れたのは、そのあとだ。男が自分だけもう一度練習したいと言った。手順がうまくできると点く緑の表示を、男は一度も点けられなかった。最後にようやく緑になったとき、柳沼さんは男と握手をした。

私はケースの留め具を拭きながら、次から質問の時間を決めてもらえませんか、と頼んだ。会社へ戻ると、倉庫の鍵を持つ社員が待っている。自分の都合を言うだけなのに、つまらない人間になった気がした。
「人に向かってそんなことは言えないでしょう」
柳沼さんは私を見なかった。人形の脇に置いた袋を、両手で包んでいた。

袋は膨らんでいた。下敷きより少し大きい、半透明の平たい物だ。口に繋がる細い部分には何もついていない。柳沼さんが口を寄せているわけでもなかった。そこへ空気が入り、へこんだ。置かれた机の上で、吸って、吐いていた。

「先生」
声を掛けると、柳沼さんは両手を開いた。袋が逃げるのを待つような開き方だった。しかし袋は机を離れなかった。丸く膨れ、それから萎んだ。端にある小さな印刷の数字が、繰り返し山の上へ持ち上がった。中身は透けて見えた。何も入っていなかった。人形から外して机に置いた小さな表示器が、緑に光っていた。線は繋がっていない。私が裏の蓋を開けて電池を外しても、緑の小窓は消えなかった。柳沼さんはその光へ何度も目をやった。

「こんなふうになったのは、今日が初めてですか」
私には人形の仕組みしか分からない。空気を押し出すところも、吸い込むところもない一枚の袋が、自分で膨らむことはない。その程度は知っていた。
柳沼さんは答えなかった。
「お仕事で、見たことあるんですか」
「いま、息をしているでしょう」
答えになっていなかった。

私は机から離れた。開けた人形の胸に、硬い板とばねが見えていた。いつもなら蓋を戻し、ケースへ収めればいい。今日は袋の入っていた隙間だけが、やけに広く感じられた。柳沼さんはそちらへ見向きもしない。指二本で袋の端を撫でていた。撫でられるたびに、薄い膜が少しの間ぴんと張った。

「営業に電話します」
「誰を呼ぶんです」
「分かりません。私一人で決められません」
柳沼さんはようやく顔を上げた。
「私もいる」
だから怖いのだとは言えなかった。見慣れた人が、当たり前の顔で目の前の物に触っている。こちらが慌てると、私だけが取り乱しているように見えた。

電話に出たのは、倉庫で待っている小西さんだった。私は片づけに時間が掛かっていることを詫び、袋が動いている、と言った。口にしてから、もっと別の言い方があっただろうと思った。小西さんは何の袋かを訊いたあと、映像にできるか、と言った。通話を切り替え、携帯を机へ向けた。袋は止まっていた。

柳沼さんも見ていた。さっきまで膨らんでいた膜は机に貼りつき、細い部分だけがねじれていた。小西さんに揺らしてみてと言われ、私は携帯を左手へ移した。
「触らないで」
柳沼さんが私の右手を掴んだ。
その手の下で、袋が一度だけ大きく膨らんだ。小西さんが、あ、と言った。

「何をした?」
何もしていない、と答えた声が二人分重なった。小西さんは電話を切らず、机の端へ置くように言った。今からそちらへ行く。そう聞いて、私は肩の力が抜けた。柳沼さんは私の手首を放さなかった。強く握っていたことに気づいていないらしく、小西さんが呼びかけても、袋ばかり見ていた。

膜の中央に、皺が寄り始めた。使い古しの手袋を丸めたような、細い皺だった。最初は一方向に並んでいたのが、中央を囲むように曲がった。袋が萎むと、その皺だけが残った。次に膨らんだとき、中央に小さな穴が開いていた。もともとある空気の通り道は端にある。新しい穴は、膜のただの一面を、内側から食い破ったように開いていた。

ひゅ、と音がした。
柳沼さんの親指が、私の手首へ食い込んだ。痛いと言うと放してくれたが、本人の口も半ば開いていた。袋の穴がすぼまった。それから広がった。丸く開こうとして、うまくいかず、膜を折り畳んでいた。柳沼さんは机に顔を寄せた。私は肩を掴み、引き離した。

袋の内側に、茶色い点が現れた。柳沼さんの食べたパンの屑に似ていた。机へ落ちている分はそのまま残っていた。二つ、三つ。柳沼さんが片づけなかったパン屑を、私は数えた。膜の中の点も同じだけ増えた。濡れた茶色いものが、中で一つに固まった。

「やめさせて」
小西さんの声が携帯からした。
私は、こちらの誰に言われたのか分からなかった。柳沼さんが袋に手を伸ばす。その指には、小さな切り傷があった。紙の端で切ったような浅い傷だった。膜の中央が、赤くなった。穴のふちに、親指の傷より太い線ができた。赤いものは垂れず、袋の内側をゆっくり這った。

柳沼さんが手を引っ込めた。
「そういうことは、しなくていい」
教室で、受講者に使っていた声だった。うまくできたところをまず褒めて、いらない動作だけを止める声。袋が静かになった。穴を中心に寄っていた皺が伸び、印刷された数字が、元の向きへ戻った。私は柳沼さんを見た。
「何を教えていたんですか」
「何も」
今度は即座に答えた。

廊下に足音がした。小西さんが来るには早すぎる。さっきの受講者が、忘れた水筒を取りに戻っていた。入口の椅子に置いた青い水筒を手にし、男は私たちへ何度も頭を下げた。柳沼さんは机へ両腕を置いた。袋を隠す姿勢だった。
「さっき言えなくて。今日は本当に、来てよかったです」
男は疲れた顔で笑った。私には、立っているのもつらそうに見えた。

柳沼さんは、またいらしてください、と言いかけた。机の下から、細い音がした。袋は机の上にある。私は屈み、柳沼さんの腕の向こうを見た。膜が机の端から垂れ下がり、皺を伸ばしていた。縁を越えたところに、さっきの穴があった。男へ向けて開いていた。
私は水筒を持つ男の前へ出た。駐車券の処理が必要だと嘘をつき、廊下まで連れていった。

券は持っていないと言われた。自転車で来たのだ。
私は謝った。手を振って帰っていく背中が、廊下の角を曲がるまで動けなかった。教室へ戻ると、柳沼さんは袋を両手に包んでいた。袋が膨らむたび、十本の指が少しずつ開いた。閉じると、指も閉じた。薄い膜の中の赤は、もう見えなかった。

「空気を抜きます」
私はそう言った。折り畳んで捨てられるかどうか、確かめてもいない。それしか思いつかなかった。
柳沼さんは首を振った。
「せっかく、できたのに」
柳沼さんの目が、緑の小窓へ向いた。私は、せっかく何ですか、と訊かなかった。助かった、とあの男が言っていないことだけは覚えていた。

小西さんが来たとき、柳沼さんはまだ袋を持っていた。小西さんは入口で立ち止まり、私を手招きした。二人で廊下へ出た。扉を少し開け、柳沼さんが見えるところに立った。小西さんの右手には、袋を二重にした大きなごみ袋があった。倉庫を出る前に用意したのだと言った。私が、あれに触るつもりですか、と訊くと、小西さんは首を振った。
「君の話だけだったら、そうするつもりだった」

扉の隙間から、柳沼さんの背中が見えた。もう袋に向かって話していなかった。机の上に戻し、顔を近づけて、じっと待っていた。私は小西さんからごみ袋を受け取った。扉の向こうで、何かがゆっくり息を吐いた。柳沼さんの肩が下がった。
私の手の中でも、ごみ袋の底が、内側から丸く膨らんだ。

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