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返球を待つ

「昼には帰れますか」
浜田にそう訊かれ、牧野は十一時には終わると約束した。午後から自宅のエアコンの取付けがあるという。長引いたら先に抜けさせればいい。誘ったのは牧野なのだから、それくらいは何とでもなるはずだった。

牧野は草野球の人数が足りない時だけ、会社の同僚に声を掛けていた。浜田は春に入ってきた四十歳の人で、昼休みに一緒に飯を食う程度の仲だった。野球は小学校までだという。こちらだって運動不足の中年ばかりだから、と誘った時、梶原の顔が少し浮かんだ。昔はもっと動けたと、練習のたびに言う人だった。

当日、浜田は牧野より早く河川敷の駐車場へ来ていた。白い靴下を長く伸ばし、紺の帽子を被っていた。道具がないと聞き、牧野は自分用とは別に古いグラブを持ってきた。それを渡すと、浜田は片手にはめたり外したりして革をほぐした。梶原がそれを見て、柔らかい方を貸してやれよ、と言った。使い込んだ梶原のグラブが浜田へ渡り、代わりに牧野の古い方を梶原が受け取った。面倒見はいい。牧野も何か決める時には、この人の顔を見てしまう。

川に沿って三面続いたグラウンドの、一番下流を借りていた。外野には柵がなく、芝が途切れた先から丈の高い草が生えていた。その向こうに細い通り道があり、さらに川まで葦が続く。朝は犬を連れた人や、自転車を押した人が通った。釣りに下りる人もいたので、球を飛ばした時は大声で知らせることにしていた。

練習試合の相手が揃うまで、梶原がノックをした。浜田は右の外野に入った。初めの球は捕れたが、次はグラブの先に当ててしまい、その次は頭を越された。戻ってくる浜田へ、梶原が、最初の一歩が遅いんだ、と言った。まだ笑っていた。浜田も帽子を取り、すみません、と頭を下げた。

「声出していこう。黙ってると身体も動かんよ」

次の球を打つ前に、梶原はそう叫んだ。牧野も声を出した。浜田だけが言われているようにはしたくなかった。浜田は少し膝を曲げ、梶原へ顔を向けた。低い打球が手前で跳ねた。腰を落とし切れず、球を足の間へ通してしまった。白い球が草へ入っていった。

梶原がバットの先で地面を叩いた。浜田は振り向いて追った。牧野も少し走ったが、浜田が片手を上げたので止まった。その先の草の切れ目に、白いものが見えていた。通りかかった誰かが拾ってくれたのだろう。

「すみません。こっちへお願いします」

浜田が呼びかけた。返事はなかった。草際まで行き、川の方を覗き込んでいる。牧野のいる位置からは、浜田の膝から下が隠れていた。帽子の庇に手を当て、しばらく待ってから、もう一度、お願いします、と言った。

牧野は浜田の斜め後ろへ歩いていった。そこで球を受ければ、内野へ返せる。近づくにつれ、白いものは球ではなく、背中を丸めた人の肩のように見えてきた。そこに人はいる。ただ、何をしている姿なのかが分からなかった。立っているにしては低すぎて、しゃがんでいるにしては横に長い。草が邪魔なのだろうと、牧野は二、三歩右へずれた。

「浜田さーん。なかったらいいですよ」

内野から呼ばれた。浜田は牧野の方を向き、でも拾ってくれたので、と言った。その時、川の方から声がした。呼びかけてから、かなり間があった。牧野はもう球のことより、草の上へ見えている部分が肩なのか肘なのかを考えていた。
「どこへ」
年配の男の声に聞こえた。

浜田はグラブを高く上げた。
「ここです。ここへ投げてもらえれば」
少し間が空いて、梶原の、はい次行くぞ、という声がした。バットに球が当たった。浜田はグラブを上げたまま待っていた。牧野は、聞こえにくいのかもしれませんね、と声を掛けた。こちらへ身体を向けているなら、上げた手ぐらいは見えるはずだった。

浜田が半歩、草へ入った。土が低くなっているらしく、膝まで隠れた。それ以上は下りず、足元を覗いている。牧野は斜め後ろで待った。
「もうちょっとこっちへ」
川の方で声がした。今度も遅かった。最初より遠い。川を挟んだ向こう岸から呼ばれたように聞こえた。白いものは、すぐ前にあった。

「そっちじゃないですよ」
浜田は困ったように笑い、グラブを振った。
「ボール、こちらへ」

誰に言っているのか、牧野は訊きたくなった。浜田が目を向ける先は分かる。その先にある形も見える。それなのに、顔が見つからなかった。浜田には、どこかに顔が見えているのだろうか。白い部分の下に黒っぽいものがあり、その脇へ肌色が出ていた。木の枝と人の手足を同時に見間違えているような具合だった。目を細めても、見える部分がはっきりするだけだった。

その時、通り道を上流から自転車が来た。男の子が一度止まり、片足を地面について何かを拾った。
「これ、そっちの?」
白い球を持ち上げた。牧野が返事をすると、草の低い所を選んで投げてくれた。球は一度弾み、足元まで転がった。梶原が油性ペンで書いた小さな三角があった。浜田が追っていた球だった。

「ありましたよ」
牧野は拾って見せた。浜田は少しも嬉しそうにしなかった。グラブを下ろし、通り道の向こうを見た。男の子はもう自転車に乗って、下流へ走り去っていた。白いものの前を通ったはずだったが、そこでは速度も落とさなかった。

「こっちの人も、持ってます」
浜田が言った。
牧野はもう一度見た。白い丸がある。初めに球だと思ったものだった。その下へ肌色が続いている。丸いものを手に持っているのか、先の丸い手がこちらへ出ているのか。見れば見るほど分からなくなった。浜田なら、もう少しはっきり見えているのかもしれない。
「どんな人ですか」
浜田はすぐには答えなかった。

「そっちからだと、見えます?」

牧野は浜田の顔を見た。さっきまで笑っていた口が開き、上唇に汗が浮いていた。浜田は牧野のいる方へ身体をずらし、草から足を引き抜いた。靴が出る時に少し傾いたので、牧野は肘へ手を伸ばした。触れる前に、浜田は踏ん張って芝へ戻った。
「男の人、ですよね」
言いながら、牧野の肩越しに見た。牧野は頷けなかった。

「もうちょっと」

すぐそばで声がした。白いものは動いていない。さっき遠くに聞こえた声と同じ、少し鼻にかかった言い方だった。浜田が頭を引いた。牧野も川から離れ、周りを見た。刈った芝ばかりで、隠れられるものは何もなかった。浜田は耳の横へ手をやった。何かを払うように動かしかけ、指を止めた。
「今、いましたよね」
目の前の形のことなのか、声のことなのか。牧野は訊けなかった。

梶原が歩いてきた。牧野の握る球を見ると、何だ、あるじゃないか、と言った。浜田が、あそこにも人が、と指した。梶原は指の先を見た。長く見ていた。バットを右から左へ持ち替え、また右へ戻した。
「球はあったんだから、もういいだろ」
「でも、呼ばれて」
「分かった、分かった」

梶原は牧野の背を叩いて、内野へ歩きだした。牧野は二、三歩ついていき、浜田が来ていないのに気づいた。草に背を向けて立ち、両手でグラブを潰している。目が合うと、ちょっと待ってください、と言った。牧野は川へ目をやらず、浜田の顔だけを見た。
「帰りましょうか」
エアコンのことを思い出した。まだ十時にもなっていない。今から家へ帰って待ってもらえばよかった。

浜田が頷きかけた時、そのすぐ横から、ここへ、と聞こえた。

牧野は浜田の足元を見た。影が一つあるだけだった。土のついた靴と、その後ろの芝が妙にはっきり見えた。顔を上げて確かめれば、何もいないはずだった。それができなかった。
「何だって?」
梶原が大きな声で訊いた。浜田に向かっていた。今の、聞こえましたか、と浜田が答えるのに重ねて、梶原は、よし、切り替えよう、と叫んだ。
内野から、切り替えていこう、と返ってきた。

その声に、牧野は少し楽になった。離れた仲間が手を上げている。隣のグラウンドでは試合が始まり、捕手が立って球を投げていた。立ち止まっているのは、ここにいる三人だけだった。早くあちらへ戻れば、このまま午前中を終えられるのではないか。牧野は内野を見た。

浜田は戻らなかった。
「ちょっと、喋らないでもらえますか」
梶原が笑った。
「気にするなって。誰でも最初はそうだから」
「野球のことじゃなくて」

浜田は声を荒らげなかった。牧野の名を呼び、すぐ左の何もないところを指した。そこを見てほしいという。牧野は下を向いたまま梶原へ近づいた。肘を掴まれ、すぐそばへ引き寄せられた。川へ行くわけでもない。立っている梶原の腕から、力だけが伝わってきた。

「そこにいるんです。さっきから」

牧野は顔を上げた。浜田の肩の上に、白いものが見えていた。川際に見えたのと同じなのかは分からなかった。肩の向こうで何かがゆっくり折れ曲がった。大きさも距離も、見ようとするたびに違う。浜田がこちらを見ている目だけは、くっきりしていた。
「見えますか」
牧野は口を開けた。横で梶原が息を吸った。

「声、出していこう」

牧野も声を重ねた。おう、と、喉が痛くなるほど大きく叫んだ。内野の何人かが返事をし、守備へ散った。梶原の手が肘から離れた。牧野は浜田を見ずに走りだした。手に球がある。投手の方へ投げると、いつもの高さを飛んでグラブへ収まった。

背中から浜田が呼んだ。牧野は止まらず、内野へ向かった。
「次は俺が外野へ入るから」
相手のチームにも聞こえる声を出した。後ろで梶原が、声出せ、声出して、と繰り返していた。その合間に浜田の、お願いします、という声が入った。牧野は投手の返球を受け、はいもう一本、と叫んだ。

浜田が走ってくる音がした。また牧野の名を呼ぶ。仲間が一人、何だどうした、と訊いた。牧野は浜田にグラブを向け、ここで一緒にやろう、と言った。浜田の話が聞こえる前に、球を投げ返した。浜田の左手には、駐車場で梶原が渡した柔らかいグラブがあった。

戻ってきた球を、浜田が横から取った。捕るとすぐにグラブを胸へ抱え、牧野の前に立った。
「もうやめてください」
向こうで球を待つ仲間が、早く寄こせ、と手を振った。牧野は浜田へ右手を差し出した。グラブごと返してくれてもいい。浜田が帰ると言えば、梶原にもそう説明できる。

浜田はその手を取らず、牧野の顔の左側を指した。
「ここです。ここに、いますよね」

牧野はそちらを見た。何かがあった。最初に白い球だと思った丸い部分が、頬に触れそうな所にあった。表面に細かい皺が寄っている。そこを辿れば、どこかで腕や顔に行き着くはずだった。目を動かすと、浜田の帽子も、グラブの縫い目も、向こうで手を振る仲間も見えた。見えない所は何もなかった。それなのに、その形だけが分からなかった。

左耳で、もうちょっと、と声がした。
浜田は唇を噛んだまま、牧野を見ていた。また訊かれたら、今度こそ答えなければならない。牧野は梶原を振り返った。梶原も黙っている。バットを持ったまま、牧野の口元から目を離さなかった。

牧野は浜田のグラブへ手を掛けた。
「球、返して」
それなら、また声を出す用事になる。浜田は胸からグラブを離さなかった。牧野はその中の普通の白い球を、いつまでも返してくれと頼んだ。

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