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うしろも短く

さやかの髪を切るくらいなら、私にもできる。頼まれた時には、借りを一つ返せると思った。

転んで足を折った去年の冬、私は一人では買い物にも行けなかった。さやかは仕事の帰りに寄り、冷蔵庫の中を見てから必要な物を買ってきてくれた。代金を渡そうとすると、立つなと叱られた。食べ終わった容器まで持ち帰るので、私は寝たまま、友人がごみを分別する背中を見ていた。

同い年の友人だった。二十代のころ、同じ美容院で働いていた。私は結婚を機に辞め、さやかは別の仕事に移った。近所の人や家族の髪を時々切るだけになって、もう二十年以上経つ。現役の人のようにはできないと言うと、揃えてくれればいいから、と彼女は答えた。

土曜の夕方、自宅の台所へ折り畳み椅子を出した。前に姿見を立て、床へ新聞紙を敷いた。さやかは買ってきた焼き芋を二本、流しの上へ置いた。
「食べてからでいい?」
「終わったらお茶にしよう。髪についちゃうから」
私が言うと、彼女は素直に椅子へ座った。

髪は背中の真ん中まであった。前はいつも肩につくくらいで切っていたから、結わえた束をほどくと、随分長くなったように感じた。
「もう全部、短くして」
さやかは姿見の中の私へ言った。
「どのくらい」
「顔が出るように」
私は耳のあたりで指を揃え、これくらいかと確かめた。さやかは頷いた。後ろも、前と同じくらいでいい、と付け加えた。

長い髪を切ったことは何度もある。それでも、鋏を入れる直前にはもう一度訊く癖があった。あとで惜しくなっても、元へは戻せない。
「本当にいい?」
さやかは笑った。
「そのために来たんだから」

首へタオルを巻き、昔使っていたケープを掛けた。肩のあたりで髪を分け、右側から切り始めると、さやかが泣きだした。小さく鼻を啜るのではなく、息を詰めて、椅子の上で身体を折った。私は鋏を離した。鏡の中で、両方の目から涙が落ちていた。

「どうしたの。どこか痛い?」
さやかは首を振った。私が肩へ触れると、その手へ頬を押しつけた。指の間に涙が入った。口が何か言おうと動いたが、言葉にはならなかった。
「やめようか」
私が訊いた途端、彼女は背を起こした。
「何で」
声も顔も、先ほどのままだった。頬に濡れた筋だけが残っていた。

驚かせないでよ、と私は言った。さやかは、そんなに泣いていたかと訊いた。ふざけているようには見えなかった。私がタオルの端で頬を拭こうとすると、自分でする、と受け取った。
「続けて。ほんとに、切りたいの」
右側だけ短くして帰すわけにもいかなかった。私は水を出して飲ませ、十分ほど休んでから、もう一度ケープを掛けた。

左側を切る間は何も起きなかった。切った髪が重い束で床へ落ちた。さやかは姿見を見て、首が軽くなった、と言った。私もようやく、先ほどのことを本人へ訊けそうな気がした。暮らしの中で何かあったのかもしれない。私に頼んだのも、店では泣いてしまうからではないかと思った。

鋏を食卓へ置き、後ろの髪を持ち上げて首筋を出そうとした。

櫛の歯に、唇が当たった。

私は手を止めた。髪を右手で持ったまま、左手の櫛を少し浮かせた。さやかの襟足に、口があった。タオルのすぐ上だった。口の両側に顎の線があり、そこから上へ頬が続いていた。私は無意識に髪を高く上げた。鼻が見え、その上で目が二つ、眩しそうに細くなった。

さやかの顔だった。

鏡の中にもさやかがいた。私の表情を見て、どうしたの、と訊いていた。手の下にある顔は、何も言わなかった。鼻の横の小さなほくろも、下唇の傷の跡も、私が知っているものと同じだった。私は髪を放した。顔の上へ黒い束が落ち、口がその隙間で閉じた。

私は食卓の端にあった鋏を流しへ移した。金属が当たる音に、さやかが振り向こうとした。
「動かないで」
自分の声が大きすぎて、驚いた。さやかはすぐに前を向いた。
「見えた?」
私が頷くと、彼女は姿見から目を逸らし、膝の上で両手を合わせた。

私はケープの端を握った。外せばよいのか、覆っておいた方がよいのか分からなかった。
「いつから、そうなったの」
「いつからか、分からない」
「誰かに診てもらった?」
さやかは答えなかった。長い髪の下で、喉を鳴らす音がした。さやかの肩が一度だけ跳ねた。次に笑ったのは、前の顔だった。
「そんな言い方しないでよ。私なんだから」

私は椅子から離れた。玄関へ出て、誰かを呼ぼうと考えた。携帯は食卓の端にあったが、何を伝えればよいのか決まらなかった。さやかは立たなかった。姿見を見て、自分の頬を指の腹で拭った。泣いたあとの化粧を気にする、いつもの仕草だった。

呼鈴が鳴った。

さやかが、来た、と言った。私より先に椅子から立ち、ケープをつけたまま玄関へ向かった。私は追いかけた。戸を開けると、白髪を短く刈った女性がいた。薄い茶色の上着に、布の手提げを持っていた。
「平井です。お邪魔します」
彼女は私へ頭を下げた。私より十ほど年上に見えた。さやかが、前に髪を切ってもらっていた人なの、と紹介した。

平井さんは私の返事を待たずに靴を脱ぎ、上がり框へ手をついた。
「足は、もう大丈夫なんですね」
私はその場で立ち止まった。さやかから聞いたのだろうとは思った。それでも、初めて会う人に身体の具合を訊かれるのは嫌だった。
「どうして、こちらへ」
私が訊くと、平井さんはさやかを見た。
「短くするなら、私も来た方がいいと思って」

二人が私の知らないところで相談していた。そのことは分かった。平井さんは流しの焼き芋を見ると、いつもお好きですものね、と言った。私が好きなのか、さやかが好きなのか、訊けなかった。
「そちらの椅子でいいですか」
私が使っていた姿見の前まで行き、平井さんは手提げを置いた。中から櫛を出した。

私は、この先も切るとは決めていません、と言った。
平井さんは櫛を置き直した。
「もちろん。ご本人が決めることですから」
さやかが私へ手を合わせた。
「お願い。今日は、ここまでにしないで」
後ろの髪だけが肩を越え、左右は顎まで切れていた。彼女の姿を見て、私は初めて、自分がどこまで切ったかを思い出した。

「病院へ行った方がいいと思う」
私が言うと、さやかは顔を伏せた。涙が一粒、足元へ落ちた。平井さんが髪を持ち上げた。さやかの後頭部にある目は開いていて、私をじっと見ていた。
「この人、またそう言う」
後ろの口が言った。私は後ずさりし、食卓に腰をぶつけた。

「自分はちょっと痛いだけで、夜でも来いって呼ぶのに」

去年、転んだ晩のことだった。夫は出張していて、私は玄関で動けなくなった。さやかを呼ぶと、寝ていたのにタクシーで来てくれた。面倒だったでしょうと、あとで何度か謝った。そのたび彼女は、あんなことで何を言っているの、と答えた。
私は前の顔を見た。さやかは俯いていた。

「そんなふうに思ってたの」
私が訊くと、前のさやかが顔を上げた。
「それだけじゃないよ」
それだけ、という言葉を、私はしばらく呑み込めなかった。後ろにいるものを他人だと言ってくれるのを待っていた。さやかは私を見たまま、何も取り消さなかった。

平井さんは持ち上げた髪を少し下げた。後ろの顔に影がかかった。
「お二人で話して。私は外へ出ていますから」
平井さんは櫛を手提げへ戻し、それを持って台所から出た。玄関で靴を履く音がした。戸が閉じたのを確かめてから、私はさやかの横へ椅子を引いた。
「怖いの」
ようやく言えた。
さやかは頷いた。

「髪で、ずっと隠してたんだ」
「隠してた」
「私の家へ来てた時も」
さやかは首を動かさず、目を閉じた。後ろの口が、来てたよ、と答えた。
私は、布団から彼女の背中を見ていた日々を思い出した。流しで皿を洗っていた背中。低い棚からごみ袋を取るために、こちらへ頭を下げた時。私は髪しか見ていなかった。寝起きの顔や、泣いていたところを、向こうは見ていたのかもしれなかった。

「帰ってもらってもいい?」
さやかは立ちかけた。けれど、椅子の上で手を開き、また座った。
「このままは困る」
私は黙った。
「あなたに切ってほしかったのは本当だから。そこは、嘘じゃない」

私は鋏を見た。途中で放したので、刃に髪がついていた。あとで平井さんに切ってもらえばいい。そう言いかけて、さやかの顔を見た。涙を拭った化粧が、片方の頬だけ薄くなっていた。私は長い付き合いの間に、この人のきれいな顔も、嫌いだった言い方も、両方見てきたはずだった。けれど、背中の方に同じ目が開くと、知っていたことまで全く役に立たなくなった。

「切ったら、帰って」
私が言うと、さやかは、分かった、と答えた。

私は彼女を座り直させ、自分の櫛を取った。後ろの髪を小さく分け、顔の上へ落ちないよう留めた。もう一つの顔が露わになった。顎を引かれると後ろの顔が上を向くので、私は頭の真横へ立ち、あまり動かさないよう頼んだ。どちらの目も、私を追った。

後ろの顔は、さやかに似ているだけではなかった。私が鋏を耳の際へ寄せると、唇を片側へ引いた。耳を切られないよう身を固くする癖まで同じだった。私は指で耳を避け、髪だけを切った。短い毛が頬へついた。さやかは両手をケープの下に入れていたので、私は刷毛で払った。後ろの口が、ありがと、と言った。

私は返事をせず、前へ回った。前の顔は、唇の内側を噛んでいた。
「短すぎない?」
「大丈夫。後ろに合わせる」
そう言ってから、誰の顔に誰を合わせているのか考えかけた。鋏を動かす間は、前髪の長さだけを見た。一人分を切り終えたところで、いったん立ってもらい、椅子を反対へ向け直した。座り直すと、後ろの顔が姿見に向き、前の顔が私を見る形になった。

姿見を見た口が、ああ、と言った。
さやかの両肩から力が抜けた。私は鏡に映った顔を見た。下唇の傷の跡が、笑うと少し引きつった。私がよく知っている笑い方だった。
「やっと見えた」
私へ向いた前の口が、よかったね、と言った。

私は椅子から手を離した。
「もういい?」
さやかは頷かなかった。両手を上げ、髪に触った。片方で前の頬を、もう片方で後ろの頬を撫でた。同じ顔のはずなのに、笑っている方と、涙の跡が残っている方とでは、触る時の指の力が違っていた。
「平井さんに、鏡を出してもらって」
さやかが言った。

私が玄関を開けると、平井さんは戸のすぐ脇にいた。
「済みました?」
私は頷いた。彼女は手提げから小さな鏡を出した。中には、同じ鏡がもう一枚入っていた。
「一枚じゃ足りないでしょう」
そう言い、先に立って台所へ戻った。

平井さんが手鏡をさやかへ渡した。姿見と手鏡で、二つの顔をいっぺんに見られるようにした。姿見へ向いた口が、きれい、と言った。平井さんはケープを外し、タオルの下に溜まった髪を払った。首の前にも後ろにも、顎があった。両方とも、外へ出られる長さになっていた。

私は二人を玄関へ送った。焼き芋を袋に戻して渡すと、さやかは、あなたの分もあるのに、と言った。
「今日は食べない」
私が答えると、後ろの顔が笑った。前の顔は袋を受け取るために私を向いていた。
「そうやって、また食べないんだ」

私は戸へ手を掛けた。さやかがその手を取った。
「来週も来ていい?」
私は首を振った。声は出せた。
「来ないで」

さやかは手を離した。玄関から出て、平井さんの隣へ並んだ。私に背を向けていたが、もう背中を見ている気がしなかった。さやかの顔がこちらを向き、さっき拒まれたばかりなのに、少し笑った。
「こっちには、まだ訊いてないよ」

私は戸を閉めた。閉まり切る前、前を歩く平井さんが振り向かずに、今日は帰りましょう、と言った。さやかは二度返事をした。一つは私のよく知る、少し甘えた返事だった。もう一つも、知っていた。

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