姉の家へ着くと、甥はもう帽子をかぶっていた。
居間の床に座り、テレビではなく、閉まった襖を見ていた。私が名前を呼ぶと、立ち上がって廊下へ来た。靴下の片方が裏返しだった。
「航、そっち直して」
言いながら腰を下ろすと、航は私の肩へ手を置いた。六歳になっても、靴下を直すあいだ片足で立っていられない。私はかかとの袋を回し、つま先を引いてやった。早く行こう、と言われた。
姉は洗面所にいた。制服のブラウスを着て、鏡の前で髪を留めている。休日なのに職場から呼ばれたのだという。もともと昼に航を連れ出す約束だったが、昨日の電話で十時にしてほしいと頼まれた。
私は嫌だとは言わなかった。その代わり、電話を切ってから、せっかくの休みに、と夫へこぼした。航に会えば、早く来てよかったと思う。それもいつものことだった。
「夕方まででいいんだよね」
鏡へ向かって聞いた。姉は口にくわえたヘアピンを取り、うん、と答えた。
「五時には戻るから。二人、お願いね」
航と私で二人、という言い方だと思った。
襖の向こうは、ほとんど使っていない四畳半だった。姉が離婚したあと、仕事用の服や航の冬物を置く部屋になっていた。私は以前そこで昼寝をしたことがある。エアコンの冷気が直接来ず、夏でも畳がひんやりしていた。
襖の下から、細い黒いものが出ていた。
ベルトだった。先端にある五つの穴が見えた。姉が制服に使っているものだ。私が拾い上げると、襖の向こうから緩く引かれた。引っかかっているのかと思って手を離したが、ベルトはそのまま畳へ戻っていった。
「お姉ちゃん、誰かいるの」
洗面所のドライヤーは止まっていた。
「いるよ」
姉はすぐ答えた。誰が、とは聞き返せなかった。航が私の袖を引いたからだ。公園へ行く前に、駅で電車を見たいと言った。
姉は半年ほど前から、航に遊び相手ができたと話していた。家へ来る子らしかった。名前を聞いたことはなかったが、休みの日も遊びに来ると言っていたので、同じ団地の子だろうと思っていた。姉が忙しい日には、その子が来てくれるから助かる、と。
小さい子に姉のベルトを触らせるのはよくないと思った。前の留め金が大きく、振り回せば顔に当たりそうだった。
「お友達も来てるの?」
航は唇を内側へ引いた。考えているときにする顔だった。
「お友達じゃない」
洗面所から姉が出てきた。髪が濡れたままで、片耳だけ出ていた。
「ベルト、使ってるのね」
私が何を言ったか聞いていなかったようだった。姉は襖を少し開け、もういいですか、と尋ねた。誰かに丁寧な言葉を使っている。それだけで、知らない大人がいるのだと分かった。
男の人が座っていた。
私のいる廊下へ背を向け、低い机に両肘をついていた。灰色の長袖を着ている。机の上には航の色鉛筆が散らばっていた。赤い一本だけが指に挟まっていたが、紙はなかった。
姉は机の脇からベルトを取った。
その人の腰に巻かれていたのではない。机の端に、留め金を外した輪になって載っていた。姉が持ち上げると、男の右手が輪の中から抜けた。何をしていたのかは分からなかった。
「妹です」
姉に言われ、私は会釈した。
「いつも航がお世話に」
そこまで言ってやめた。男は顔を上げなかった。聞こえていないのかと姉を見ると、姉はもう自分の腰へベルトを回していた。
男の襟足が、妙に長かった。刈り上げたあと、ずっと伸ばしたような髪だった。耳の先が片方だけ髪から出ている。肩幅は姉より広かった。若いのか、年配なのかは分からなかった。
私は姉の交際相手かもしれないと思い、何も言わないことにした。紹介されたことはない。だからといって、航の前で聞く話でもなかった。
姉に水筒を渡され、袋へ入れようとした。その袋も、男の脇にあった。
航が一歩だけ部屋へ入り、すぐ戻った。取りに行けないらしかった。私は、すみません、と言って畳へ上がった。
机の右側へ回り、袋の持ち手をつかんだ。
そこからも、男の背中が見えた。
さっきは廊下から背中を見ていた。私が机の横へ来たのだから、頬や鼻が見えるはずだった。灰色のシャツの背中には、同じ斜めの皺が寄っていた。襟足から出た耳の先も、変わらない場所にあった。
顔をそむけたのだと思った。
私が近づいたから。あるいは、顔を見られたくない事情があるのかもしれない。私は袋を引き寄せ、狭くなったところを通らず、来たほうへ戻ろうとした。
男の指から、色鉛筆が落ちた。
鉛筆は机の下を向こうへ転がった。一本拾うくらいで終わるはずだった。私は机の端を回り、男が向いているはずの側へ出てしゃがんだ。机の下をのぞくと、男のかかとが二つ並んでいた。
私はしゃがんだまま固まった。
ズボンの裾に足首の後ろがのぞき、片方の靴下がかかとの下で余っていた。こちらに爪先は出ていなかった。
「拾わなくていいから」
姉の声で顔を上げた。
男の両肩のあいだに、さっきと同じうなじがあった。机の端を回っても、背中の斜めの皺は同じ形をしていた。
私は色鉛筆を机へ置いた。赤い芯が折れていた。男の手が伸び、鉛筆を取った。指は私へ向かって出されたのに、手の甲と手首の細かい毛が見えた。どう持ったのかを確かめる前に、畳を離れた。
「誰、あれ」
姉の耳へ顔を寄せた。
姉は眉を上げ、それから航を見た。
「びっくりした?」
「誰なのって」
聞き直すと、姉は持っていた化粧道具を洗面所の棚へ置きに行った。
航は廊下の壁へ背をつけていた。かぶった帽子のひさしを、何度も押し下げていた。
「お母さんのお友達?」
私が聞くと、航はまた違うと言った。子供へ尋ねても仕方がないことだったが、姉より航の返事のほうが信用できた。
「あの人、見てるだけ」
姉が戻ってきた。口紅まで塗っていた。
「最初は、航も嫌がってなかったの」
誰かと同じ部屋にいるだけで、航が静かになることがあったという。食べ散らかしても、その人は叱らなかった。積み木を全部崩しても、散らかったまま座っていた。姉が部屋から離れても、航がついてこなくなった。
「どこで知り合ったの」
「知らないのよ。初めは、上の部屋の人かと思った」
私は姉の顔を見た。
「だったら、そう聞けばよかったじゃない」
「聞いたよ」
姉は短く言った。聞いた結果は話さなかった。
航がトイレへ行った。扉を閉める手が遅く、私がいるのを確かめてから鍵をかけた。姉は廊下の真ん中に立ち、私が四畳半へ戻るのを避けるようにしていた。
「前から、顔はああなの」
私は小声で聞いた。顔は一度も見ていなかった。姉は頷いた。
「だったら、何で入れるの」
「入れたんじゃない」
姉は自分のブラウスの袖を引いた。
洗濯物が、いつも畳む前に広げられていた。自分の物を航のせいにして叱ってしまったこともあった。そのうち男がいるようになったのだという。何も壊されず、財布にも触られなかった。姉は、帰らないから、と言った。
私は電話を出した。姉は止めなかった。むしろ、ほっとしたように肩を下げた。それが腹立たしかった。いくら私が警察に説明しても、どうやって来た人かは姉が話すしかない。
そのときトイレの水が流れ、航が廊下へ戻った。
「航だけ、先に外へ出す」
私が言うと、姉はそれじゃ駄目なの、と言った。強くは言わなかった。その弱さが嫌だった。出すのか出さないのか、自分で決めたくないときの声だった。
「今日だけでいいから、二人とも連れていって」
私は、手の中の携帯を見た。
姉は昨日の電話でも、二人をお願い、と言っていたのかもしれなかった。私が何を聞き流したかより、何を聞き流してくれると思われたかのほうが、急に分かった。
「航と、あの人?」
姉は頷いた。
「外へ出れば、帰るところを思い出すかもしれないでしょ」
そんなことは何も分からないはずだった。姉は目を伏せた。ベルトを締めたばかりの腰へ指を入れ、穴を一つ緩めた。
私は航の肩を抱いて玄関へ行った。水筒の袋は持っていたが、靴を履かせるとき邪魔になったので床へ置いた。
航は自分で靴を履いた。かかとを踏まずに両足を入れ、留めるところを強く押した。私は携帯を上がり框へ伏せ、航を先に扉の外へ出そうとした。
玄関のドアは、途中までしか開かなかった。
外に誰か立っていると思った。押すのをやめて、すみません、と言いかけた。けれど、背中に触れているのは私の左肩だった。廊下から来た灰色のシャツが、私と扉の間へ入り込んでいた。
男は、玄関の外へ背を向けて立っていた。
私は家の中からその背中を見ていた。首の後ろが、扉の隙間に白く出ている。さっき四畳半にいたときより近く、襟にたまった細い埃まで見えた。
航が私の後ろへ回った。足を蹴られたので、抱き上げた。大きくなっていて、腰が痛かった。航の手が私の耳をふさいだ。彼は私の頭を自分の胸へ引こうとしていた。
「見なくていい」
航が言った。「前、ないから」
廊下の向こうで、姉が壁へ手をついていた。私たちが出ていくのを待っている顔だった。
「お姉ちゃん」
私は呼んだ。
「こっち来て。航、持って」
姉はすぐには来なかった。私はもう一度、名前で呼んだ。
姉が航を受け取った。私は男に触れないよう体を細くし、ドアを少し閉めた。蝶番の側から手を伸ばし、上がり框の携帯を取ろうとした。男は押してこなかったが、背中と扉の隙間は狭いままだった。
上がり框へ屈むと、男のズボンの裾が見えた。
片足だけが土間へ下りていた。そこには靴下のかかとがあった。もう片方は上がり框に残り、やはりかかとをこちらへ向けていた。どちらへ踏み出せば外なのか、足を見ても分からなかった。
私は携帯を拾った。
姉は航を抱えたまま、男から目を離していた。あの人を見ないで出かけることに、姉はもう慣れているのだと思った。航は私のほうを見ていた。
「二人って言ってたの、分かってた?」
姉へ聞いたつもりだったが、航が頷いた。
「あの人も、お休みだから」
航は言った。
私は姉を見た。姉は泣きそうな顔をしていた。男のいない部屋に一日だけいたいのだと、その顔から思った。
私は航をもう一度受け取った。姉の手が離れるとき、爪が航の袖へ引っかかった。姉はその糸を外そうとして、なかなか指を引かなかった。
「私、この人は連れていかない」
そう言うと、姉は頷いた。
姉はバッグを床へ置いた。男の脇へ近づき、廊下の奥を指さした。
「こっちへ戻ってください」
その丁寧な言い方を、最初に聞いたときのことを思い出した。姉は初めて会う人のように話していた。
男が片足を上げた。
正面がないのに、歩くのには困らないらしかった。姉が後ずさるのについて、廊下へ入っていった。私は航を抱いたまま土間へ下り、靴を履かずに一度、扉の外へ出た。
外の通路はいつも通りだった。手すりに隣の家の傘が掛かり、階下から洗剤の匂いが上がってきた。私は航を下ろし、開いた扉を足で押さえた。自分の靴はすぐ取れた。携帯も持っていた。
姉が、廊下の途中に立っていた。
その前に男がいた。私から見ると、男は姉へ背を向けていた。姉も同じ背中を見ているのだろうと思った。姉の目は、男の顔があるはずのあたりから動かなかった。
私は電話をかけた。知らない男が姉の家にいる、帰ってくれない、と伝えた。いつからかと聞かれ、姉へ聞き直した。姉は月を答えた。私が航を最初に一日預かった、その月だった。
到着まで外で待つようにと言われ、姉にも出てきてほしいと頼んだ。
姉は男の横を通ろうとした。男は止めなかった。追って来る様子もなかった。姉がこちらまで歩いてきて、私はようやく扉を大きく開けた。
姉は土間へ片足を下ろしたところで、私の後ろを見た。
航が、男へ背を向けていた。自分のかかとを揃え、手すりの向こうをじっと見ている。
男は家の中で、航のほうを向いているようだった。その男の背中を、私たちは外から見ていた。
私は航の正面へ回り、帽子のひさしを持ち上げた。
航の顔はあった。唇を噛んで、私を見ていた。私はその顔の前へしゃがみ、姉に扉を閉めてもらった。
航は私の肩へ両手を載せ、帽子のひさしを私の額に押しつけた。


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