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当たる前

桐子は、菓子折りを自分で買わなければよかったと思っていた。

弟は袋を受け取ると、中を覗いて、ここのは甘すぎるんじゃないかと言った。謝りに行く相手は七十を過ぎていた。年寄りなら甘いものは好きだろう、と桐子が返すと、透はそうだねとだけ答えた。自分で選びもせずに、失敗したときの理由だけ先に作る。昔からそういうところがあった。

透が自転車で人にぶつかったのは、二か月前だった。見通しのよい住宅街で、曲がり角を急いで曲がった。相手は歩いていた。倒れた拍子に左の手首を折り、頭も打ったと聞いた。桐子が病院の名前を訊くと、透は、もう入院はしていないと言った。尋ねられたことから、いつも少しだけ遠い答えが返ってきた。

菓子折りを持っていく話が出たのは、一週間ほど前だった。電話で見舞いを断られたので、直接行ったほうがいいのではないかという。なぜ姉も行かなければならないのかと訊けば、ひとりで行くより、ちゃんとして見えるから、と答えた。二人とも四十を過ぎていた。

桐子はその返事に腹を立てたのに、来てしまった。弟が若いころに借りた金を返し終えたことも、母の病院へ一人で付き添うようになったことも知っていた。今さら、いい加減な弟だと決めつけるのも違う気がした。けれど、駅から家までの道を調べたのも桐子だった。

脇田という人の家は、細い通りの奥にあった。二階の窓に座布団が干してあり、門の内側には自転車を置けそうな幅があった。透はそこを見て、歩いてきてよかった、と言った。桐子は返事をしなかった。

玄関が開くまで、少し待たされた。内側で何かを引きずる音がした。やがて脇田が顔を出した。痩せていて、頬のところに髭の剃り残しがあった。左手には何も巻いていなかった。透が名前を言うと、分かっている、と頷いた。
「姉です。今日は一緒に、お詫びに」
桐子が続けると、脇田は彼女だけを見た。
「あなたも来たんですか」

迷惑だったのだと分かった。桐子が外で済ませようとすると、脇田は上がるよう言った。透が先に靴を脱ぎ、桐子はその横に揃えた。玄関の敷居へ、細い傷が何本もついていた。家具を運んだ跡に似ていたが、傷は板の端から始まらず、真ん中で急に深くなっていた。

通されたのは居間だった。窓辺に椅子が一脚あり、その前に低い卓があった。桐子たちの側には座布団が出ていた。脇田は椅子へ腰を下ろし、左手を膝へ置いた。透は菓子折りを袋から出して卓へ置いた。紙の角が卓に触れたとたん、脇田が右肩をすくめた。

「このたびは、本当に申し訳ありませんでした」
透は頭を下げた。桐子も下げた。顔を上げる前、畳に灰色の砂が落ちていることに気づいた。掃除ができなかったのだろうと思い、足を動かして踏まないようにした。

脇田は、はい、と言った。それ以上は続かなかった。透が顔を上げ、桐子のほうを見た。ここから先を引き受けるつもりはなかったので、彼女は脇田へ向き直った。
「お加減はいかがですか」
脇田は左手を持ち上げた。指は全部曲がった。手首を少し返して、戻した。
「骨はついたと言われました」
「よかったです」
透がすぐに答えた。

桐子は弟の膝を見た。手が楽になった話なのか、謝罪が終わる話なのか、透の声からは分からなかった。脇田は二人を見ず、窓のほうへ顔を向けていた。横顔がひどく白かった。

最初の音は、窓からした。
小石がぶつかったような音だった。桐子が目を向けると、ガラスの真ん中に白い点が一つあった。点から細い線が伸びた。脇田はそれを見ないまま、右の肩を持ち上げていた。

透が、何か当たりましたね、と言った。外には狭い庭しかなく、塀の向こうに隣家の壁があった。桐子は立ちかけた。脇田が手を上げたので座り直した。
「そこはいいです」
彼は椅子の肘掛けを、右手でつかんだ。

椅子が動いた。床を滑ったのではなかった。左の前脚だけが、横へずれた。座面はそのままの高さにあるのに、木の脚の途中がゆっくり曲がった。桐子は自分の膝を押さえた。脇田の身体も、椅子と同じ側へ傾き始めていた。

「危ないですよ」
透が腰を上げた。脇田は、来ないで、と言った。叱るような声ではなかった。息を吸うのに失敗したような、短い声だった。

左の肩が低くなり、脇田の首だけが反対へ引かれた。首を支える筋が一本、皮膚の下に浮いた。透が手を出したとき、卓の上の菓子折りが跳ねた。二センチほど浮き、角から落ちた。包装紙に細かな穴が開いた。

桐子は弟の袖を引いた。透は膝をついた姿勢で止まり、菓子折りを見ていた。箱の横腹に、黒い線が斜めに走っていた。油のように光っていた。脇田の足元にも同じ線があり、そこから灰色の砂が畳へ落ちた。

「またですか」
透が言った。

桐子は弟の袖を放した。脇田は何も答えなかった。彼の右手が肘掛けから外れ、空中で何かを押し返す形になった。指は伸びていた。掌の中央が少しずつへこみ、血が滲んだ。

桐子は携帯を出した。
「救急車を呼びます」
「今は、待って」
脇田が言った。自分で止められるから待てという顔ではなかった。口を横へ引かれ、歯の間から唾が垂れていた。桐子は弟を見た。透は、いつも少しすると戻るんだ、と言った。

いつも。
彼女はその言葉を、もう一度訊き返した。
「ここへ来たこと、あるの」
透は答えず、脇田の椅子を見た。右の後脚が畳から離れ、座面が斜めになった。脇田は落ちなかった。身体は椅子の上に留まっていた。左の踵だけが床へ擦りつけられ、靴下の白い糸がほどけていった。

桐子は電話をかけた。住所を言い、七十代の男性が椅子から落ちそうで、身体を動かせない、と伝えた。何が起きているのかを一息に話そうとすると言葉が続かなかった。怪我はあるかと聞かれ、掌から血が出ている、とだけ答えた。電話をスピーカーにして畳へ置き、両手を空けた。

脇田が、来ないでと言ったばかりの透へ、右手を伸ばした。
その手は弟の袖へ届かなかった。途中で手首が折れ曲がるように下がった。今、何が彼を押しているのか、桐子には見えなかった。窓ガラスの細い線だけが長くなり、庭で干してあった雑巾が一枚、風もないのに裏返った。

透が立ち上がった。桐子は弟が助けると思った。けれど透は卓を回り、居間の戸口へ下がった。脇田はそのほうへ顔を向けようとしていた。頭が少し動くと、首元のシャツが引きつれて、小さなボタンが飛んだ。

「こっちを見ないでください」
透が言った。
桐子は、何を言ってるの、と弟へ顔を向けた。透は両手を胸の前に上げていた。
「謝りに来たんですよ。今日は、そのために来たんだから」

脇田の顔には、透を責めるような表情がなかった。目を大きく開き、口を閉じようとしていた。左の頬が、下から押されて形を変えた。何かにぶつかる前の、一瞬の顔だった。桐子はそう思ってから、いつまでその顔でいなければならないのかと怖くなった。

彼女は卓を横へ引いた。畳に擦れた大きな音がした。菓子折りが落ちた。箱の蓋が開き、個包装の菓子が三つ転がった。その一つが途中で潰れた。誰の足も届かない所で、丸い菓子が薄くなっていった。

「もう、やめてくれませんか」
透は脇田を見ずに言った。
「僕も、ずっと謝ってるじゃないですか」
桐子は手を止めた。弟は脇田の手ではなく、返事を待つように口元を見ていた。その顔に、桐子は覚えがあった。母が倒れたときも、困ったから姉を呼んだのに、姉が来ればもう困っていないような顔になった。

「私には、代わりに言えないよ」
桐子は言った。透は初めて彼女を見た。
「何を」
「もういいですよって」
透は返事をしなかった。

脇田の右手が畳へ触れた。椅子は横へ傾き、左の肘掛けが床のすぐ上にあった。それでも身体は座った形から動かなかった。掌の血が畳へつき、少しずつ横へ伸びた。桐子は押さえられる場所を探した。肩へ触れようとすると、その手前で自分の爪が欠けた。硬い物に当てた感触はなかった。爪の先だけが白くめくれ、指が熱くなった。

彼女は手を引いた。脇田の目が一度、こちらへ動いた。
「当たる」
彼は言った。今から当たる、と言うようだった。

桐子は弟を呼んだ。透は戸口の柱へ背中をつけていた。ここにいて、と言うと、帰らないよ、と答えた。それなのに片方の足は廊下へ出ていた。
「何度来たの」
「三回」
「いつから、こうなるの」
「分からない。最初から」
「それを何で言わなかったの」
透は答えなかった。

桐子は、弟がぶつかった時刻も場所も、正確には聞いていなかった。急いでいた、向こうも気づかなかった、もう病院から帰った。そういう話だけを聞いて、二か月経った今のことを考えていた。
脇田には、その二か月がどこにあるのだろう。

畳が鳴った。椅子の脚が床へ戻っていた。脇田の背も起きていた。瞬きする間のことだった。彼は右手を膝へ載せ、肩で息をしていた。窓のひびは残っていたし、菓子も潰れたままだった。掌から落ちる血を、桐子は洗面所で濡らしたタオルで受けた。

透が、よかった、と近づいた。脇田は右手を引いた。桐子のタオルからも離した。
「あなたが謝るのは、もう分かりました」
脇田の声は低かった。
「分かりましたから、今は黙っていてもらえますか」

透は口を閉じた。桐子は卓の下から携帯を拾い、救急へ、今は座り直せていることを伝えた。指の爪が一枚欠けたことは、自分のことだと言ってもすぐには伝わらなかった。彼女は言い直した。男性はまだここにいる。弟もここにいる。自分はその隣にいる。

脇田は靴下の破れた足を見ていた。
「散歩へ出ようと思ってたんです」
桐子は、今日はやめたほうが、と言いかけた。脇田は玄関ではなく、窓の外を見ていた。
「洗濯物を取り込んでからにしようかと思って。まだ乾いてなかったから、先に歩いてこようと思って」

透が膝を動かした。脇田は右手を上げ、顔の前で止めた。桐子も動くのをやめた。窓の外で、細かく金属が鳴った。惰性で進む自転車の、後輪からする音に似ていた。桐子は庭を見た。干した雑巾と塀があるだけだった。音は戸口のほうへ移り、透の後ろで大きくなった。

脇田のシャツの左肩が、少し持ち上がった。
桐子は弟の手をつかんだ。逃がさないためだったのか、自分が逃げないためだったのか、そのときには区別できなかった。透は痛いと言った。桐子は力を弱めたが、放さなかった。

脇田は窓を見たまま、まだ誰にもぶつかられていない人の顔で、右手を前へ出した。

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